第5話 なお、身長は169cmとする
「まず、この椅子から紹介しよう」
私達をそれぞれ椅子の隣に立たせ、担当教員は器具の説明に入った。ちなみに私と志音と呼ばれた女の口論は、あちらの妙な告白まがいの発言によって幕を閉じた。
私がリアクションに困って何も言えなくなってしまったのだ。いつまでも授業を中断する訳にもいかないし、私とこいつは余り物だし、あんな大立ち回りを演じた後に私達と組みたがる人間がいる筈もなく、なんとなくそのままこいつと組むことになってしまった。
あとどうでもいいけど、よく見るとかなり背が高い。
170cm近くありそうだ。なんか腹立つ。
「この椅子は通称ダイビングチェアという。我々がバーチャルの世界に行く、つまりダイブするときに座る椅子だ。ただ、この椅子に座ればいいってモンじゃない。
ダイブする際は、まずこのナノドリンクを飲む。そして椅子に座り、スイッチを押す。このスイッチはトリガーと呼ばれている。使い方は簡単だ、口に入れて噛む。そうすりゃ次の瞬間にはダイブしている」
まるで手品だ。それだけ? たったそれだけであっちの世界にダイブできる? にわかには信じがたい話だった。もっと何か大袈裟な装置が必要になるんだと思っていた。
例えば専用のゴツいゴーグルをつけて、脳波(?)を測定するために頭にもゴツい何かをつけて、みたいな。ドリンクを飲んでに座ってトリガーを噛むだけ? お手軽過ぎてなんだか怖い。
「ダイビングチェアには、決められた姿勢になるような工夫が施されている。例えば肘を置く部分はこのように凹んでおり、右手首はスキャナの上に置かれるようになっている。見た目はマッサージチェアのようだが、もちろんこいつにそんな機能はついていない。
その代わり、ダイブ中の身体を随時チェックする。右手首がスキャナの上に置かれるように設計されているのは脈等を測る為だろう。すまんが俺もその辺はあまり詳しくない。もし興味がある生徒がいたら、奥に座っている白衣の先生にあとで聞いてくれ」
担当教員がガラスの向こうを指差した。そこには眼鏡をかけた細身の男性が立っていた。バーチャル専門の養護教諭らしい。それって養護教諭って言うのか、あまり自信はないけど。
男性は白衣のポケットに突っ込んでいた右手を出し、ひらひらと生徒に向けて手を振っていた。見たところ、結構フランクな人のようだ。しかしこの分野にはあまり興味がないので、私が彼を訪ねることは無いだろう。
「そして壁についている巨大モニターだが、こいつは最大で64分割できる。普段はあまり使わないが、演習の種類によってはこのモニターでお前らの動きを観ることもあるだろう」
機器の説明なんてつまらなさそうと思っていた私が馬鹿だった。高校に入学して初めて、楽しいと感じていた。隣にメスゴリラがいなければもっと最高なのに。そう思い、ちらりと盗み見ると、なんと目が合った。
「……何?」
「あ? 見てただけだろ。お前は授業聞いとけよ」
「あんたも聞きなよ」
地上3000メートルのスカイダイビングを0.5秒で終了させてきたかのような落差。天国から地獄とはまさにこのこと。着地の瞬間から目を背けるように、私は先生の話に集中しようとした。
「こちらに戻ってくる時は少しコツがいる。俺を見ろ」
先生は首に指を当てている。何をしているんだ。
「このように、首の頸動脈を押さえ、歯を鳴らす」
カチンと小気味良い音が実習室に響いた。
……つまり、トリガーはいらないということだろうか。
「あっちの世界についた瞬間から、トリガーはお前達の口の中から消えている。トリガーはあくまで行きの切符だ。バグとの戦いでの破損や、紛失した時はどうする。そんなときでも困らないように、向こうでは人体の操作のみで戻ってこれるようになっている」
なるほど。確かに、あちらに行けないよりも、戻ってこれない方がよっぽど深刻だ。……ちょっと待って。最高に素敵な事を思いついてしまったのだけれども、このゴリラをどうにかしてバーチャル空間に放置してくるのはどうだろうか?
年間2〜3人は向こうから戻ってこれなくなると言うし、こいつが戻ってこないくらいでどうってこと無いだろう。
「なぁお前、よからぬことを考えてんだろ。悪い顔してんぞ」
「よからぬ……? 私にとっては最高の妄想だけど」
「へぇー。どんな妄想だ?」
「自分が辛い目に合う話を聞きたがるなんて、マゾなの?」
「あたしのことかよ! ひでぇ妄想すんなよ!」
っと。これ以上のお喋りは禁物だ。
先生の鋭い視線が飛んできた。
しかし、そろそろ授業も終わりの時間だろう。前半は私達のせいでかなり無駄に消費させてしまったし、機器の説明も一通り終わったようだ。先生は次回の授業のプリントを配って、さっさと教室を出ていってしまった。
「ふぁ……ったく、やっと終わった……札井。この後ヒマか?」
「ううん」
「ヒマだろ?」
「ううん」
「飯食いに行こうって。な?」
「ううん」
「あたしのこと嫌いだろ?」
「ううん。……あ」
ゴリラを見ると、ニタニタと笑って私の顔を見ていた。気分がいいものではない。悪戯が成功したのがよっぽど嬉しかったのだろうか。
しかし、煽るように私を見たって私は何も感じない。こいつに怒るだけ時間とエネルギーの無駄なのだ。ただ、ちょっとバーチャル空間で人を殺したらどうなるんだろうとふと気になり始めただけなのだ。
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