cry for the moon

進藤翼

cry for the moon

 仕事場からの帰り道、飲めもしないのにウイスキーを買うことにした。棚にずらりと並んだ瓶。その適当な一つを乱暴につかんでそのままレジに通す。ビニール袋にしまおうとする店員にそのままでいいと告げると、彼は眉をひそめたがそのまま渡してきた。

 店を出ると強い風が吹いた。空で月が雲に隠れた。一瞬ひるみそうになって、舌打ちをして足を進める。夜にかけて風が強くなると、夕方聞いたような気がした。

 等間隔に立つ電信柱、その上のほうに設置された街灯。白い光を足元に落としている。オレは瓶の細い首の部分を持っていた。午後九時、人通りはない。一方通行の狭い道だ。古くさいアパートや鄙びた家々が並んでいる。その先に自宅がある。

 寒さは日に日に増していた。年が明けたというのに、春の気配はこれほども感じられない。平年の気温を下回る日々が続いていた。

 自動販売機が立ち尽くしている。ぼうっとした顔をして、黙っているくせに、そこから発せられる光はやかましい。下のほうを蹴っ飛ばしたら取り出し口のプラスチックに亀裂が走ったのを見て満足する。

 手袋をしていたが指先はすっかり冷えている。特に瓶を持つ手にはその冷たさが手袋に染みこんで伝わってきていた。マフラーを容易く突破して、風は首元に入り込んでくる。冷凍庫の空気がそのまま流れてきているようだった。しかしそれがどうしたというのか。そんなこと、大した問題ではなかった。

 街灯から街灯へ渡るように歩く。その度に生っちろい照明がオレに降ってくる。温度のない光。病院の廊下のそれのように、不気味さと妙な清潔さがある。

 電信柱の下のゴミ捨て場を野良猫が漁っていた。黒と白の混じった猫だった。わざと足音を立てて近づこうとすると、ピクリと顔をこちらに向ける。驚きの表情から威嚇の表情に移り変わり、牙を見せてくる。それを意に介せずなおも近づこうとすると、猫は身軽にひょういと石塀に飛び上がり、闇に紛れて去っていった。

 夜はやたらと人の懐に入り込んでくる。そうして美しい過去を見せつけてくる。それを優しいと言う者もいるが、オレははっきりごめんだった。過去はただの過去だ。それが美しいのは幻想だからだ。

 オレは心の炎でその幻想を燃やした。どんなに美しい絵画も、燃えてしまえばただの灰になる。物事なんてそんなものだ。左胸に灯したその火は、今や全身にまわっている。皮膚を切りつけようものなら、そのザクロのような傷口から赤黒い炎が噴き出してくるだろう。

 知っているように、火というものはつけることはとても容易だが、消すことは難しい。しかしそれは消そうとしている場合の話だ。オレにはそんな気はさらさらない。万物を飲み込む大きな炎、今オレの身体はそれに包まれようとしている。

 オレは手にしていた酒瓶を石塀に投げつけた。小気味のいい音が辺りに弾けて刹那、夜の静寂を切り裂いたがすぐにまた落ち着きを取り戻した。割れた破片が飛び散っている。アルコール臭が立ちこめる。酒に濡らされた塀は街灯の下でてらりとしている。そしてオレは肩で息をしている。荒い息遣いが動物のように聞こえる。何度も何度も白い息が消えていく。

 塀に叩きつけられた酒のしずくは、窓ガラスの雨のごとく、一本の線を引くように垂れていく。それが何本も何本も重なっている。その垂れるさまは遅く、粘性の高い、例えばハチミツが滴るようだった。どろりと、あるいはべっとりと塀にその痕跡をとどめる。

酒でも飲んで忘れるしかないのだという同僚の言葉を真に受けるべきではなかった。理性を捨てて狂ってしまいたいという欲求はあったが、そうなるのならばオレは永劫狂ってしまいたかった。酒など、あくまで一時的なものにすぎない。

 順調だった交際中に突然別れを切り出され妙だとは思った。しかしオレはそれを受け入れた。もし上手くいかなければすぐに戻ってくるだろうと思ったし、仮に上手くいったとしても、オレはそこから奪い返す心づもりでいた。

 彼女の新しい相手は女だった。

 それを知ったとき、オレは心に放火した。

 酒に溺れて理性を吹き飛ばし、罵詈雑言を吐けば少しは気が晴れるかもしれないが、現実が変わるわけではない。

 口の中で濁った音がした。異物が転がる感覚があった。手のひらに出してみるとそれは歯の欠片だった。力を加えすぎていたらしい。舌で探ってみると犬歯の部分だった。

 オレは自宅に戻るのをやめた。このまま帰ったところで、眠りにつけるわけなどない。

 一方通行を抜けて、右側にある小さな山に入る。階段状に整備されているそこは足元に小さな明かりがある。その頂上を目指した。背の高い木々はざわざわざわざと上からオレを見下ろしている。ざりざりざりざりと敷き詰められた砂利が鳴る。

 十五分ほどのぼると階段が途切れ、辺りがひらける。そこは丘のようになっており、手入れされた芝に覆われている。木製の長いベンチが二つ並べられているが、当然そこに座っている者は誰もいなかった。

 月見ヶ丘というこの丘は見晴らしがいい。眼下には背の低い家々が広がっている。その明かりが灯っているのが見える。

 オレはそこに突っ立ち、白い息を繰り返し吐き出していた。気分を鎮めようと努めた。しかし呼吸は浅く早いまま、炎の勢いも小さくなる気配がなかった。

 足元がぐらついた。なんだと考える間もなくさらに大きくぐらつく。身体のバランスを崩しつんのめる。そしてそのまま前に倒れこんだ。

 地震だった。それもかなりの強烈なものだ。揺れは三十秒ほどで治まったが、その間ずっと身を伏せていた。しばらく地鳴りがしていた。それが鎮まると世界から音が消えた。世界そのものが大きな箱の中にしまわれたかのようだった。

 そしてふっと顔を上げると、眼下の明かりが全て消えていた。停電だ。家々は闇に飲み込まれ、その輪郭さえも確認できない。しかしその中でオレは自分の両手が見えることに気づいた。視線を真上に向ける。

 月。月だ。月が、その光がオレに降り注いでいる。雲に隠されていた月が、今その身をまるきり晒している。真っ白い真っすぐな光はオレの瞳に飛び込んでくる。それはオレの奥深くにまで到達し、虚勢や見栄で塗り固めたオレの心を裸にさせた。そして内に潜む本性、本質を引きずり出そうとする。瞬間、炎の勢いが増したように感じた。鼓動はさらに速くなり、それに伴って頭のてっぺんから足の指先まで焦げてしまいそうなほどの熱がオレの身体を覆った。呼吸が思うようにできず苦しい。声にならない声をあげる。炎が身体を突き破りそうだった。皮膚の真裏にそれがあるとわかる。すぐそこにある。苦しくて動けず、その場でもだえる。そしてそれほどの思いをしているのにも関わらず、オレは月から瞳を逸らすことができなかった。最初に異変を感じたのは腕だった。本当に皮膚から炎が飛び出してきたとさえ思った。苦しみに耐えながら腕を視界まで持ち上げた。コートのすそ、手首のあたりに黒々としたものがあった。それは大量の毛だった。明らかに人のものではなく、それはたとえばさっき見かけた猫のような毛だった。毛の量はどんどんと増えていく。身に着けていたコートやその下のセーターとワイシャツが耐えきれず千切れる。同時に腹からも、下半身、首、顔面、頭からも毛が生えてきた。

 オレは悲鳴をあげることも忘れて、変わっていく自分の身体の感覚を味わっていた。おかしなことにオレは妙に落ち着いていた。これが夢ではなく現実であるということもしっかり理解していた。毛が生えてきただけでは終わらなかった。今度は骨格も変化しているようだった。骨が伸び縮み、オレはいよいよ人間から離れていく。そこには快感さえあった。内側に秘めていたものを全て暴かれて解放されたように、そう、とても晴れ晴れしい気分だった。それはこの美しい夜にふさわしいように思う。オレの中にあった炎はすっかり鎮火した。

 鼻と口が前のほうに伸びていく。欠けたはずの犬歯は元通りになるどころか、ほかの歯も同様に大きさも鋭さも増していた。そして口は横にまで裂けている。目の上にある妙な感覚は耳だ。二本でなく四本脚で地面に立ち、視線は以前よりも低い。腰のあたりの違和感は尻尾だろうか。全身を覆う毛は茶色交じりの銀色をしている。これは猫ではなかった。狼だ。

 オレは叫んだ。繰りだされた声は動物のそれだった。月に向かって何度も咆哮した。うおんうおんと高い声が、闇に沈んだ世界に冴え渡る。湖に投げ込んだ石の波紋が大きく広がっていくように。オレは気が済むまで雄たけびを上げた。

 そうしてやがて家々は明かりを取り戻していったが、それも全てではなかった。全復旧するにはもう少し時間がかかるだろう。

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