第160話 なお、人権がなければプライバシーもないとする

 雨々先輩との話し合いが終わった私は、ふらふらの状態で準備室をあとにする。一刻も早くこの扉を閉めて、なんとなく気分的に先輩の視線を遮断したい。はいバタン。まだこちらを見てる気がしたけど、いくらか楽になった。気がする。


「大丈夫だったか?」

「サインしなくて良かったの?」

「サインしてないってことは、まだ喋っても大丈夫ってことよね?」


 井森さんは私から詳細を聞き出そうとするな。

 準備室から出ると、三人は私を心配そうに出迎えてくれた。まぁ井森さんについては心配そうな顔をしつつ大して心配してなかったんだけど。

 平気だよと答えながら、自分の鞄を手にすると、三人もそれに倣うように帰り支度を始めた。


「とにかく、何があったのかは言えない。ごめん。って言っても、大したことじゃないからさ」

「んー……まぁ、あの先輩ヤバそうだし、私らは深入りしないよ。ね、井森さん」

「そうねぇ。あそこまで強情な人、なかなかいないものねぇ」


 確かにそうかもしれないけどさ。あの先輩相手にあそこまで粘れるの、井森さんくらいだよ。

井森さんは先輩を変わった人扱いしてるみたいだけど、私に言わせれば二人共充分イカれてる。


「いいのか? 先輩、なんかすごい形相だったけど」

「う、うん。ほら、笑ってるの見たでしょ?」

「あぁ、なんか急に笑い出したよねー! 逆に怖いしって思った!」


 とりあえずポジティブな印象を持ってもらおう。あんまり怯えてると志音は心配しそうだし、井森さんの好奇心を煽りたくもない。


「もう帰っていいって言われたよ」

「へぇ。で、サインは?」

「しなくていいって。守秘義務も何も、何も見てないならこんなの書く必要ないってさ」


 もうやだ。私、こういう嘘つくの苦手。だけどここは絶対に上手く切り抜けなければいけない。もうひと踏ん張りだ。

 私達は外へと続く廊下を歩きながら雑談を続ける。


「なるほどな。あの手のサインって、結構怖いよな」

「分かるー! 悪用されたりとかさー、いざってときのこと考えちゃうし。別に何も無かったなら」

「おかしいじゃない」


 志音と家森さんは不思議そうな顔を、私は油が切れたロボットのような動きをして振り返った。立ち止まった井森さんの表情は冷ややかだ。


「え、何が?」

「あの先輩の”殺しちゃうかも”って言葉、冗談には聞こえなかったわ」

「あー……」


 井森さんの言う通りだって一瞬思ったけど、冗談には聞こえないようなそんなヤバげな言葉を投げかけられて平然としていられたって、井森さんヤバくない?

 しかし、そこをツッコむと、恐らくかなり脱線する。私は苦渋の決断でそれを心の中に留め、話を進めることにした。


「見られたら困る場所? の可能性があったからって言ってたよ。それがどんなものなのかは分からないけど。先輩が笑ってたでしょ? あれは、私がダイブしたVP空間が、見られても何ら問題ない空間だって分かったからなの」


 言ってることに矛盾はない筈だけど、私べらべら喋り過ぎでウケるね。へったくそ。

 しかしここまで言うと、井森さん達は「そうだったんだ」と言って引き下がってくれた。もしかしたら、「あ、これ本当に深入りしたら可哀想なヤツ」と遠慮された可能性もあるけど。ほっといてくれるならもうそれでいい。


 そして校舎の前で二人と別れると、私と志音は歩き出した。まだ日が高い。家に帰ったら何をしよう。

 帰宅後の事を考える私とは対象的に、志音だけはさっきの話がまだ腑に落ちていないようだ。


「お前。さっきの嘘だろ」

「……嘘ついたって分かってるなら、そういうことにしといてよ。本当のことを言える状況じゃないの、分かるでしょ」

「別に、それはいい」


 志音は前を真直ぐ睨んでそう言った。

 ねぇ、私には誰も見えないんだけど、誰か見えてるの? そしてその人のこと嫌いなの? そう聞きたくなるくらいに、むすっとしている。


「なんで怒ってるの?」

「……怒ってる訳じゃない」

「じゃあ何?」

「お前が心配なんだよ。分かれよ」

「え? 別れたいの?」

「ちげぇー!」


 志音はもどかしい気持ちを爆発させて大声を出した。びっくりしたんだけど。なんでそんなに余裕なくなってるの?


 少し間を置くと、志音はぽつりぽつりと語り出した。私の言ったことを嘘だと思った理由について。

 まず、志音が部屋から戻った時点で、私は普段と違った様子でいたらしい。違和感の正体を探るように成行きに身を任せていると、突如始まった犯人探し。この時から私の怯え方が半端じゃなかったとか。

 だから、大した物は見ていないようで、サインも見逃してもらった、という言葉が嘘としか思えないみたい。あと、先輩と井森さんのやりとりを聞きながら私と志音が手を繋いでいた件について、私からガシッと掴んできたとか言い出した。これは嘘、志音がちょっと盛ってる。いや、怖過ぎて全く記憶ないけど、私の心が嘘だと思えって言ってる。


「だからマジなんだって! お前がいきなりあたしの手を盗むようにしてぎゅってしてきたんだって!」

「志音、理想と妄想をごっちゃにしちゃダメだよ……」

「あたしが嘘つきみたいな流れやめろ!」


 この件については何度か問答を繰り返して、やっと志音が折れた。ごめんね、こんだけ言い合っといてなんだけど、多分私が志音の手を掴んだと思う。でも「あーあー分かったよ。はいはい、あたしが握ったよ」って言ったんだから、もうそういうことにしとこうね。はー、志音って頭おかしいくらい優しい。


「お前、なんかヤバいモン見たんだろ」

「……」

「何を見たとかは話さなくていいから。正直に答えてくれ」


 志音の言うことはわかる。こいつの性格的に、気休めなんて欲しくなくて。ただ、せめて危険な状態にあるならそうだって、知っておきたいんだろうなって。


 私は無言で頷く。

 すると、志音は頭をぐしゃぐしゃと掻いて、やっぱりかとだけ呟いた。


 何も知らない志音が可哀想で、私はヒントのようなものをどうにか出せないか考えてみた。なかなか思いつかなかったけど、私と志音の分かれ道、またねと言う直前にやっとそれっぽいことが頭に浮かんだのだ。


「あぁそうだ」

「なんだ?」


 志音は難しそうな顔をしている。悔しそうとも言えるし、悲しそうとも言える。とにかく、「もう少し笑いなよ」と言いたくない表情であることは間違いなかった。


「さっき、雨々先輩に私達付き合う事になったって言ったから」

「そうか」

「それじゃ、またね」

「おう。明日連絡する」


 私は軽く手を振ると、通い慣れた道を歩く。コンビニの前の信号待ち。ふと、窓ガラスに映った自分の前髪が随分と伸びていることに気付く。そういえば、入学してから髪切ってないや。近いうちに行こう。

 そうして青になって歩き出す。信号を渡り切ったところで、バンと強く肩を掴まれた。何事かと思い、勢い良く振り返ると、そこに汗だくで肩で息をする志音がいた。


「はぁ……はぁ……」

「え? 何?」

「え? 何? じゃねーーーよ! あんまりあっさり言うからスルーしたろうが!」


 え、わざわざツッコむ為に引き返して走ってきたの?

 怖。


「おまっ、知恵達とは訳が違うっていうか、周りに黙ってたいって言ったのお前だろ!」

「大丈夫」

「はぁ?」

「分かんないけど、多分、大丈夫だから」

「……なんだよ、どういうことだよ」


 それは教えられない。何が起こったのか伝える為の、あくまでヒントを出したかっただけだし。私はそれを志音に告げると、げんなりした様子で「あっそう……」とうなだれた。


 その時、私のケータイが鳴る。その着信音に聞き覚えはない。志音は隣にいるし、この音はお母さんじゃない。


「なんで……!? 志音とお母さんの他に、誰が私に電話を……!」

「夢幻……」


 心から驚いていると、未だかつて見た事がないくらいに優しい表情をした志音にそっと抱き締められた。めっちゃ同情されてる。キレるぞコラ。っていうか電話に出たいんだけど。

 うざったそうにもぞもぞ動くと、ご丁寧に後ろからハグし直してくれた。道の隅に寄ってこんなことしてる高校生怪しくないかな。いや高校生関係ないわ、どんな年代でもこんなことしてたら怪しいわ。


 私は身体を志音に預けたまま、電話を取る。その声には聞き覚えがあった。忘れるはずがない。ついさっきまで対峙していた、先輩のものだったのだから。

 ねぇ待って。なんで先輩が私の番号知ってるの? 連絡先交換してないよね? 少なくとも私のケータイには番号登録されてないんだけど? プライバシー云々とか言ってるくせに私のそれを軽く扱い過ぎでは?

 

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