酔い始めは宵のうち
風呂を出て、濡れた体をドライヤーで乾かしてもらい、ようやく人心地が付いた。
(部下と一緒に入浴するなど上司としてあるまじき行為。やむを得ない状況だったとはいえ反省しなくてはならないな)
現在の私は完全に賀衿の玩具状態だ。これからどのように弄ばれるのか想像しただけで恐ろしくなる。
(夕食を済ませたら部屋の隅へ行ってさっさと寝よう。いくら賀衿でも寝た猫を起こすような真似はしないだろう)
「荒ちゃん、ごはんですよ」
床で丸まっている私の前に紙皿が置かれた。トンカツだ。
(うむ。よく分かっているではないか。やはり猫には肉だ。それにしてもその格好はなんだ)
トンカツを食べながら不快感を露わにする。賀衿は下着しかつけていないのだ。風呂を出たばかりで暑いからと言っても行儀が悪すぎる。
――ツーツートツーツー、トツー……
しかも奇妙なリズムで壁を叩いている。気になった私は食事を中断して賀衿の背中を叩いた。
「あっ、もしかして何をしているんだって思ってる?」
頷く。賀衿は指で壁を叩くの止めると得意げに言った。
「これは恋人探しで~す。高校の時に見た映画でね、部屋の壁でモールス信号を打っていたら、隣室の男子と壁を挟んでお知り合いになって、ラストで2人は結ばれるの。それでホテルに泊まるたびにこうしてまだ見ぬ相手を探しているんだ」
(それ、隣がヤバイ奴だったら怒鳴り込まれるぞ。そもそも今の時代にモールス信号を知っている奴なんかいないだろう)
背中を叩かれたことで賀衿の興がそがれたようだ。壁から離れてベッドに座ると缶ビールを手に取った。
「さあて、あたしも食べようかなあ。荒ちゃん、乾杯!」
下着姿のまま一気飲みである。テーブル代わりの電話台の上にはさきいか、駄菓子のソースカツ、チーズ鱈、パックのサラダ、そんな物ばかりが並んでいる。これではまともな夕食とは言えない。
(これは注意の必要があるな)
トンカツを食べ終わった私は右の爪で左の肉球を突いた。「スマホを貸せ」の合図である。
「えっ、何かお話がしたいのかにゃあ~」
早くも酔いが回り始めているようだ。最初のビールを空にした後は2本目の缶チューハイを飲んでいる。
「はい、どうぞ」
賀衿から受け取ったスマホに「服着ろ」と入力する。途端に不機嫌な顔になる。
「え~、やだよ。あたし、お風呂から出たあとはいつも寝るまでこの格好なんだから。それに荒ちゃんだって服着てないでしょ」
猫が服を着ていたら、そちらの方がおかしいだろ。屁理屈ばかり言いやがって。スマホに「風邪ひくぞ」と入力。賀衿がにやりと笑う。
「心配は御無用にお願いします。暖房は最強にしてございます」
どうりでさっきから暑いと思った。下着姿でベッドに
続けて「ちゃんとメシ食え」と入力したかったが、「荒ちゃんだってトンカツしか食べてない」と言われるのがオチなのでやめておいた。
「ねえ、せっかくだからもっとお話しようよ。荒ちゃん、このツアーはあと2回で終わるけど、その後はどうするつもり?」
そうだ。まだ言っていなかった。最後のツアーは参加しないのだ。教えておいた方がいいだろう。スマホに「宮宿でお別れ」と入力する。
「宮宿、熱田神宮か……ははーん、そこで別れるってことは、荒ちゃんの目的地はズバリ、伊勢だね」
(うっ、どこまでも勘のいい奴だな)
言い当てられて驚きはしたが、考えてみればさして難しくもない推理だ。あの弥次・北も直接京へ行ったのではない。途中から伊勢街道に入って神宮に参拝し、大和路から京へ入って最終地大阪へ至っている。伊勢参りのツアーもあるのだから言い当てられて当然だ。
「水臭いなあ。それならあたしが連れて行ってあげるよ。来週は無理だけど、次のツアーが終わった翌日に代休入れて一緒に行こうよ」
次のツアーが終わった翌日、12日か。倭姫と約束した新月の日だ。この申し出に一瞬私の心は動いた。が、即座に否定した
一日で回るとなると伊勢到着は日没間近である。ぐずぐずしていると日が沈んでしまう。賀衿の前で元の体に戻してもらわなくてはならない。その時、この猫はどうなるだろうか。
(絶命するはずだ。死神に命を持って行かれたのだからな)
私は名古屋の実家で目を覚ます。その代わりにこの猫は賀衿の眼前で死ぬのだ。どれほどの悲しみが賀衿に襲い掛かるか想像もできない。私は頭を振った。「遠慮する」と入力する。
「そっかー、あたしも嫌われたもんだね。よーし、それなら熱田で荒ちゃんが逃げないようにバスケットの蓋に鍵をかけちゃおう。そうすればいつまでも一緒にいられるしね。ヒック」
電話台の上には空き缶が4本並んでいる。酔っ払いの戯言に過ぎないと片付けたいところだが、賀衿なら本気で実行しそうだ。一応心に留めておこう。
「それなら12日はちゃんと本社へ行こうかな。実はあたし人事部から呼ばれているんだ。よく考えておけって言われてさ」
内々示、いやもう3月だから内示か。賀衿は派閥には属していないはずだが、常務の娘となれば風当たりもきつくなるだろう。この私でさえ地方に飛ばされたのだからな。異動の対象になるのも已むを得まい。
「あたしだって一所懸命やってるよ。怖い支店長にだって我慢してるよ。たくさん仕事を押し付けられても素直にやってるよ。なのに考えておけって何よ。これ以上何を考えるのよ」
酔っ払いの愚痴ほど見苦しいものはない。それに私は怖くない。厳しいのだ。全然違う。任せる仕事量も他の社員の半分以下だ。そんな考えだから考えておけなんて言われるのだ。
「そりゃあたしだってうまくいかない時もあるよ。1回2回のツアーでは紛失物もたくさんあった。でも前回のツアーでは遂にゼロだったんだよ。褒めてくれたっていいじゃない」
うむ、あれは私が頑張ったからだ。褒めて欲しいのはむしろこちらだ。しかし副支店長からも
「あのおばさんのせいだよ。荒ちゃんも覚えているでしょう。沼津でくしゃみしながら文句を言ってきた人。うちの会社のお偉いさんの関係者だったらしくて、わざわざ本社にクレームを入れてきたの。おかしいよね。あれからずっと荒ちゃんはバスケットの中で大人しくしていたから、車内では一度もくしゃみなんかしなかったし、宿場を見学している時に気分が悪くなったからって、他にも野良猫がいるんだから荒ちゃんだけのせいじゃない。なのにあたしが悪いって文句言って、今回のツアーには不参加なんだよ。しかも人事部からはよく考えて本社に来いなんて言われる。納得できないよ」
(そんなことがあったのか……)
息が詰まりそうになった。沼津で声を掛けてきた婦人、確かに今回のツアーには参加していない。
(賀衿には迷惑をかけないように気を配っていたつもりだが、知らぬうちに足を引っ張ってしまったようだな。すまない、賀衿)
全て私の責任だ。心の中で私は賀衿に詫びた。
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