叩けよ、さらば救われん
体の向きを変え、通りに面したブロック塀を見る。鎖に引っ張られて苦しいがこの方がよく聞こえる。
(あれは確かに賀衿の声だった。幻聴か)
「荒ちゃん、いたら返事をして。荒ちゃーん!」
いや幻聴ではない。賀衿だ。間違いなく賀衿の声だ。
(どうしてここに……何故わたしがいると分かった)
「荒ちゃん、荒ちゃーん!」
賀衿の声は動いている。私の居場所が完全に分かっているわけではないようだ。私は迷った。賀衿から逃れるためにツアーから離脱したのだ。賀衿の元へ帰ればあの男からは逃れられるが、川崎へ連れて行かれるのは確実。明日中に伊勢へ行けないという結果に変わりはない。だが、
(何を迷っている。あんな男の好きにされるより、賀衿の傍にいた方が百倍マシに決まっているではないか。すぐに助けを求めよう)
問題はどうやって私の居場所を知らせるかだ。鳴けば電流が全身を襲う。あの苦痛は二度と味わいたくない。
(叩くか)
爪を立てて窓ガラスを叩く。よく響く。これならブロック塀の向こうまで聞こえるはずだ。
「荒ちゃーん、荒ちゃーん、お願い返事をしてー」
賀衿の声が近付いてくる。爪も折れよとばかりにガラスを叩く。
(気付いてくれ、賀衿。私はここだ。ここにいるのだ)
「荒ちゃーん、荒ちゃーん」
賀衿は気付かない。今、賀衿はアパートの正面を歩いている。間違いなく叩く音は聞こえているはずだ。しかしその音と私の関連性には気付いていない。雑踏と車の騒音の中で賀衿が探しているのは猫の鳴き声と猫の姿。それ以外の音も物も、今の賀衿には有って無きが如き存在なのだ。
「荒ちゃーん、教えて、どこにいるの」
(このままでは行ってしまう。叩いているだけでは駄目だ。別の方法で知らせないと。だが、どうすれば私と分かる音が出せる、音、音……そうだ!)
私は爪を立てて窓ガラスを叩いた、唯一知っているモールス信号で。
――トトト ツーツーツー トトト……
「荒ちゃーん、あらちゃ……この音!」
私は叩き続けた。同じリズムを繰り返す。SOS、SOS。賀衿の足音が聞こえる。気付いた。戻って来てくれた。
「荒ちゃん!」
振り向くとアパートのブロック塀の上に賀衿の顔があった。安堵する。掛川のホテルで教えてもらった壁を叩く習慣。あれが役に立つとは思ってもみなかった。
「やっぱり誰かに誘拐されていたんだね。心配したよ~」
アパートの入り口から回り込んできた賀衿が私の頭を撫でる。こんな見っともない姿をさらす羽目になるとは情けない限りだ。
「犬みたいに鎖までつけられて。それにこの首輪、無駄吠え防止首輪じゃない。ひどい。すぐ外してあげるね」
首輪が外される。自由になった私を抱きかかえると、賀衿はすぐにアパートを離れた。私を誘拐した犯人などどうでもいいのだろう。
「荒ちゃん、まだ熱田神宮に行ってないよね。今から行く?」
頷く。同時に右の爪で左の肉球を突いた。「スマホを貸せ」の合図だ。賀衿はそれを見て頭を振る。
「ううん、文字にしなくても何が訊きたいのか分かるよ。どうしてあたしがあの場所に来たか知りたいんでしょう。歩きながら話そう。暗くなってきたから急がなくっちゃ」
私を抱いて歩きながらスマホに目を遣る賀衿。それから私の首を撫でる。
「そうかあ。位置が変わらないと思ったら、私がはめた首輪、外されちゃったんだね。あのアパートから持ち出されなかったのはラッキーだったな。あっ、切れちゃった」
首輪? あの首輪がどうかしたのか……いや、もしかして、あの首輪は……
「ふふ、気付いちゃったかな。そう、あの首輪はペットが行方不明になっても安心の携帯電話電波GPS首輪なんだ。首輪の位置はいつもスマホで確認できるの。だから荒ちゃんがどこにいるか、ずっと分かっていたんだよ」
ようやく全てが理解できた。昨夕、赤坂宿で出会ったのは偶然でも悪戯でもなかった。私の居場所を知っていたから、わざわざ食料を持って会いに来てくれたのだ。
(だが、それなら鳴海で私が離脱したのも……)
腕の中から賀衿を見上げる。その顔はひどく寂しそうに見えた。
「そうだよ。荒ちゃんがバスに乗らなかったのも分かっていたよ。バスの中であたしは泣きそうになった。だけど荒ちゃんが決めたことだから、我慢しようと思った。宮宿に着いて熱田神宮を見学して、駅が近いから現地で解散した後、あたしはもう一度スマホを見た。びっくりした。荒ちゃんが凄いスピードで動いているんだもん。そして熱田神宮を通り越してどこかへ走っていく。止まる。そのまま動かない。ピンと来た。誘拐されたに違いないって。1kmも離れていなかったから走った。探した。そして荒ちゃんを見付けた。ねえ、どうしてあたしに黙ってバスを降りたの。お別れは宮宿じゃなかったの。そんなにあたしのこと嫌いだったの。騙して別れなくちゃいけないくらい、あたしと一緒にいるのが嫌だったの」
話を聞いているうちに違和感を覚え始めた。賀衿は私を閉じ込めて川崎へ連れ帰るつもりだったはずだ。ならば鳴海で私がツアーから離脱した時、それを我慢しようとするはずがない。
(もしや、私の早合点だったのか……)
賀衿は私を腕から降ろした。肩に掛けた鞄からタッパを取り出す。蓋を開けて中を見せる。トンカツだ。
「熱田神宮で渡すつもりだった餞別。トンカツじゃないよ。お手製のビーフカツ。これを見せれば荒ちゃんはずっとあたしと一緒にいてくれるかなあって思って作ったんだけど、やっぱり無理だったみたいだね」
ようやく目が覚めた。思い違いもいいところだ。覚悟しなさいの意味はこれだったのか。「バスケットの蓋に鍵」はあくまでも酔っ払いの戯言。賀衿が企んでいたのは私とのお別れパーティー。決して離れられないと言ったのは首輪のGPS機能で私の位置が分かるからだ。
(なんてことだ。根拠のない推論は私が最も嫌う行為だったのに……)
分かっていたはずだ。賀衿が心根の優しい娘だということは。これまでどれほど私のために尽くしてくれたか、十分すぎるほど分かっていた。なのに信じてやれなかった。「万が一」に囚われ過ぎて賀衿の本当の姿を見失っていた。
(部下を正しく評価できなかったとは……上司として失格だ。弁解の余地もない)
どれだけの謝罪も詫び言も、私の裏切りによって負わされた賀衿の傷を癒すには不十分だ。俯いたままの私の頭を賀衿の手が撫でた。
「でもこれで踏ん切りがついた。こんなに優しい荒ちゃんに嫌われるんだから、あたしは社会人としては失格なんだね。明日本社へ行くよ。考えなさいってずっと言われていた退職勧奨、受け入れることにする」
(な、なんだと! 退職勧奨だと!)
思い掛けない言葉を聞かされ、瞬時に頭に血が上る私であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます