最終話 すべての道は伊勢に通ず
第三回御神木御神託
「ここだ」
着いた。柵に囲まれ注連縄を巻かれた御神木。熱田神宮には7本の大楠がある。その中で一番有名なのが手水舎の北にあるこの大楠だ。見るのは初めてではない。実家から歩いて行ける距離にあるので、初詣で何度も訪れたことがある。
「変わらないな」
数年ぶりに見る巨木。暮れていく藍色の空に大きく枝葉を広げた姿は、忘れかけている記憶と同じ荘厳なたたずまいだ。千年以上の時を生きてきた楠にとってみれば、人の世の数年など取るに足りない時間経過にすぎない。
取り囲む柵を飛び越える。体を丸め根元に身を寄せる。聞こえてきた。
「荒木田、諦めることなくよくぞここまでたどり着いたな。嬉しく思うぞ」
言葉が聞けてひとまず安堵する。が、欲しいのはお褒めの言葉ではない。御神木に向かって胸中を吐露する。
「ありがとうございます。さりとてそれは私だけの力ではありません。手を差し伸べ、力を貸し、励まし、親身になって私の世話をしてくれたひとりの娘の助けがあったからこそ、私はこの地にたどり着けたのです。それなのに私はその恩に報いるどころか、取り返しのつかない不幸を招いてしまいました。私の何が間違っていたのでしょう、これからどうすればよいのでしょう」
「ほう、迷っておるのか。お主の言葉とは思えぬな。何も間違ってはおらぬ。予定通りに事を進めればよい。何故あの娘をそれほど気にする。捨て置けばよいのだ」
唖然とした。御神木の言葉とは思えなかった。如何に神が人を軽んじると言っても無慈悲過ぎる。
「恩を仇で返せと言われるのですか。我が身が安泰ならば他はどうなってもよいと言われるのですか、そのようなお言葉、到底承服できません!」
私の強い語気が気に障ったのか、御神木はすぐには言葉を返してくれなかった。時折吹く風と葉擦れの音だけを聞きながらしばらく過ごした後、ようやく声が聞こえてきた。
「荒木田、これまでの己の人生を振り返ってみよ。お主の幸福の陰でどれだけの者たちが不幸を引き受けてきたか、考えてみたことがあるか。少年時も、青年期も、社会に出てからも、お主は己の安泰しか考えていなかったのではないか。そのために生じた多くの不幸など、ただの一度も顧みようとしなかったのではないか。なのに何故此度はその不幸にこだわる。己の試練を達成するためにあの娘を利用したに過ぎぬのであろう。ならばこれまで同様、捨て置けばよいではないか」
「……」
絶句した。その通りだった。物心ついた時から全てが競走だった。勝者の陰に敗者がいるのは当然。同情はむしろ失礼に当たる、そう考えていた。
「お主は見下していた。仕事のできぬ無能社員と軽蔑していた。もし此度の旅がなかったとしたらどうだ。あの娘の退職も当然のものと受け止めてしまったのではないか。恩を受けた、世話になった、優しさを与えてくれた、だから捨て置けないと感じる。それはお主の身勝手だ。恩を受けようが受けまいが、同じように扱うのが正しき道であろう。他人は捨て置く、それがお主のこれまでの人生。その生き方を今後も続けていくのであれば此度もそれに従うのが道理。そうであろう」
「……仰る通りです」
もし賀衿が旅を助けてくれなかったら、彼女の不幸を平然と見過ごしていたに違いない。人は人を公平には扱えない。どうしても情に流される。だが自然は公平だ。祈りを捧げる者にも天に唾する者にも太陽の光は等しく降り注ぐ。理不尽なまでの平等……私は深いため息をついた。
(無駄足だったか)
御神託は正しい。いつも正しかった。捨て置く、これが最良の選択なのだ。私は丸めた背を伸ばし根元から離れようとした。
「待て、荒木田。お主の結論はまだ出ておらぬのであろう。お主は迷っている。その迷いはどこから生じているか今一度考えてみよ。お主にはこれまでたったひとつの幸福しかなかった。それだけを求めて生きてきた。だが今、お主には別の幸福が生まれた。求めるべき幸福がふたつ、だから迷っている。そうではないのか」
私に生じた別の幸福……賀衿、それは賀衿の幸福だ。そうか、自分自身の幸福と賀衿の幸福。その狭間で私は迷っているのだ。
「どちらを選ぶか、それを決めるのはお主自身だ。荒木田よ、勘違いするな。わしはお主の迷いを非難しているのではない。先ほどわしは捨て置けと言った。それはお主がこれまでの生き方を今後も続けるのであれば、という意味においての結論だ。生き方を変えるのなら結論もまた変わる」
「生き方を、変える……」
その言葉は闇に覆われていた私の心の中に仄かな明かりを灯した。御神木の言葉の意味がようやく分かりかけてきた。
「これまでお主は雨天が幸福だと思っていた。だからここで雲を追い払うのは公平ではないと感じている。だが晴天こそ本当の幸福だと知ったのなら、これ以降はずっと晴天にすればよい。そうすれば新しい公平が生まれる。どちらを選ぶにせよ悔いなきようにな」
「はい。ありがとうございます」
私は立ち上がった。柵を越え参道を走った。心は晴れ渡っていた。何をすべきかも分かっていた。もう迷いはなかった。
(ますは実家へ戻らなければ。首尾よく私の病室へ潜り込めればいいのだが)
鳥居を抜けたところで走るのをやめた。実家まで距離があるので走り続けるのは無理だ。往来の絶えない通りをできるだけ速足で歩く。明朝の日の出までには確実に着けると分かっていても気ばかりが先走る。
(懐かしいな、この町、この道。両親や兄は何をしているのだろう。私の言葉を信じてくれるだろうか。私の頼みを聞いてくれるだろうか。いや、先を案じても仕方ない。急ごう)
久しぶりに帰る我が家を目指し、私は通りを歩き続けた。
* * *
日の出の時刻は過ぎていた。私は実家の玄関横にある植え込みの陰に身を潜めていた。
昨晩遅く実家に着いたが、戸締りしてある家に侵入するのはさすがに無理だった。そのまま敷地の中で一夜を過ごし、中へ入り込む機会を狙っているのだ。
(まだ続けていれば、そろそろ出てくるはずだ)
兄は中学の頃から早朝ジョキングを続けていた。雨天や台風の時は中止することもあったが、晴天ならばよほど体調が悪くない限り休まない。今日の天気ならやがて外に出てくるはずだ。
(んっ、来たか)
戸の内側で物音がする。引き戸が開く。兄が姿を現わした。
(今だ!)
開いた戸の隙間から素早く入り込む。
「あっ、なんだ、この猫は」
驚く兄の声を無視して廊下を走る。診察室及び病室は右。そして真っ直ぐ。走る走る。
(あそこだ)
ドアノブに飛び付いて病室のドアを開ける。4つのベッド、3つは空。残るひとつに寝ているのは私だ。
(……痩せたな)
状態は思ったほど悪くなかった。左腕に繋がれた栄養補給の点滴。日が経てば鼻チューブに変わるのかもしれない。下半身はおむつをあてがわれているはずだ。点滴だけでも排便はあるのだ。
「大変だよ、野良猫が入り込んだ!」
兄の声。複数の足音。ぐずぐずしてはいられない。寝ている私の胸に飛び乗る。その顔に手を触れ心の中で叫んだ。
(倭姫! 私の命を元の体に戻してくれ!)
「心得た」
懐かしい倭姫の声が聞こえた瞬間、私の意識は一気にかき消されてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます