雨の夜に火照るホテルの猫一匹
それから男はすっかり大人しくなってしまった。丸子宿を出て今回のツアー最終地の岡部宿へ着いても、表情にまったく覇気が感じられなかった。ヤル気を完全に喪失してしまったのだろう。
(これに懲りて以後のツアーは自粛してくれるといいのだが)
岡部宿の自由見学を終えた後は解散である。が、全員が鉄道で帰路に着くのでバスで焼津駅まで送っていく。駅でツアー客を見送り、貸し切りバスも出発してしまうと、賀衿はバスケットから私を出した。
「荒ちゃんはどうするの。私と一緒に家へ来る。ここで1週間先のツアーを待つのは退屈でしょ」
答えは当然否だ。川崎まで逆戻りするなど絶対にお断りだ。それに、そこまで賀衿の世話にはなりたくない。
「だと思った。じゃあこれ」
賀衿が鞄から袋を取り出した。口を開けて中を見せる。入っているのは食べ物のようだ。
「ペット用の干し肉、無添加だから安心。それからチーズと煮干し。1週間は持たないと思うけど少しは足しになるでしょう」
(賀衿らしからぬ気の遣いようだな。しかしこれは有難い。感謝しないとな)
私は頭を下げた。賀衿が嬉しそうに笑う。
「次の土曜まで元気でね」
賀衿の姿が駅の中へ消えると、もらった袋を咥えて歩き出した。今夜のねぐらを探すためだ。
それから5日間、私は焼津で過ごした。本来なら少しでも伊勢に向かって前進すべきだろう。しかし5日間で回れるのはせいぜい5カ所。次のツアーに同行すれば簡単に追い抜かれる距離でしかない。ならば余計な体力を使わず休養した方がよい。
あの男も気掛かりだった。私の監視の目がなければ再び悪事を働き出すに決まっている。次のツアーも最初から同行し監視を続ける必要がある。
(予定通りに進んでいることだし、たまには骨休めも必要だ)
賀衿にもらった食料を食べ、たまにゴミ箱をあさり、たっぷりと昼寝をして過ごす。猫らしい生活を送っているうちに第4回のツアーの日がやってきた。
「荒ちゃーん、元気にしてたかな」
土曜の朝、集合場所の焼津駅前に賀衿が現れた。口調はいつも通りだが、心なしか元気がないように見えた。
(疲れているのか、それとも天気のせいか)
私は空を見上げた。今にも降ってきそうな空模様だ。雨の日の旅行もそれなりに風情があるが猫にとっては大変だ。濡れると毛皮の防寒効果が大幅に低下する。風でも吹こうものなら冷却効果は倍増だ。
(降らなければよいのだが……)
「今日は午後から雨だって。かなり激しく降るらしいよ」
賀衿の言葉を聞いて辛うじて低空飛行していた意欲が一気に急降下する。あの男も雨の日は仕事がやり難いだろう。お互い様だな。
やがてツアー客が集まり出した。集合場所を岡部宿ではなく焼津駅にしたのは客の便宜を図ってのことだ。
「はい、これで全員ですね。では出発します」
バスの前に集まったツアー客を眺めて私は気抜けしてしまった。男の姿がなかったからだ。
(さすがに無駄だと悟ったか。賢明だ。どこに住んでいるか知らないが旅費も馬鹿にならないかな)
あの男が来なければ雨が降ろうが関係ない。ずっとバスケットの中に入っていればいいのだから。陰っていた気分が吹き飛んだ。今日と明日はツアーを楽しもう。
バスは行程通りに進んでいく。藤枝宿外れ「江戸より五十里」の志太一里塚を越え、大井川の渡しで栄えた島田宿、金谷宿を通り、小ぢんまりとした日坂宿を過ぎれば、本日の宿泊地掛川宿である。
「本降りになっちゃったね」
賀衿がつぶやく。既に大井川を渡る時から雨は降りだしていた。
「江戸時代なら島田宿で足止めでしたな。わははは」
そんな冗談も聞かれるくらいの強い雨だった。日坂で小康状態になったものの掛川ではまた激しく降ってきた。
昨日と同じくツアー客を宿泊施設に送り届けた後、自分の泊まるホテルの前で賀衿が言った。
「ねえ、荒ちゃん、今日は野宿やめなよ。この雨を凌げる場所を今から探すのは大変だよ。外が好きなのは分かるけど、今晩は大人しくホテルの部屋で寝ようよ」
これは大きな誘惑だった。猫の体になってから雨に降られたことは何度かあったが、これほどの大降りは初めてだった。とはいえ一般のホテルはペット同伴禁止が原則。その規約を破るようなことはできない。
「あっ、もしかしてホテルの人に怒られると思ってる? 心配ないよ、ホテルの人には言ってあるから。本当はここ、ペット可じゃないんだ。でも今日は天気が荒れるって予報で言っていたから、荒ちゃんのために頑張ってお願いしたの。そしたら特別料金を支払うことでやっと許してもらえたんだよ。約束事もたくさんさせられた。自由にできるのは客室内だけ。それ以外の場所は箱に入れて絶対外に出さない。大きな声で鳴かない。壁を引っ掻かない……」
賀衿の注意事項は延々と続いた。その言葉には私を思う気持ちが溢れていた。
(そこまで私のことを考えてくれていたのか)
ホテルはペットを嫌う。客の中には犬や猫アレルギーの者もいるからだ。そのためペットを持ち込まれた室内は通常とは異なる特殊なクリーニングをしなくてはならない。その料金も当然賀衿に請求しているだろう。
「……注意事項は以上です。荒ちゃんはお利口さんだから全部守れるよね」
ここまで言われては好意に甘えざるを得ない。バスケットに入ってホテルの部屋まで連れて行ってもらう。ベッドとユニットバス、電話台だけの簡素なシングルルーム。バス、トイレ、洗面台は一室にまとめられている。
「濡れた体にはお風呂だよねえ」
賀衿はバスルームに入ると蛇口をひねった。同時に浴槽横の洗面台にも湯を溜めている。私をそこに入れるつもりなのだろう。
(風呂か。11日ぶりだな)
猫になる前日は夜通し飲んでいたので風呂に入っていない。こんなことなら入っておけばよかった。賀衿は私の首輪を外すと抱き上げて、洗面台の湯に入れてくれた。
「どう、気持ちいい?」
「にゃああ~」
思わず猫声を出してしまった。実に快適である。底に布が敷いてあるのは抜け毛が排水管に流れるのを防ぐためだろう。
(試練の最中だと言うのに好い目を見過ぎかな。まあ、男を撃退した褒美と思って楽しませてもらうとするか)
適度なぬるま湯に浸かってすっかり気が緩んでしまった。が、次の瞬間、緩んだ気が一遍に引き締まった。賀衿が入ってきたからだ、すっぽんぽんで。
「あたしも入ろうっと」
「にゃ、にゃえ!」
「よ、よせ」と言いたかったのだが猫言葉しか発音できない。
(男の前で平然と素っ裸になるとは、なんという破廉恥娘!)
と思ったものの自分は猫である。猫の前で裸になるのは不自然ではないし、素っ裸で風呂に入るのも不自然ではない。
「は~、いい気持ちだねえ」
(こっちはそれどころじゃない。見なかったことにしてとっとと出よう)
洗面台から飛び降りようと身構える。が、その体を賀衿に掴まれる。
「荒ちゃん、洗ってあげるよ」
洗面台は浴槽のすぐ横にある。湯に浸かったままでも腕を伸ばせば届くのだ。
「にゃー、にゃー!」
「こら、暴れない」
情け容赦なくシャワーをかけられる。用意してきた猫用シャンプーを塗りたくられる。ゴシゴシ擦られる。あるいはこれもホテル側からの指示なのかもしれない。私は諦めた。
(仕方ない、好きにさせてやろう。今晩は長い夜になりそうだな)
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