第三話 ひと山越えて 伊豆 三島宿

文明の利器は肉球で

 静岡県三島市は伊豆半島の付け根にある。富士の伏流水による湧き水が豊富なこの地は、東海道五十三次11番目の宿場だ。

 9番目の宿場である小田原から箱根を経て三島へ至る8里、約30kmの道のりは箱根八里の名で知られる東海道有数の難所。無事に箱根を越え三島宿に着いた旅人は「山祝い」と称して旅籠で豪遊するのが常であった。


(ツアーを企画する時の資料にそんなことが書いてあったな。まあ、昨日私が口にしたのは豪遊には程遠いカツサンドだけだったが)


 朝日が作る日溜りの中で体を丸め、三嶋大社の本殿を眺める。立派だ。高さは確か16mだったか。4階建てのビルくらいありそうだ。さすがは伊豆国一宮。東海道三大社のひとつに挙げられるだけのことはある。


(出発4日目にして11番目の三島宿に到達できるとはな。昨日の絶望的状況を考えると、今日のお気楽気分が夢のようだ)


 そう、私は三島にいる。たった1日で9つの宿場、距離にして90km以上進んだのだ。それもこれも稲毛神社で偶然出くわした賀衿三智のおかげだ。


(人間に戻れたら少しは優しく接してやるか。3月末までの短い期間でしかないが)


 夜はとっくに明けて青空には光が満ち始めている。箱根山があるはずの北東の空を見上げながら、私は昨日の出来事を回想した。


 * * *


「にゃおにゃおにゃえ!」


 賀衿によって強引に車に押し込められた私は後部座席で喚いていた。「降ろせ!」と発声したはずの言葉は、猫の喉と舌によって意味不明の鳴き声になっている。賀衿にとってはただの騒音にしか聞こえないだろう。


「もう、うるさい猫ちゃんですねえ。あんまり鳴いてばかりだと残りのカツサンドをあげませんよ」

「にゃ……」


 つい鳴き止んでしまった。猫になってから食への欲求がかなり肥大しているようだ。水や空気に次いで生存に不可欠な要素のなのだから致し方のないところである。


(まずいな。このままだと素通りされてしまうぞ)


 川崎宿から次の神奈川宿までは約10km。車なら20分もかからずに到着だ。賀衿がどこに向かっているのかは知らないが、朝から車を出しているのだ。遠出の可能性が高い。つまり神奈川で車を停めてくれる可能性はほとんどない。


(どうする、赤信号で停まったら窓を開けて飛び降りるか)


 今更倭姫の言葉に従って宿場巡りをしても仕方のないことは分かっていた。しかし結論を出すまでにはまだ2週間以上の猶予があるのだ。その間に何が起きるか分からない。できるだけ各地の神社を回って、元の体に戻る可能性を高めておいたほうがいいだろう。


 車は鶴見川を渡った。早くも行程の30%を消化してしまった。ぐずぐずしていると神奈川を通り過ぎてしまう。焦る気持ちを抑えながら必死で打開策を思案していると、


 ――ブー、ブー


 助手席に置いてある鞄から低い振動音が聞こえてきた。携帯に着信があったようだ。


「んっ、誰かな」


 あろうことか賀衿の左手が鞄に伸びている。運転しながら操作するつもりのようだ。一瞬で頭に血が上った。馬鹿な、運転中の携帯端末使用は道交法違反なのを知らないのか。ここまで社会常識のない奴だとは思わなかった。


(上司として見過ごすわけにはいくまい)


 助手席に飛び移ると賀衿の左手より先に鞄の中へ頭を突っ込む。音を立てるスマホを口に咥えて引っ張り出し、前足で抑え込む。


「あ、こら荒ちゃん、いたずらしちゃ駄目」

(いたずらではない。事故防止のために必要な行為だ。感謝して欲しいものだな)


 スマホの画面は音声通話になっている、問答無用で拒否ボタンを押す。音が鳴り止んだ。


「えっ、ウソ、切っちゃったの!」


 驚く賀衿。が、それは私も同じだった。


(反応した、猫の足にスマホが……そうか、汗腺があるからだ)


 スマホのタッチパネルの多くは静電容量方式が使われている。近付けた指に流れる微弱電流を感知して反応するのだ。たとえ人間でも電流が流れにくい乾燥肌は反応が鈍い。逆に言えば湿った肌を持っていれば人間でなくてもタッチパネルは反応する。猫の湿った部分、それは汗腺が存在する肉球である。同様に鼻の頭でも反応するに違いない。


(これは使えるぞ。稲毛神社の御神木が言っていた新しい方法とはこのことだったのか)


 思慮が足りなかった。倭姫から与えられた試練を猫一匹だけの力で達成させるのは、考えるまでもなく不可能だ。人の助力が絶対に必要なのだ。

 ならば私が最初にやらなくてはならないのは、人に助けを請うことであった。いきなり走り出したりせず、協力してくれる仲間を見付け、説得し、目的遂行のために力を尽くす。それこそがこの苦境を乗り切る唯一の方法だったのだ。


(2日間を無駄に過ごしてしまったな。まあ最初からその計画を立てて行動していたとしても、たった2日でこの状況になれたかどうかは不明だが)


 とにかくこれで意思疎通の手段は確保できた。私はスマホを操作して「いますぐ、おろせ」と入力した。


「荒ちゃん、いたずらしちゃ駄目だよ~」


 スマホ奪還を諦めた賀衿は前を向いて真面目に運転している。直ちにこの画面を見せたいところではあるが、運転中に携帯端末の画面を注視するのも道交法違反である。画面を見せれば私も違反ほう助の罪に問われかねない。


(いや待てよ。停止中なら違反ではなかったような気がする)


 少し記憶が曖昧である。が、この状況では多少の規則破りは目をつぶろう。車は神奈川区新町を走っている。もう神奈川宿に入ってしまった。うかうかしていると通り過ぎてしまう。


(信号よ、赤になれ、赤になれ、この車を停めてくれ!)


 私の願いが届いたのかどうかは不明だが、運よく前方の信号が赤になっている。車が停まる。すかさずスマホを口に咥えて賀衿の膝に飛び乗る。


「こら、スマホは食べ物じゃないよ。もうお腹が空いたの?」

「にゃ!」


 背伸びをしてスマホを突き出す。それを取って画面を見た賀衿の表情が驚きに変わる。


「こ、これ、荒ちゃんがやったの……うそ、猫なのに、どうして……」


 お調子者の賀衿も心底驚いているようだ。あるいは妖怪のたぐいだと思っているのかもしれないな。


(さあ、今すぐに車から降ろせ。さもないとたたってやるぞ、にゃあ)


 驚いて猫のように目が丸くなった賀衿の顔を見て、すっかりご満悦になる私であった。

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