インターバル
第47話 なお、キ☆スとする
薬品の独特の臭い。座り慣れない椅子、黒い机。そう、私は理科室に居た。物理の授業中だが、実験はしていない。机の上にあるのはそれぞれの教科書とノートと筆記用具くらいだ。
ちなみに、このあとも実験の予定は無い。先生はこの教室で授業をしたかっただけらしい。私達の本日の時間割に体育などがなく、ずっと教室での授業であることを不憫に思ったそうだ。
加えてたまたま理科室が空いていたという理由から、私達は背もたれの無い椅子に座る羽目になっている。
確かに、気分転換にはなる。しかしこれは些かやりすぎだ。私の隣には志音が、向かいには知恵と菜華が座っていた。もうこの時点で集中出来ない。濃い、濃すぎる。
「なんでこんな座り方してるの? メンツが既に授業妨害じゃん」
「しかたねーだろ、こいつらが付いてきたんだから」
「いやアンタもだよ」
「んでだよ、あたしらはチームだろ」
「それは情報技術の時だけじゃん」
「お前、まだあたしと付き合ってるって噂を気にしてんのか?」
志音は順応が速すぎると思う。ボイネコとかいう単語が出回った時には、私と一緒になってショックを受けていたというのに。結局のところどうなんだと問いただされても「想像に任せる」なんて返答をするくらいに余裕なのだ。
アンタ、私に鳴かされてるゲスな妄想されて平気なのか。志音の受け答えを初めて聞いた時はもちろん抗議した。だけど、「こいつらがいつまで勘違いしてんのか、逆に観察して楽しむくらいの気持ち持とうぜ」等と言われて丸め込まれてしまったのだ。
めちゃくちゃな言い分だというのは分かっているつもりだ。しかし、志音の言う通り、そうやって切り替えてこの噂と付き合った方が、精神衛生上幸せな気もした。
さらにある二人の存在が私の意識を変えた。それは私の目の前でイライラしている知恵と、ドキドキしている菜華の二人だ。
「なんであたしが左利きだって分かってんのに、あたしの左側に座ったんだよっ」
「? 私が右利きだから」
「だからなんでだよっ、ノートを取ろうとする度に手がぶつかんだろ」
「?」
菜華は不思議な現象を目の当たりにしたという顔で知恵を見ていた。うん、わかる。共感は出来ないけど、何を考えているかは理解できる。触れ合う為にわざわざそこに座ったのだろう。一瞬でここまで思考が及ぶとは、私も随分毒されてきた。
とにかく、この二人は見ての通り、私達とは比べものにならない程にガチだ。二人というか菜華が一方的にガチなだけだが、まぁそれは置いておいて。だけどこの二人のそういった噂はほぼ耳にしないのだ。
おかしいとは思わないか。菜華のつきまとい行為は日常茶飯事で、知恵の為に学年最下位になったことは噂にもなった。にも関わらず、付き合っているとかどっちが上とか、そういう話が全然聞こえてこない。
そこで気付いたのだ。不確定要素が多いと面白おかしく囃し立てられるし、おひれはひれがつく、と。議論の余地がある方が人々は食いつくのだ。それ以外に、私達なんかよりも大分アレなこの二人がスルーされる要因はないはず。
「あ」
「どうした?」
「いや、なんでもない」
「?」
志音は不思議そうにしていたが、ここで声にする訳にはいかない。私はふと思い出していたのだ。そういえば、バイクに乗る時に「知恵にキスさせる」なんて適当なこと言ったなぁ、と。知恵に聞かれたら面倒だし、もし菜華がすっかり忘れていたら? わざわざ思い出させるなんてバカのすることだ。志音は気になるのか、何やら不服そうに私を睨みつけている。
まぁ、コイツに知られたくない事情はないし。そんなに気にされるとは思っていなかったので、少々面食らいつつも、ノートの端っこにさっとメモを書いて教えてあげることにした。
その様子をすぐに察したのか、志音は私の手元に注目する。『私が、菜華に「知恵にキスさせる」って言ってたの知ってる?』。そう書ければよかったのだが、実際喋るように人に宛てて文字を書くというのは難しい。
何よりもさっと書いて教えるにはこの文章は長過ぎる。ガン見されているせいで、手元にかなりのプレッシャーを感じるのだ。
そこで私は『キスの話』と書いてみた。簡略化し過ぎだと思う人もいるだろう。でも待って欲しい、私はこの後に「って知ってる?」と続けるつもりだった。それにもし知っていたら、ここまで書けば何の話かは分かるだろう。
日常的にキスがどうの語りながら過ごすような性格はお互いにしていない。だというのに、志音は最初の四文字だけを見て、あろうことか声を上げた。
「……? キスしてほしいのか?」
「は? マジで死ねや」
返しがキツくなってしまったが、反省するつもりは一切ない。今の対応はむしろ優しいくらいだ。何故ならば、先生の話が一段落つき、静寂が教室を包んだ瞬間の発言だったのだ。半端な否定ではまた議論の余地を与えてしまう。私の気持ち的にも状況的にも、はっきりと殺意をぶつけるのがベストだったのだ。
しかし止まってしまった教室の時間は、なかなか戻らなかった。私達に何かしらの説明を求めているような空気を感じる。いや、言うことは無い。
授業中であることなぞ気にするでない、皆の者、今宵も歌い、踊り、そして存分に楽しむのじゃ。ついRPGに出てきそうな村長のような口調になって雑音を催促したくなる。
「あー……と、ごめん」
「何が?」
「いや、その、あたしの聞き間違いだった」
「寝ぼけてたんじゃないの?」
「いや、あー……あぁ、そうかもな……」
苦しい。かなり苦しい。だけど志音にしては上出来だ。ここでもし、「あーごめん、大きな声出して」なんて言おうものなら、確実にサンドバックの刑に処していた。
「メンゴメンゴ♪キ☆スは二人だけの
先生は困ったような顔をしていたが、仕切り直して摩擦係数の話を始めてくれた。うんうん、摩擦ってね、大事だよね。別にそんなに好きな分野ではないけど、いつも以上に熱心に聞き入ってしまう。
「そうだ、夢幻」
真面目に黒板の字を書き写していると、菜華に話しかけられた。まさか彼女が話しかけてくるとは思っていなかったので驚いたが、私は顔を上げて反応してみせた。
「知恵のキスの話だけど」
「!」
志音のアホの発言のせいで思い出させてしまったようだ。亡霊のような顔で志音を一瞥する。前を向きたくない。絶対に「どうなっているんだ」と聞かれる。
この約束が実行されるまで、菜華はテコでも動かないだろう。授業の内容に
具体的に言うと軽くちゅっとやってもらうしかない。ラーフル30分なでなで券とかあげたらやってもらえないだろうか。でもそうすると今度は鬼瓦先生に話を通さなければいけなくなる。いや、知恵のそれはやり過ごして反故にすればいいか……? クズのようなことを考えていると、菜華は再度口を開いた。
「あれは自己解決したからもう大丈夫」
「……?」
はい……?
自己解決とは……?
諦めたということ……?
いや、「やっぱりしなくていいや」なんてこの女は絶対思わない。つまり、そういうことだ。あまり深く考えないようにしよう。というか考えたくない。っつーかアンタら本当になんなんだよ。雑念をかき消すように授業を受けるしか、私には為す術がなかった。
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