めぐり逢えた光景
屋上から見る夕焼けは胸に染みた。この美しさにどうして今まで気が付かなかったのだろう。灯台元の闇ばかりを見詰め、灯台の明るさを忘れていた、そんな感じだ。
「人として見る太陽はこれが最後か」
本社から戻った後、賀衿から事情を聞いた。退職を決心したら急にヤル気がなくなり、都内のホテルを出てから猫カフェで癒されていたらしい。連絡がつかなかったのはスマホの電池が切れてしまっていたからだ。熱田で私を捜索するために使い切ってしまったのだろう。
(あの時、こちらが要求してもスマホを渡さなかったのは既に電池がなかったからか)
賀衿のお説教は副支店長に任せ、私は支店のあるビルの屋上へ上った。本来出入り禁止なのだが懇願して鍵を開けてもらったのだ。人として過ごす最後の時を夕日の中で終えたい、そんな思いが私の中にあった。
「結局、倭姫の試練は達成できなかったか」
まったく後悔がない、と言えば嘘になる。賀衿のために人としての生を捨てた、よく考えれば愚かな選択だ。他人に話せば嘲笑されるに違いない。けれども私は満足だった。あのまま元の体を取り戻したとしても、この満足感を得ることはできなかっただろう。
「おまえもよく頑張ってくれたな」
膝に置いた猫を撫でる。こうして心を静めていると、私と猫が完全には切り離されていないことがよく分かる。全ての命が人の体に移されているのではなく、猫を生かし続けるために若干の命が残されているようだ。猫と私が離れすぎるとその繋がりが切れてしまうのだろう。
「あの、支店長……」
背後から声が聞こえた。賀衿だ。振り向かずに答える。
「何か用か」
「今日はありがとうございました。ご迷惑をかけてすみませんでした。二度としないように気を付けます。えっと、それから何だっけ」
笑いが漏れる。副支店長の命令でここに来たのがバレバレだ。
「分かった。もういいから帰れ。君も疲れているだろう」
「あの、荒ちゃんを見せてもらっていいですか」
やれやれ目的はそっちか。私が頷くと小走りに駆け寄り、膝に置かれた猫を撫でる。
「何だか死んでいるみたい。荒ちゃん、大丈夫かな」
「死んだように寝ているのだ。東京から名古屋まで旅したのだからな、疲れたのだろう。日が沈む頃には目覚めるはずだ」
代わりに私が眠りに落ちる。しかしそこまで教える必要はない。
「ペットは飼い主に似るって言うけど本当ですね。荒ちゃんって支店長みたいに行儀が悪くて、威張っていて、トンカツが大好きだったから。あ、勝手に荒ちゃんって名前を付けちゃったけどいいのかな。支店長は何て呼んでるんですか」
「名前はまだ付けてない。飼い始めて日が浅いんでな。荒ちゃんで構わない」
私自身もその名前にすっかり馴染んでしまっている。今更別の名など思いつかない。
「ねえ、支店長、今度のツアーのことで荒ちゃんから色々聞いているでしょう。あたしのこと、何か言っていませんでしたか」
答え難い質問だな。適当に喋っておくか。
「よく世話をしてくれたので嬉しかった、と言っていた」
「それだけですか。他には?」
「トンカツが美味かった、と言っていた」
「もっと別のことで、何か」
「最後のビーフカツが食べられなかったのは残念だ、と言っていた」
これは本音である。あれは美味そうだった。
「そうじゃなくて、あたしを好きか嫌いか、言ってませんでしたか」
訊きたいのはそれか。なら最初にそう言え。まあ、ここは喜ばせておいてやるか。
「美味しい物を食べさせてくれるから、その点は飼い主よりも好き、と言っていた」
「ふふふ。そう言ってくれると思ってたんだ」
賀衿でも照れることがあるのか。この猫のどこがそんなに気に入っているのかさっぱり分からんが、この調子では彼氏もなかなか見付からんだろう。親の心配顔が目に浮かぶ。
「ねえ、支店長。荒ちゃんが支店長の飼い猫だと分かって、ようやく謎が解けました」
「謎? どんな謎だ」
「どうして荒ちゃんが伊勢へ行こうとしていたか。それは支店長に早く良くなってもらいたくて、伊勢の神様に頼みに行くつもりだったんですよ。神社を回っていたのも願掛けのため。きっとそうですよ。羨ましいなあ、荒ちゃんにそこまで思われて。支店長がここまで回復したのは荒ちゃんのおかげなんですからね。感謝しなくちゃ駄目ですよ」
あながち間違った推理でもない。江戸時代に盛んだったお蔭参りの多くは物見遊山ではあったが、病気平癒を望む者たちも大勢いた。目から光を失ったものは人に引かれ、歩けなくなった者は車輪を付けた板に乗って伊勢を目指した。倭姫の試練もそれなりに意味があったというわけだ。
「それなら途中でツアーを抜けたのはどうしてだと思う」
「支店長の意識が戻ったって分かったからですよ。一刻も早く会いたくてバスを降りたんです」
「再会は無理だと言った理由は?」
「そんなの簡単ですよ。支店長、あたしのこと嫌いでしょう。飼い主の嫌いな相手と会っていたら怒られるって思ったんですよ。これまでのことがバレないように、もう会わないって言ったんです。まあ、バレちゃってますけどね」
さすが脳内お花畑だけのことはある。全て自分の都合のいいように解釈してしまった。こちらとしては余計な説明をしなくて済むので有難い話だ。
「本当はあたし支店長のこと、あんまり好きじゃなかったんです。でも今日あたしのためにあんなに頑張ってくれてちょっと見直しました。借りを作ったままじゃ気持ち悪いので、何かお礼をさせてくれませんか」
褒めているのか貶しているのかよく分からない言い方だ。が、せっかくなので何かしてもらうか。
「礼か……そうだな。一旦始めた伊勢参り、最後まで見届けてやるのはどうだ。賀衿、明日代休を取って猫を伊勢まで連れて行ってくれないか。これまでと同じように神社を巡って。車は実家のを使ってくれて構わない」
試練の期限は今日。明日伊勢に行ったところで何の意味もない。だが、こんな中途半端な状態で旅を終わらせては寝覚めが悪い。たとえ失格になっても完走すればそれなりの感動は味わえるはずだ。
「い、いいの!」
賀衿の顔が輝いている。もう一度猫と旅できるのがよほど嬉しいのだろう。膝の猫を抱き上げる。
「やったー、荒ちゃん。飼い主様の許しが出たよ。今度はバスケットなんか使わずに行こうねえ」
明るい笑顔。そうだ、それでこそ賀衿だ。いつまでもその笑顔のままでいてくれ。
「……うっ」
「どうかしましたか、支店長」
「いや、何でもない」
めまいと脱力感が同時に襲ってきた。日が沈みかけている。そろそろ倭姫の力が切れる頃か。今の私の姿を見てどう思っているだろう。元に戻れるチャンスを棒に振った愚か者とでも思っているのだろうな。それでいい。私はあの事故で死んでいたのだ。ここまで生き永らえさせてもらっただけでも、倭姫には感謝せねばならない。
「夕日が綺麗だなあ。屋上だとこんな風景が見られるんだね」
「私も今日初めて気が付いたのだ。旅にでも出たような気分だな」
猫を抱いたまま西の空を見る賀衿。夕映えの中、賀衿の横顔が茜色に染まる。感嘆と幸福と安らぎに満ちた横顔……
「この光景は……」
懐かしい感情が私の胸に広がった。そうだ、これだ。ずっと私が求めていたのは。同じ風景の中で同じ感動を共有しあう光景。これを見るために私はこの仕事を選んだのだ。この8年間のうちに諦め、忘れ去られようとしていた光景。それが、今、私の目の前に広がっている。言いようのない感動が湧き上がり、私は言葉を詰まらせた。
「やっと、やっとめぐり逢えた……ありがとう、賀衿……」
人としての最後の瞬間にようやく見ることができた。やはり間違っていなかった。私の選択は正しかった。これでよかったのだ。日が沈む。陽光が衰弱していく。体の力が抜けていく。
「どうしたんですか、支店長、支店長!……」
賀衿が呼んでいる。だが、その声も徐々に遠ざかっていく。私は幸福だった。何もかも消えていく視界の中で、最後に見た光景だけはいつまでも私を見守り続けていてくれた。
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