第2話
なんだか色々妙なことはあったけど、とにかくもう何事もなかったということにして帰ろう。
そう心に決めた俺の心をポッキリと折らんばかりに、背後から何かついてくる。生徒たちはあらかた下校して閑散とする廊下に響く二種類の足音は、ひとつは言うまでもなく俺だが、もうひとつは言うまでもなく俺じゃない。
「……なんで着いてくんの?」
「なんでと言われても、一言で説明するのは難しいわね」
耐えかねて、ついに俺は振り向かないまま問いかけた。間を置かずして返ってきた声は、先輩ではなく、段ボールに入っていた方。俺的には先輩よりも厄介な方だ。
……よし。走って振り切ろう。
決めるや否や、ノーモーションで全力疾走を試みる。だが後ろの足音はどんなに走っても消えてくれない。なんとか撒こうと全力の鬼ごっこを続けたが、先に音を上げたのは俺だった。
「なっ、なんで……、着いてくるんだよ!」
「逃げられたら追い掛けたくなるのが人情ってものでしょ」
息も絶え絶えな俺と比べて、彼女は息ひとつ乱れておらず、こともなげに答えてくる。
しばらく激しく肩で息をついて、ようやく呼吸が落ち着いてから、改めて俺は顔を上げた。やっぱりあの段ボールの女の子だ。俺もさして背の高い方ではないが、その俺の胸あたりまでしかない小なさ背に、長い黒髪。さして珍しい特徴でもない。
「むしろ何で逃げるの?」
「そりゃおかしな連中に絡まれれば逃げたくもなるよ」
「どこにおかしな連中が?」
本気で言ってるのだろうか。
真顔で額に手をあて、きょろきょろと周囲を見回す仕草は、おちょくられているような気もする。
「お前だ、お前」
だがまたも俺は素直に突っ込んでしまった。
彼女――ヤツキといったか――は、キョトンとしたように俺を見たあと、目を大きく見開いて自分を指差す。それに対して俺がふかーく頷くと、心外だ、という顔をした。
「ワタシ、何かおかしいかしら?」
「自分のことを地球人じゃないとか言う奴は、どう考えてもマトモじゃないだろ」
「まあ、そうね。地球人を標準とするなら、ワタシは標準ではなくなるわね」
「そういう意味じゃなく……」
そういうとこが普通じゃないんだが、おかしい人にそんなことを言っても通じやしないだろう。しかし本気で撒こうとして失敗した後じゃ、言葉でわからせる以外の道を選べない。
「そんなにホイホイ異世界人が居てたまるか」
「あのね。世の中はそんなに簡単じゃないの。アナタが知るのが世界の全てじゃないのよ」
ずい、と詰め寄って、大真面目にヤツキが呟く。頭がおかしいことを除けば、この子もすごく可愛い顔をしている。不覚にも距離の近さに心臓が高鳴ったが、いかん。いくら可愛くてもこいつは変人だ。
「……じゃあ、戸籍とかどうしてんだよ?」
「コセキ?」
「そ。この国に住んでる人はみんな国によって管理されてんの」
「……あのね。世の中って結構簡単なの」
さっきと同じ口調で、さっきと百八十度異なることを、さらっと口にする。
俺は呆れてその場を立ち去ろうとしたが、やっぱりヤツキは後をついてくる。
「だいたい、異世界人ならもっと髪の色とか目の色とか違ったりするだろ」
「違うよ。でも目立つから、染めてカラコン入れてる」
「はーそうですか、随分馴染んでることで。日本語もとっても流暢ですね」
「うん、結構長いからね、こっち。全部ハルノに教えてもらったの。でも、本を読むのはまだ苦手。ひらがな、カタカナ、漢字、ここは覚えることが多すぎる」
皮肉を込めて言うが、ヤツキに皮肉は通じなかったようだ。女の子相手に少し意地が悪すぎたかと焦っていたのでそれはいいのだが、やはり「そうなんだ」と納得できる内容ではない。
「結構長いって言うけど、俺があんたを見たのは初めてだ。んなピンクの名札つけた奴なんて知らねーよ」
「ワタシにとって、世の中が簡単な理由、教えようか」
ふとヤツキが足を止め、思わせぶりに口にする。振り切るチャンスだったのに、俺は消えた足音に思わず立ち止まってしまった。
振り向いた先で、ヤツキは少し寂しそうな、けれど諦めたような、複雑な表情をしていて、思わず目を奪われた。
「ワタシは、こっちの人の記憶に残ることができないの。だから、トールも私にしばらく会わなければ、ワタシのこと忘れるわ」
それは酷く現実味のない内容だった。だけどこれが嘘なら、よく次から次へとでっちあげられるものだと感心しなければいけないだろう。
「ワタシ、トールに会うの初めてじゃないのよ?」
――馬鹿げてる。
何も言わず、俺は歩き出した。もう足音が追い掛けて来ないことにほっとして、速足で歩きだす。
「だから、明日も部活来てね、トール」
返事はしなかった。
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