荒木田支店長大弁舌

 車が本社に着いた。兄と副支店長に手伝ってもらい車椅子を準備する。


「兄さん、悪い。さすがにここは部外者は入れない。駐車場に車を入れたらロビーで待っていてくれ」


 副支店長に車椅子を押してもらい中へ入る。受付で身分証を見せエレベーターに乗ろうとした。が、


「すみません、動物の持ち込みはちょっと」


 受付から呼び止められた。私の膝に乗っている猫に気付いたようだ。副支店長が耳打ちする。


「支店長、お兄さんに預けてはいかがですか」


 それはできない。「人の体に戻っている間は猫から離れるな」と倭姫から言われているのだ。仕方ない、ここは方便だ。


「ああ、これは猫ではない。ぬいぐるみだ。販促キャンペーンに使うのだ」

「そ、そうですか。それならばどうぞ」


 受付も面倒は起こしたくないのだろう、そのまま通してくれた。副支店長は苦笑したまま何も言わなかった。


「着きましたわ」


 人事部のドアを副支店長が開ける。正面に人事部長。デスクを挟んで賀衿が立っている。私は叫んだ。


「賀衿、サインはするな!」


 こちらを振り向いた賀衿も大声で叫ぶ。


「あ、荒木田支店長! ウソ、どうして。名古屋の実家にいるはずじゃ……」


 その問いには答えず、副支店長に車椅子を押してもらいデスクに近寄る。置かれていた退職願には既にサインが書かれていた。掴み取りビリビリに破る。あり得ない乱暴狼藉に気色ばむ人事部長。


「あ、荒木田君、何をするのかね」

「こんなものは無効です。勧奨ではなく強要したのでしょう。賀衿には退職を強いられるような落ち度はありません」

「それは君が知らないだけだ。ツアー中、頻繁に紛失物を発生させただけでなく、猫を持ち込みお客様に多大な迷惑をかけたのだぞ。我が社の信用を失墜させた以上、退職もやむを得まい」

「その猫とはこの猫のことでしょう」

「あ、荒ちゃん。どうして支店長の膝の上なんかに」


 人事部長だけでなく賀衿も何が起きているのか理解できないようだ。二人の疑問を押し流すべく一気に話す。


「これは私の飼い猫です。もし私に何かあれば猫の面倒を見るようにと賀衿に申し付けておいたのです。彼女はその命令を実行したにすぎません。ならばツアーに連れて来ずとも、ペットホテルにでも預ければよい、そうお考えになるかもしれません。残念ながらそれはできなかったのです。ご覧ください、猫の股間を。お分かりでしょう。この猫は雄。三毛猫の雄は非常に珍しく、猫マニアの間ではそれこそ1千万円を超える値が付くこともある貴重な猫なのです。他人に預けて盗まれでもしたら私に会わす顔がないと、彼女は仕方なくツアーに同行させたのです。猫の一件の責任は全て私にあります。賀衿に非はありません」


「えっと、あの、支店長……?」


 賀衿が口を開けて呆然としている。ひどい間抜け面だ。ここで余計なことを喋られるとまずい。必死に目配せする。黙っていろ、口を挟むな。目をパチパチさせながら頷く賀衿。分かってくれたようだ。


「ふむ、そのような事情があったとは知らなかった。一応、君の言い分は認めよう。しかし紛失物の件はどう抗弁するつもりかね。まだひとつも見つかってはいないのだぞ」

「ご安心下さい。賀衿と猫によって間もなく解決するはずです」

「えっ!」


 部長と賀衿が同時に声を上げた。再び一気に説明する。


「実は第3回ツアーでも財布の紛失が発生していたのです。幸い、この猫のおかげで発見されましたが、その時、挙動不審な男がひとりいることに賀衿は気付いたそうです。もしや紛失ではなく盗難だったのでは……そう考えた彼女は一計を案じました。この猫にGPS機能付きの首輪を付け、こっそりとその男を追わせたのです。猫は見事にこの任務を果たしました。そこで会社から被害届を出し、警察に情報を提供。先ほど盗品の一部が発見されたと連絡がありました。お客様の紛失物も間もなく戻ってくるはずです」


「あ、あの、荒木田、支店長……さん?」


 賀衿の目のパチパチが2倍速になっている。ここで余計なことを喋られるとまずい。必死に目配せする。ぎごちなく頷く賀衿。そう、それでいいのだ。黙っていろ。


「なんと、そのようなことがあったとは。分かった、その言い分も認めよう。しかしお客様に迷惑を掛けた事実は曲げられぬ」

「それについてですが、クレームを入れた客を調べさせてもらいました。住所は東京。なのに近距離の日帰りのツアーは参加せず、第3回の一泊ツアーだけ参加。それも一度だけの参加。しかもひとりだけでの参加。非常に不自然と言わざるを得ません」

「それはお客様の都合だ。こちらがとやかく言う筋合いではなかろう」

「仰る通りです。ただ、その御婦人、尾栗おくり専務の親戚のようですね」


 人事部長の眉がピクリと動いた。どうやら推測は当たりのようだな。


「臨時株主総会で賀衿常務が取締役を解任されたそうですね。その主導を握ったのはクレームを入れた客の親戚である尾栗専務。偶然にしては出来過ぎていませんか。今回の件は常務の娘に退職を迫るために尾栗派が仕掛けた罠、そう考えるのが一番自然でしょう」

「そ、そんな証拠がどこにあるのかね」

「証拠はありません。しかしクレームを入れた客と尾栗専務が親戚だと知れば、誰もがそう考えるでしょう。それは尾栗専務にとって都合が悪いのではないですか」


 人事部長の表情が険しくなった。額に汗がにじんでいる。しばらく私と賀衿を眺めた後、重々しい口調で言った。


「分かった、賀衿君を退職勧奨の対象から外そう。ただし新年度の人事異動の対象にはさせてもらう」

「承知しました。賀衿、聞いたか。おまえはここに残れるのだ」

「でも、あたし、やっぱり会社を辞めます」


 俯いたままボソリとつぶやく賀衿。一瞬頭が真っ白になる。何を馬鹿なことを。誰のためにここまで来たと思っているのだ。


「辞める必要がどこにある。君に非はないとたった今証明したじゃないか」

「だって、あたし失敗ばかりで間違いばかりで、皆に迷惑を掛けるし、あたしがいない方がきっとうまくいくし」

「バカヤロー!」


 下品な言葉だとは分かっているが言わずにはいられない。これほど怒りに駆り立てられたのは初めてだ。


「本当にそれでいいのか。こんな形で退職して納得できるのか。何のために旅行会社に入ったのだ。見たい風景があるのだろう。夕日や裏庭や電線を見て喜ぶ仲間たち、そんな光景に出会いたいのだろう。それを果たさずに辞めてどうする」

「えっ、支店長どうしてその話を知っているの?」


 しまった。頭に血が上って余計なことを喋ってしまった。


「そ、それは……猫、猫に聞いたのだ」

「猫? 荒木田君、君は何を言っておるのかね」

「部長は黙っていてください!」


 些細なボケを見逃さずツッコミを入れてくるとは。さすが人事部長、侮れぬ。しかしそのおかげで冷静さを取り戻せた。咳ばらいをひとつして説得を続ける。 


「賀衿、本当にやりたいことがあるのなら周りなんか気にしなくていい。夢に向かって突き進め。私も手を貸してやる」

「なら、ガミガミ怒ったりしませんか」

「君の上司でいられるのは今月末までだからな。できるだけ控えよう」

「計算を間違えても冷たい目で見たりしないですか」

「見ない」

「誤字があっても呆れた顔をしませんか」

「しない」

「時々荒ちゃんと遊ばせてくれますか」

「明日からまた入院生活だ。猫はしばらく君に預ける。面倒を見てやってくれ」

「分かりました。退職はしません。あたし、この会社で頑張ります!」


 結局猫か。どこまでも世話の焼ける娘だ。

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