果報は諦めて待て
「起きてるか、着いたぜ」
車が停まった。乗っていたのは20分くらいだろうか。拉致された地点からは10km程度といったところか。大通りに面しているせいか車や雑踏が騒がしい。
(チャンスは一度だけだ。焦るなよ)
私はずっと寝たふりをしていた。そしてこっそりと絡まった網を解いていた。車が走行している間の脱出はまず不可能。ならば無駄に足掻いたりせず体力を温存するのが得策。狙いはドアが開いた瞬間だ。素早く飛び出しダッシュすれば捕まるはずがない。
「用心のために一発やっておくか」
男が後部座席に身を乗り出してきた。何かを私に向けたかと思うと顔に液体が噴射された。
「ぶにゃ!」
凄まじい刺激が脳天を突き上げた。またたびスプレーが鼻に向けて直に噴射されたのだ。
「おっと少し強すぎたか。死ぬなよ」
(くそっ、元の体に戻れたら動物愛護団体に訴えてやる)
男が外から後部座席のドアを開ける。頭が痺れる。駄目だ、こんな状態ではダッシュどころか足も満足に動かせない。再び網に包まれると為す術もなく男の部屋へ運び込まれた。
「しばらくここで暮らしてもらうぜ」
アパートの一室のようだ。散らかっている。臭う。ゴミ屋敷完成まであと一歩という感じの乱雑さだ。
手荒に床に置かれた私は部屋の中を見回した。生活感が乏しい。ダンボールや紙袋などと共に旅行鞄、ポーチ、札入れなどが無造作に転がっている。
(ここは盗品の置き場所としてだけ使っているようだな。ツアーの紛失物も探せばどこかにありそうだ)
男の間抜けさが気の毒になる。わざわざ盗品が置かれているアジトに連れて来てくれたのだから。しかし今は盗品奪還よりも脱出逃走が最優先事項だ。私はあらん限りの声を振り絞って鳴き始めた。
「にゃーにゃーにゃー!」
ここはアパート。しかもかなりの安普請。壁も天井も防音性能はかなり低い。ずっと鳴き続ければ別の部屋の住人が苦情を言いに来るはずだ。応対のためにドアを開いたその時に、素早く隙間から逃げ出すのだ。
「ふっ、分かっているよ、お前が何を企んでいるのか。生意気にこんな首輪なんか付けやがって」
男は私の顔だけを網から出すと、賀衿がはめた首輪を外した。そして新たにもっと大きく太く重い首輪をはめた。
「鳴いてみろよ」
言われるまでもなくそのつもりだ。私は大きく息を吸い、喉に力を入れて発声した。
「……ぐっ!」
またたびスプレーとは比較にならない衝撃が全身を走る。四肢も頭も体の全てが硬直する。
(こ、これは、電流か……)
「ははは、どうだ、無駄吠え防止首輪のはめ心地は。気持ちいいだろう。犬用だからどうかと思ったが猫にも効くようだな」
(無駄吠え防止だと。赤子が泣くのと犬が吠えるのは自然の摂理。誰だ、こんな物を発明した奴は。そんな暇があったら上司の無駄な説教防止首輪とか作って欲しいものだ)
などと毒づいたところで状況は変わらない。身体に影響のないほど微弱な電流のはずだが、受ける刺激の不快感は到底耐えられるものではない。別の脱出方法を考えねばなるまい。
「そうそう。そうして大人しくしていれば何もしねえよ。大事な大事な金づるなんだからな。さあてメシでも食いに行くか。一日中バスを見張っていたからロクな物を食ってないんだ。ああ、心配すんな。お前の分も買って来てやるよ」
男は首輪に鎖を付けた。いくら室内でも放し飼いはまずいと思ったのだろう。そして部屋を出て行った。
(この私から目を離すとはまだまだ甘いな。猫の力を見くびり過ぎだ)
網から抜け、散らかったゴミの頂上に立つ。室内を見回す。出入り口のドア、キッチン、その右にドア。キッチンの対面にサッシの窓。窓の向こうに低いブロック塀。塀の向こうは人と車が行きかう大通りだ。
(逃げるとすればあの窓か。しかし高さが2m近くある。開錠できても開けられるかどうか……いや、今はやるしかない)
ゴミから下りて窓に近付く。結ばれた鎖はまだ余裕がある。思いっ切りジャンプ。錠の取っ手に爪が当たる。
(いけそうだな)
何度も試すうちにうまく爪が引っ掛かり開錠に成功。次は窓開けだ。爪を立てて開けようとするが重すぎて動かない。
ひと思案した後、体を横にして両後ろ足を窓枠に着け、両前足の爪を窓に立て、そのまま伸びをする要領で窓をスライドさせた。
(よし、開いた。問題はこの鎖だ)
繋がれているのは金属の鎖だ。如何に猫の牙と爪でも金属の鎖を断ち切るのは不可能。はさみやナイフやペンチを使っても、猫の腕力では弱すぎるだろう。
(とにかく外へ出てみるか)
開いた窓から体を乗り出した。辛うじて地面に下りられる。が、それ以上は鎖に引っ張られて進めない。
(どうする。この鎖の呪縛から解き放たれるための何か良い方策はないか)
一旦中へ戻る。室内は陰り始めている。日が沈もうとしているのだろう。
私は考える。鎖は切れない。ならば首輪から鎖を外す……無理だ。首から首輪を外す……それも無理だ。
鎖はサイドボードの取っ手に南京錠を使って結ばれている。サイドボードを引きずって逃走……重すぎる。サイドボードの取ってを外す……首輪を外すよりも難しい。南京錠を外す……それができたら錠の意味がない。私はため息をついた。
(諦めるしかなさそうだな。思えばよくここまで来られたものだ)
三嶋大社の御神木の言葉を思い出す。――いい気になっていると思わぬ所で足をすくわれる――そうだ、私はいい気になっていた。財布を取り返し、賀衿の罠から逃れ、実家までもう少しの場所まで来た。試練は達成したも同然、そう思い込んでいた。その心の甘さが今の苦境を招いたのだ。
(外に出よう。こんな散らかった部屋では気が滅入る)
開いた窓から地面に下りた。首が引っ張られる。アパートの建物に顔を向けて座らないと苦しくて仕方がない。岩壁を見詰めて座禅している達磨大師のような心境だ。
(通行人はブロック塀の内側にいる私に気付かないだろうか。いや、気付いたとしても何もしないだろう。猫だからな。しかも通りに背を向けて座っているし)
塀の向こうから聞こえてくる音に耳を傾ける。猫の可聴域は犬より優れている。より高い音を聞き分けられるのだ。人では聞こえない音でも猫の耳には聞こえる。そう、本来聞こえるはずのない声でも聞こえてしまうのである。その声は遥か遠くで鳴る霧笛のように私の耳の中へ入ってきた。
「荒ちゃん、どこにいるの、荒ちゃーん」
(ば、馬鹿な……)
信じられなかった。それは賀衿が私を呼ぶ声だった。
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