復活! 荒木田支店長

 暗い。全身に気怠さを感じる。重い。手も足も頭も重すぎて動かせない。遠くから声が聞こえてくる。


「なんだ、寝ているのか、この猫」

「気味が悪いわね。どうしますか、お父さん」

「猫とて命あるものに変わりない。どこか箱にでも入れてしばらく様子を見るか」

「ま、待って……」


 口を動かすのさえ重い。瞼を開けるのも一苦労だ。目に映ったのはこちらをのぞき込む3人の驚いた表情。


「く、九尾、お前、意識が戻ったのか」


 兄の声が震えている。母が涙ぐんでいる。父は言葉を失っている。私は起き上がろうとした。駄目だ。まるで力が入らない。


「おい、無茶するんじゃない。3週間寝たきりだったんだぞ。筋肉がすっかり落ちている」


 そうか。この状態では歩くことさえままならないようだな。だが、どうしても今日中に片付けなくてはならない用事がある。


「兄さん、頼みがあるんだ」

「何だ、言ってみろ」

「ふたつある。その猫は命の次に大切なんだ。このまま傍で寝かせてやってくれ」

「病室に猫はまずいぞ。しかも野良猫だ。衛生上良くない」

「なら私が病室の外に出る。それでいいだろう」


 困った顔で父を見る兄。困った顔で母を見る父。頷く母、頷く父、頷く兄。


「分かった。それでもうひとつは何だ」

「私を伊勢へ……」


 自分の言葉を聞いて苦笑いした。まだ吹っ切れていないようだ。


「伊勢? 爺ちゃんに会いたいのか」


 頭を横に振る。覚悟はできているはずだ。私は力強く言った。


「私を東京に連れて行って欲しいんだ」


 * * *


 それからは大騒ぎだった。絶対反対の父。好きにさせてやれと言う母。ふたりに挟まれてどっちつかずの兄。しかし我が家の絶対権力者は母である。簡易健康診断をして特に異常な数値が出なければ、日帰りを条件に認めてもよい、ということになった。


「兄さん、いきなり無理を言ってすまない。今日も診察の仕事があるんだろう」

「構わんさ。予約の患者は父さんだけで診られるし、急患なんて滅多にないからな」


 昔と同じく病院の経営は苦しいようだ。私が病人でなければこんなわがままは聞いてもらえなかっただろう。

 体は思った以上に動かなかった。筋肉の衰えだけでなく関節も固くなっている。母に手や足を動かしてもらい、少しずつ自力で動かす感覚を取り戻す。だがこの状態では電車や飛行機は使えそうにない。


「仕方ない、車椅子を積んで車で行こう。5時間もあれば着くだろう」


 病人とはいえこれだけ優しくしてくれると申し訳ない気持ちになる。兄の親切に感謝だ。

 採血、採尿、体の洗浄、時間はどんどん流れていく。

 会社の始業時間になった時、私は電話を入れた。


「し、支店長! 本当に荒木田支店長なのですか!」


 副支店長の声の後ろから人々の騒めきが聞こえてくる。驚いているのか喜んでいるのか落胆しているのか、とにかく朝一番の衝撃ニュースには違いないだろう。


「今日、そちらへ行く。たぶん午後になる。私が行くまでに次の案件を処理しておいて欲しい」


 副支店長へ指示を出す。半日でこなすには厄介だが彼女ならやってくれるはずだ。


「それから賀衿を電話に出してくれ。話がある」

「それが、まだ出勤していないのです。電話やメールにも返事がなくて」

(遅刻か。私が不在だとやりたい放題だな。こちらの気も知らないで)


 湧き上がる怒りをグッとこらえ冷静に返答する。


「賀衿が来たら支店から外に出すな。昼食も社内で摂らせろ。私が到着するまで絶対に本社へ行かせないようにしてくれ。以上だ」


 電話を切ると兄が呆れた顔で言った。


「相変わらずの会社人間だな。目が覚めた途端に仕事の話か。もっと自分の体をいたわった方がいいぞ」

「ああ、分かっている」


 兄の言葉に従えない自分を申し訳なく思いながら、そう答えた。


 検査の結果が出た。基準範囲から外れた項目もあったが、概ね良好という父の診断だった。


「気を付けてな」


 無口な父の見送りを受けて私と兄は出発した。


 車の中ではほとんど会話がなかった。東京行きの理由すら兄は尋ねようとしなかった。が、猫だけは奇妙に思ったのだろう、「その猫は何だ」と訊いてきた。この問いには困った。伊勢行きを諦めた以上、真実は話せない。もし話せば私の体を救うために伊勢へ向かおうとするだろう。苦し紛れに「飼い猫だ」と答える。


「飼い猫? 東京で飼っていたのか」

「そうだ」

「東京の猫がどんな理由でどんな手段で名古屋に来て、家に忍び込んだりしたんだ」

「う~ん、きっと私に会いたくて、ヒッチハイクでもして来たんじゃないかな」

「……」


 兄の追及はそこで終わった。物事にこだわらない兄で助かった。



「荒木田支店長! お体はもう大丈夫なのですか」


 東京の支店に着いたのは午後4時過ぎだ。車椅子の私を見た副支店長の表情は喜びと心配が入り混じっている。


「あまり無理をなさらない方がよろしいのでは。仕事は私ひとりでもなんとか回っておりますから」

「気を遣わなくていい。今日だけだ。明日にはまた病院へ戻る。頼んでいた書類は」

「できています、どうぞ」


 目を通す。期待通りの内容だ。やはり頼りになる。


「警察の方はどうだ」

「つい先ほど連絡がありました。『荒ちゃん』と書かれた首輪が見付かったそうです」

「よし、そちらもうまく運んでいるな。賀衿はどこだ」

「それが……まだ出勤しておりません」

「なんだと!」


 思わず声を荒げてしまった。当たり前だ。誰のために伊勢行きを諦めてここまで来たと思っているのだ。


「実家から通勤しているのだろう。家族は何と言っている」

「その、言いにくいのですが、昨晩から家に帰っていないそうです。これまでもツアーの後は都内で泊って直接出社することがあったので、心配していなかったそうです」

「まさか、あいつ……」


 熱田神宮で見た最後の姿が脳裏に浮かぶ。これまで見たことがないほど思い詰めた表情。私の声を一切無視して走り去った後姿。


(それほど私が、猫が、お前に黙ってバスを降りたのがショックだったのか。再会できないと言われたのが辛かったのか……)


「しばらく待とう。賀衿が来なければ何もできん」


 不吉な考えを振り払いながら賀衿を待つ。ジリジリと焦る気持ちを嘲笑うように時間だけが過ぎていく。


 ひどく長く感じられたが、実際には数十分程度しか経っていなかったようだ。不意に電話が鳴った。副支店長が出る。


「はい。えっ、本当に。ありがとう……支店長、賀衿さんが見付かりました」

「どこだ」

「本社です。受付で見掛けたと外回りの社員から知らせが」


 こめかみの血管が切れそうになった。同時にこうして待っていたのが馬鹿らしくなった。用があるのは本社だ。賀衿を待たずにさっさと本社へ行けばよかったのだ。


「すぐ本社へ行こう。兄さん頼む。君も一緒に来てくれ」

「は、はい」


 副支店長に書類を持たせ、兄に車椅子を押してもらい、車に乗り込む。副支店長は電話をしている。もちろん賀衿にだ。しかし相変わらず通じないようだ。どこまでこちらを振り回せば気が済むのだ、あの無能社員は。支店に顔を出さず直接本社へ向かうとは……


(賀衿、サインはするな。私が行くまで絶対にサインするな)


 その言葉をひたすら繰り返すよりほかに、今の私にできることはなかった。

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