逃げるが勝ちとは限らない

 翌朝、赤坂宿に止まったバスに拾われて、私は第五回東海道弾丸ツアーに参加した。


「皆様、次の藤川宿の十王堂には芭蕉の句碑『ここも三河むらさき麦のかきつばた』が立っております。江戸時代の藤川宿一帯には、紫色の麦畑が広がっていたそうです」


 賀衿は絶好調だ。今日が私と過ごす最後の日だというのに、寂しそうな様子は微塵も見られない。いつもよりも元気なくらいだ。そしてその明るさが私の疑惑を一層深くした。


(間違いない。熱田神宮で隙を見て私をバスケットに閉じ込めるつもりだ。まずいぞ。倭姫との約束の期限は明日。もし今日バスケットに入れられて川崎まで連れて行かれたら、明日の日没までに伊勢に着くのはまず不可能。元の体は衰弱死し、私は一生猫のまま)


 何とか対策を考えねばならない。賀衿の様子から察するに、説得はもはや不可能に思われる。となれば向こうが策を仕掛ける前にこちらが先手を打って賀衿に策を仕掛けるしかない。


 私は思案し続けた。バスは順調に行程をこなしていく。城下町の入り組んだ町並みゆえ「岡崎二十七曲り」と評せられる岡崎宿を過ぎ、東海道三大社のひとつ知立神社がある池鯉鮒ちりゅう宿を出発した時、私の腹は決まった。


(宮宿に着く前に逃げよう。それしかない)


 次の鳴海宿を出れば今日の最終地宮宿だ。チャンスは一度だけ。賀衿に気付かれないようにツアーから離脱するのだ。

 鳴海宿から宮宿までは7km弱。少し早めに歩けば夜中までには着けるはず。その後、実家へ帰り当初の計画通りに事を進める。猫の体には負担をかけるが明日までの命なのだ。少々ぞんざいに扱っても罰は当たらないだろう。


「鳴海宿に到着です」


 バスが止まる。ドアが開く。私はすぐにバスケットから飛び出した。


「こら、荒ちゃん、お行儀が悪いぞ。お客様が降りてからでしょ」


 賀衿の声を無視して一目散に走る。まずは神社だ。バスは日本武尊を祭神として祀る成海神社に駐めさせてもらっている。


(探す手間が省けたな。これならすぐに戻れる)


 鳥居をくぐって参道を走る。拝殿前の賽銭箱にタッチするとすぐ引き返す。


「あれ、もう戻ってきた」


 ツアー客がいなくなったバスに乗り込みバスケットに入る。あのまま逃げてしまったら賀衿が私を探そうとするはずだ。下手をするとバスの出発を遅らせてまで探し出そうとするかもしれない。そこで一旦バスに戻り、賀衿に気付かれないように再度逃げ出すのだ。


 バスケットの蓋が閉じていれば、それは私が中にいる合図。沼津でクレームを受けて以来、賀衿は閉じている蓋を決して自ら開けようとはしなかった。気付かれることはないはずだ。


「疲れているのかな。ゆっくり眠るといいよ」


 賀衿は蓋を閉めるとバスを降りて行った。私は少しだけ蓋を持ち上げて様子を伺う。ぐずぐずしていると運転手も降車して扉を閉めてしまう。


(そろそろ行くか)


 賀衿の姿が視界から消えた。そっとバスケットから這い出し、蓋を閉め、バスを降りる。賀衿は参道に向かっている。音もなくその背後を横切り、茂みの陰に身を潜める。このような隠密行動は猫のもっとも得意な分野と言えよう。


(大丈夫だ。誰も気付いていない)


 そのまま私は茂みに潜み続けた。逃亡するのはバスが何事もなく発車するのを見届けてからだ。万一賀衿が気付いたら大騒ぎになるはず。その時は姿を現わして騒ぎを鎮めなくてはならない。私はツアー客が戻って来るのをじっと待った。


「皆様、お疲れさまでした」


 ようやく戻ってきた。ぞろぞろと乗り込んでいく。扉が閉まる。動きだすバス。その姿が見えなくなったところで茂みから這い出た。


(こんな形で別れることになってすまない。元の体に戻ったら倍返しで礼をさせてもらうよ)


 歩き出す。宮宿に着く頃にはツアー客も賀衿も帰路に就いているだろう。どんなに急いでも鉢合わせになる心配はない。いつもよりペースを上げて旧街道を歩く。国道1号線沿いに歩いた方が距離的には短いが、この辺りから国道の上を名古屋高速が走るので騒音が激しくなる。猫は静けさを好むのだ。


 天白川を渡り、笠寺一里塚を越えた。順調だ。が、不意に妙な匂いを感じた。


(な、なんだ。この頭にツンとくる匂いは……)


 初めて嗅ぐ匂いだった。同時に心臓の動きが激しくなった。脈拍数が増しているのが分かる。頭の芯がしびれる。まるで酒を一気飲みしたかのような気分だ。


(どこだ、匂いの元は。何が匂っているんだ)


 私は足を止め鼻を利かす。駄目だ。よけいに匂いを強く感じてしまい正常な探索ができなくなる。


「危ない、伏せろ!」


 背後から大きな声がした。咄嗟に伏せの態勢を取る。間髪入れず私の体に何かが覆いかぶさった。網だ。漁網に似た細かい目の網に体が包まれている。


(何が起こっているのだ。こんな道の真ん中で、一体何が……)


 混乱する頭。鼻を突く匂い。逃れようと足掻けば足掻くほど網に絡まっていく四肢。まるでこの世の終わりがやって来たような気持ちだ。


「ははは、かかったなクソ猫」


 声を聞いて我に返った。顔を上げると男が立っている。知っている顔だ。三島からバスに乗り、丸子で財布を盗んだ護摩の灰、あの卑劣な男が私を見下ろして立っていた。


「やはり言葉が分かるのだな。普通の野良猫なら声を出せば逃げる。だが、お前は言葉の意味が分かった。だから逃げずにその場で伏せをした。頭の良さが裏目に出たな。いい気味だ。ははは」

(こいつ、なんてしつこさだ。とっくに諦めたと思っていたのに、復讐の機会を狙っていたのか)


 男が網ごと私の足を掴んだ。頭を下にして宙づりにされる。逃れようと暴れれば暴れるほど網が体に絡みつく。男が見ているのは股間だ。


「思った通り雄だったか。猫にしては頭が良すぎるから絶対そうだと思っていたんだ。雄の三毛猫は神からひとつだけ特殊能力を与えられる。ある三毛猫は空が飛べる、ある三毛猫は火を吹ける、そしてお前は人の言葉が分かる能力を授かった。そうだろ! 子供の頃、絵本で読んだんだ」


 おい、その話を聞くのはこれで2度目だぞ。と言うかその絵本、そんなに有名なのか。元の体に戻れたら探してみよう。戻れるかどうか分からんがな。


「前回も今回もツアーに参加しなかったのはお前を油断させるため。俺は昨日から車を使って、こっそりツアーを監視していたんだ。驚いたぞ。お前の姿がなかったからな。しくじったかと思った。が、今朝、お前が姿を現わした。そしてこの神社でバスに乗り遅れた。聞こえたぜ、神の声が。『復讐の時来たれり。さあやれ!』ってな。用意したまたたびスプレーでお前の思考を奪い、声を掛けて動きを止め、網を投げてお前を捕獲した。完璧だよ。ああ、安心しな。大事に扱ってやる。雄の三毛猫は数千万の値が付くんだろ。大切な商品に傷は付けないよ。邪魔されて稼ぎそびれた分、お前の体できっちり払ってもらうぜ」

(そうか、あの匂いはまたたびか。確かに効いた。まだ頭が痺れている)


 私を持ったまま男は歩き始めた。車が駐めてある。これから拉致監禁の罪を犯すつもりなのだろう。もっともそれは人間に対して適用されるのであって野良猫に対しては適用されない。これだけの蛮行を働いておきながら、動物愛護法に抵触するかどうか、という程度の罪にしかならない。


「大人しくしていな」


 車の中に放り込まれた。万事休すだ。

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