第4話

「ねえ、トール」


 再び紡がれたヤツキの声は、だが俺が危惧したような、悲しそうな声ではなかった。


「トールって名前、なんか神様みたいでかっこいいよね」


 いつもと同じ調子で、話の流れに関係ないことを口にしてくる。唐突な話題だったが、少しほっとして俺もいつも通りの声で返す。


「それって、北欧神話のこと?」

「そう、それそれ。ハルノに教えてもらったの。神話とかってよくファンタジーラノベのモチーフにされるんでしょ?」


 結局ラノベなのかよ。


「もういいよ、ラノベの話は……」

「なんで? トールも好きでしょ、ライトノベル」

「先輩には言ったけど、あれは頼まれて買っただけで……」


 顔を上げると、ヤツキの姿は消えていた。いつの間にか彼女は場所を移動していて、振り向くと少し離れたところで、彼女が手にしているのは俺の鞄で。

 止める間もなく、開けっぱなしの俺の鞄を、ヤツキがひっくり返す。ばさばさと落ちてきたのは教科書とノートと――


「みっけ~」


 行き着けの書店のカバーが掛かった、文庫本。

 ヤツキがカバーを外そうとして、慌てて俺は彼女に駆け寄ると、ヤツキを突き飛ばして本を奪った。「きゃ」と小さな悲鳴が聞こえたけれど、構わず教室を飛び出す。そして本を抱えたまま、でたらめに校舎を走った。


 暫く走ったところで誰かにぶつかりそうになって立ち止まり、でも一度立ち止まるとそれ以上足を動かせなくなってしまう。顔を上げると、ちょうど期末テストの順位の掲示が目に入る。一位には見覚えのある名前があった。


「トーサキ君」


 その名の持ち主が俺の名を呼ぶ。そんな妙な呼び方をする人なんて他になく、俯いたまま俺は彼女に問いかけた。


「……先輩。なんで先輩はラノベなんか読んでるんですか?」

「うん? そりゃ、好きだからよ」

「そうじゃなくて。お金持ちのお嬢様で成績は優秀で、完璧じゃないですか。ラノベじゃなく文学作品でも読んでれば、変人だなんて思われないのに」

「うーん、そうねぇ」


 俺もかなりズケズケと言ったが、変人というのを否定しなかったところを見ると、今までにも散々変人言われてきたんだろう。


「私んち、親の方針で漫画とか禁止なの。トーサキ君の言う通り、小さい頃は文学作品ばかり読んでたわ。有名どころは小学校のときに全部読んじゃった。神童だの才女だの言われてたわね」


 人差し指を頬に当て、回想するように視線を上に向けて先輩が自画自賛する。


「でも嬉しくなかったしつまんなかった。かといって親にも逆らえないし。そんなときかな、ラノベに出会ったの。多分、他の人が漫画を読む感覚で、わたしはラノベにのめりこんでいったのね」


 上を向いていた先輩の視線は、いつの間にか俺へと戻っていた。失礼なことばかり言う俺に対して、怒りも憤りも見せず、優しい笑みを浮かべて。


「私には、どんな本よりも魅力的に思えたの。シンプルな設定で、ごく簡単な言葉で、こんなにあっさり私の心を奪っていくライトノベルが」


 名前の通り春風のような軽さで、先輩の声が肌を撫でていく。


 俺は先輩みたいに、難しい本なんて読んだことないし、成績だって物心ついたときから中の下で、人から褒められたことなんて数えるほどもない。だから、不思議だった。

 そんな、俺とはまるで正反対の先輩が、俺と同じようなものを見て、俺と同じようなことを思っていることが。


「トーサキ君も、だからラノベが好きなんでしょ?」


 俺の心を読んだかのように、先輩がそんなことを言う。俺は一度もラノベが好きだなんて言ってないのに。先輩のことも、部活のことも、ヤツキのことも、何ひとつ認めてないのに。


「人の評価なんてコロコロ変わるもの、どうだっていいじゃない。文学読んで大人しくしてれば優秀、ラノベ読んで好きなことにのめりこんでたら変人、そんなチンケな価値観より、ヤツキちゃんの方がわたしにはよっぽど大事」

「俺は――」


 ラノベなんて幼稚。そんな俺の価値観をチンケだと全否定された気がした。でも、俺だってそんなカテゴライズはナンセンスだって思ってはいる。

 思っていても、それが大衆の意見なんだ。


「俺はそんな強くなれないですよ」


 周囲の目は気になる。

 それはそんなにいけないことだろうか。

 生きていく以上他人との付き合いは必要不可欠だ。それには他人からの評価もつきまとう。だったらそれは、できればそれは、いいものであるに越したことはない。


「だったら、それはそれでいいじゃない」


 背後からの声に振り向くと、ヤツキが肩を上下させ、息を弾ませながらそう言った。


「ハルカはハルカ、トールはトールだもの。自分の好きなもの、隠したいだけならそれでいい。でも自分にまで嘘つかなくていいと思う」

「……どういうことだ?」

「トール、自分に言い聞かせてるみたいだもの。ラノベなんて下らないって」


 本を掴んだままの右手が震える。

 ヤツキの言う通りだ。

 こんなものにワクワクしている自分が恥ずかしくて。

 だから、先輩を否定してしまった。

 同じものを好きなはずなのに、本当なら仲良くなれるはずなのに。

 周囲の目を気にしない先輩といることで、自分までも奇異な目で見られることを恐れて。

 よほどそっちの方が馬鹿らしいと思う。でもヤツキはそんな俺でも否定しない。

 俺がヤツキをどんなに否定しても。


「ホントは好きなんでしょ?」


 不覚にも、笑いかけるヤツキのその笑顔が眩しく思えてしまった。


 まるで、八月の太陽みたいに。


「好きじゃねーよ、馬鹿」


 ヤツキが持っていた俺の鞄をひったくって、そのまま俺は帰途についた。

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