第五話 一巻の終わりか 尾張 宮宿
無宿渡世の股旅猫
宮宿は熱田神宮の門前町、そして七里の渡しの船着場を持つ港町でもある。最盛期には家屋数3千軒弱、人口1万人を超える東海道最大の宿場町であった。
熱田神宮は
(なんてことをしてしまったのだ。なぜ気が付かなった。これだけ一緒に時を過ごしていて、どうして……)
私は走っていた。鎮守の森に覆われた熱田神宮の参道。残照の空には夜の
(御神木に会わなくては。これまで2度も進むべき道を示してくれた御神託、今の私にはそれが必要だ)
弘法大師が手植えし、幹には白蛇が住み着いているという樹齢千年の大楠。赤く光る眼で闇を征圧しながら、人通りの絶えた参道の砂利道を蹴って私はひたすら走り続けた。
* * *
第4回のツアーが終わった翌日の朝、私は新居宿を発った。1日にひとつの宿場を回れば土曜までに赤坂宿に着ける。初日に日本橋から品川まで10km以上、次の日も川崎まで10km近く歩いたのだ。大雨や強風などの悪条件に見舞われない限り余裕で到着できるはずだ。
(次の白須賀宿までは約7kmか。猫の体にも慣れてきたことだし、できるだけ旧街道を歩いてみるか)
東京や箱根で大きく異なっている部分もあるが、かつての東海道は国道1号線が踏襲している。ただ当時の面影をしのばせる名所旧跡は国道から離れた道沿いに多い。今回はそれらも楽しみながら行くことにしたのだ。
私の足取りは軽かった。口に合う食料や心休まる寝床を探すのは大変だったが、見付けられずに困るようなことはなかった。
白須賀宿から境橋を渡って愛知県へ入る。二川宿では江戸時代から続く商家「駒屋」で醤油と味噌の香りを楽しみ、吉田宿では公園となっている吉田城跡で昼寝を楽しみ、街道に残された中で最も美しいと評判の御油の松並木を歩いて、目的の赤坂宿には土曜の昼前に着いてしまった。
(第5回のツアーは今頃どの辺を回っているだろうか。そろそろ吉田宿で昼食を取る頃か)
食べることを考えると腹が減る。この体になって10日以上経つが、普通の野良猫が食べているであろう小動物、虫、川魚、雑草などは、どうしても食べる気になれない。納豆嫌いの人が健康に良いと勧められても、納豆を絶対口にしないのと同じ理屈だ。
(駅前の方へ行ってみるか)
賑やかな場所は危険も多いが食料にありつく可能性が高い。飲食店の裏口に置かれたごみ入れ、猫好きの買い物客、落ちている食べ残し。猫にはそれで十分だ。そして今日も腹を満たせるだけの食料が見付かった。
(次は神社だな)
単独で回る5つの宿場については、賀衿のスマホで神社の位置を調べておいた。ここ赤坂宿では千年以上の歴史がある杉森八幡社へ行くつもりだ。旧街道沿いに鳥居が立っているのですぐに分かった。
(これが夫婦楠か)
御神木は樹齢千年と言われる2本の楠。ひとつの根株から2本の楠が成長しているのでそう呼ばれている。根元に近付き、そっと触れる。
(……やはり何も聞こえないか)
これまで御神木の御神託は2度聞いた。稲毛神社の大銀杏と三嶋大社の大楠だ。それ以降も神社で立派な大樹を見掛けるたびに私はその幹に触れた。だが語り掛けてくれる木は1本もなかった。この神社の夫婦楠は前の2本と遜色のない威容を誇っているが、やはり何も語ってはくれないようだ。
(これ以上の御神託は必要ないという意味か。それとも他に理由があるのか)
聞こえて来ない声を待っていても仕方がない。私は夫婦楠から離れ日当たりの良い場所を探した。ここ2週間ほど欠かさず行っている昼寝の時間になったからだ。
目を覚ましたのは夕刻に近かった。寝ていただけなのに腹が減っている。
(また駅前で何か探すか)
鳥居をくぐって神社を後にする。国道1号線と平行に流れる川に沿って駅へ向かう。
「もしかして、食べ物を探しに行くのかな」
空耳かと思った。声の主は知っている。しかしこんな場所にいるはずがない。信じられない気持ちで後ろを振り向くと賀衿が立っていた。
「お久しぶり、荒ちゃん」
(馬鹿な、どうしてこんな所にいるのだ)
赤坂宿は1日目のツアーの最終地。この時刻なら到着していてもおかしくはない。だが、こんな何の変哲もない場所へ添乗員がひとりだけで来るのは不自然過ぎる。
(何かあったのか。それとも単なる偶然か……)
「うふふ。どうしてここにあたしがいるのか、不思議に思っているみたいだね。きっとあたしと荒ちゃんは赤い糸で結ばれているんだよ。川崎の神社で初めて会った時から、そう感じていたんだ」
どこまで本気か分からない。あるいは杉森八幡社で眠っている私を見掛け、驚かすつもりでこっそり後を付けてきたのかもしれない。あの神社なら見学コースに入っていても不思議ではない。
(恐らくそんなところだろうな。賀衿ならやりそうな悪戯だ)
私なりに結論を出す。と、賀衿が鞄から何か取り出した。
「荒ちゃん、少し痩せた? この5日間、満足に食べていないんでしょ。これ、今日の夕食と明日の朝食。あたしの手作りで~す」
トンカツかと思ったが違った。ささみを乾燥させたジャーキーのような食べ物だ。有難く咥える。
「明日で荒ちゃんともお別れなんだね。でもね、あたしと荒ちゃんは決して離れられない運命なんだよ。果たして明日、あたしから無事に離れられるかな。ふふ、熱田神宮が楽しみだよ。荒ちゃん、覚悟しておいてね。うふふふふ」
(な、何を言っているのだ、この娘は)
不気味な言葉だ。おまけに賀衿は時代劇の悪代官のような表情になっている。何か企んでいるのは疑いようがない。
「また明日ね、荒ちゃん。明朝のバス、ここには僅かな時間しか停まらないから、乗り遅れないように待っているんだよ」
賀衿は私を追い抜いて駅の方へ歩いていく。そちらにバスを駐車してあるのだろう。食料が手に入ったので駅前へ行く必要はなくなった。私は元来た道を戻る。今晩は杉森八幡社で眠るつもりだ。
(それにしても気になるな。さっきの賀衿の言葉。離れられない、覚悟しておけ………何を考えてあんなことを……はっ、まさか)
脳裏に蘇る。掛川のホテルで酔っぱらった賀衿が放った言葉、
――よーし、それなら熱田で荒ちゃんが逃げないようにバスケットの蓋に鍵をかけちゃおう。そうすればいつまでも一緒にいられるしね。ヒック――
私の背中に戦慄が走った。あまりの衝撃のために咥えたささみを落としそうになったほどだ。
(本気なのか、賀衿。酔っ払いの戯言ではなく、本当に私を……)
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