思い出の風景

 2日間に渡って男を監視し続け財布を取り返した功績。それは婦人にくしゃみをさせたあのほんの僅かな時間のために帳消しになってしまった。そして賀衿を更に不利な立場に追い込んでしまった。


(部下の業務の邪魔立てをするとは、上司として失格だな)


 申し訳なかった。謝りたかった。しかし適切な言葉が出て来なかった。

 私はスマホを跨いでベッドに飛び移った。依然として胡坐をかいている賀衿の肩に乗り、そっと頬を舐めた。


「やだあ、ワンコみたいな真似はやめてよ。あ、もしかして慰めてくれてるの? 荒ちゃん、優しい~」


 賀衿が私を抱き締めてベッドに寝転がった。いや、何も抱き締めてくれとは言っていない、むしろ苦しいからやめてくれと言いたいところだ。が、これは賀衿に迷惑をかけたせめてもの罪滅ぼし。辛抱である。


「あ~あ、もう人事部の言うことなんか聞かないで無視しちゃおうかなあ」


(無視だと。それは内示に従わないという意味か。そんなことをすれば良くて窓際、下手をすれば解雇だぞ。やめろ。いくら資格を持っているからって、おまえのような無能社員が再就職できると思っているのか。一生ニート確定だ。思い留まれ、それだけはするな。どこに飛ばされようと耐えて頑張るんだ)


 腕の中で必死になって頭を横に振る。賀衿は不満そうだ。


「あれ、荒ちゃんは反対なの。会社の言い成りになれっていうの」


 大きく頷く。


「荒ちゃんがそう言うなら少し考えてみるよ」


 ほっと安堵の息を漏らす。どこまでも世話の焼ける娘だ。


「ねえ、荒ちゃん、聞いてくれるかな。あたしが旅行の仕事をやろうと思った理由。お父さんがそうだったっていうのもあるんだけど、子供の頃の思い出が一番大きいんだ」


 賀衿の話は続く。腕に抱き締められたまま耳を傾ける。


「あたしはね小さい時から風景を見るのが好きだった。それは絶景とか風光明媚とかそんな大層なものじゃなくて、ジャングルジムのてっぺんから見る夕日とか、トイレの小窓から眺めた裏庭とか、寝転がって見上げた電線とか、すぐ近くにあるのに全然気付かなかった風景、そんなのが好きだったの」


 変わった子供だな。今でも十分変わってはいるが。


「面白い風景を見付けると友達に教えてあげた。みんなは喜んでくれた。それが嬉しくていつも見慣れない風景を探していた。やがてあたしは風景よりも、そんなふうに喜んでくれる友達を見るのが好きになった。もっと喜んでいる顔が見たい、驚いている顔が見たい、面白がっている顔が見たい。それで一所懸命勉強して会社に入った。研修も頑張って資格を取った。だけど思っていたのとは違っていた。会社ではいつも叱られてばかり。経費削減、営業努力、そんな言葉ばかり聞かされる。もう飽き飽きだよ」


 身につまされる話だった。それは賀衿だけではない。私にも、社員全員にも当てはまる。株式会社の最優先事項は客を喜ばせることではない、株主を喜ばせることだ。何をすれば株主は喜ぶか、利益を上げれば喜ぶ。だから会社は利益第一主義になる。


「ようやく添乗員になっても、見たかった顔にはほとんど出会えない。文句や不満やお愛想笑いばかり。子供の頃見たかった風景に出会うために、私はどうすればいいんだろう……」

(ああ、私にもあったな、そんな風景が……)


 記憶が蘇ってきた。遠足の汗を乾かしてくれる風、初めての一人旅で感じた孤独な夜、見知らぬ人と共に感動した夕焼け。そうだ、忘れていた。私もまたそんな風景が好きでこの会社を選んだのだ。同じ想いを共有しながらひとつの風景の中にいる、そんな光景を見たくてこの仕事を選んだのだ。だが、今の私は……


「う~ん、荒ちゃん……」


 ようやく眠り始めたようだ。しばらく寝言を聞きながら腕の中で息を潜める。やがて静かな寝息が聞こえてきた。私は腕を抜け出て窓枠に飛び移った。カーテンの隙間から外を眺めると月が出ている。雨はやんだようだ。


(いつまでも賀衿に甘えてはいられない。これからは極力自分の力で先へ進もう。それにそろそろ別れの準備をした方がいい。新月まであと9日。この猫の命はそこで尽きるのだからな)


 これから一日ずつ細くなっていく月。それはまたこの猫に残された命、そのもののように思われた。


 * * *


「えっ、これ、本気なの、荒ちゃん」


 翌朝、スマホの画面を見て賀衿は声を上げた。昨晩私が打ち込んだ文章が表示されている。


「このツアーが終わったら、5日かけて新居宿から赤坂宿まで徒歩で移動する。次の第5回のツアーは赤坂宿から参加する。その日の最終地である宮宿に着いたら、私のことはきれいさっぱり忘れて欲しい……」


 賀衿が私の文章を読み上げる。車内でツアー客に迷惑をかけたと分かった以上、バスの利用は最小限に抑えるべきだ。次のツアーまで5日間あるのだから徒歩で進めるだけ進む。これが私の新たな決意だ。


「ねえ、お酒飲んで記憶が曖昧なんだけど、もしかしたらあたし、荒ちゃんが嫌がるようなこと、何かした?」


 一瞬返答に迷う。大いに迷惑をこうむったからだ。が、それは私の決意とは関係ない。頭を横に振る。


「今、ちょっと躊躇したでしょ。やっぱり何かあったんだね」


 今度はすぐ頭を横に振る。賀衿は疑わし気にこちらを見ていたが、やがて仕方ないという顔になった。


「分かりました。荒ちゃんの行動を止める権利は私にはないものね。それに新居宿から赤坂宿までは5カ所あるけど距離も短いし、5日あれば余裕で着けそうだね」


 よく調べているなと感心する。その通り、30kmほどしかない。この区間にある御油宿~赤坂宿は、東海道で最短の宿場間距離、2km弱である。猫の足でもさして苦労せずに踏破できるはずだ。


「さあ、それでは今日のツアーに向けて朝食にしますか」


 そう言って賀衿が置いた紙皿の上にはトンカツが乗っていた。2食続けて同じ飯はちょっと……などという贅沢は禁句である。


 2日目は昨日と打って変わって晴天だった。バスは順調に宿場を巡っていく。江戸と京の中間27番目の袋井宿。江戸へ向かう旅人が初めて富士山を見付ける場所、などと言葉遊びされる見附宿。天竜川。箱根と同じく6つの本陣があった浜松宿。明応地震が起きるまでは陸続きだった舞阪宿と新居宿。

 穏やかなツアーの時は瞬く間に流れていき、その日最後の自由見学を終えたツアー客は新居町駅へと消えていく。


「今日も無事終わったね。お疲れさま、それからこれ、少ないけど」


 先週と同じ干し肉だ。今回は袋に入っていない。明日から始まる徒歩の旅に沢山の食料は邪魔になる。今晩と明朝の2食分という意味なのだろう。有難く咥える。


「あたし、行くね。日曜の朝にまた会おうねえ~」


 手を振って歩いていく賀衿。こうして駅へ向かう姿を見送るのはこれが最後となるはずだ。旅の終わりは近い、そう感じずにはいられなかった。

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