袖振り合うも多生の縁
目が覚めると日は高く昇っていた。茂みから顔を出して周囲をうかがう。人影はない。だが昨日の男性に見付かれば捕まる恐れがある。さっさとこの神社を出た方が良いだろう。問題はそれからどうするかだ。このまま旅を続けるか、それとも諦めるか。結論はすぐに出た。
(旅を続けるなら神奈川宿を目指す。諦めるにしても戻るのは馬鹿馬鹿しいので神奈川宿を目指す。どちらにしても前進だ)
うむ、実に簡単な問題だった。方針が決まったので茂みを出る。昨日あれだけ牛肉を食べたのにもう腹が減っている。何か食べてから出発したいものだ。どこかにゴミ箱はないだろうかとキョロキョロしながら歩く。
(んっ)
向こうから誰かが歩いて来る。昨日の男性ではない。女性だ。ならば大丈夫。これまで私の姿に反応した者は公園の親子連れくらいだ。反応してもこちらが無視すればそれ以上何もしてこない。
「あ、猫ちゃん!」
女性が声を上げた。ふっ、女は猫好きが多いな。無視だ。猫好きの女に構うとろくなことにならない。そのまま女性とすれ違い、先を急ぐ。
「カワイイ三毛だね。飼い猫かな」
しつこいな。それにしてもこの声、どこかで聞いたような気がする。いや、記憶違いだろう。先を急ごう。
「あれ~、行っちゃうの。残念だなあ。さっきパン屋さんで買ってきた出来立てカツサンドをあげようと思ったのに」
私の足が止まった。トンカツは大好物である。週に一度は必ず食べる。しかし今週は一度も食べていない。猫になってしまった今、次にいつトンカツを食べられるか分からない。この機会を逃すわけにはいかないだろう。
私は向きを変え女性に近付いた。足元まで来て顔を見上げる。心臓が止まりそうになった。
(ウ、ウソだろ……)
私の前に立っているのは賀衿三智だった。賀衿常務の娘にして、支店に配属されてから私の仕事を2倍に増やした無能社員、それが私の前に立っていたのだ。
(ど、どうしてこの娘がこんな所に……いや、待てよ、そうだ、思い出した。賀衿常務の実家は川崎だ)
今でこそ都内のマンションから通勤している賀衿常務だが、私が入社した頃は川崎に住んでいた。何度か家に招かれて御馳走してもらったことがある。この娘はあの頃からお調子者だった。
「ふふふ、こっちに戻ってきた。よしよし今あげますからねえ、ちょっと待っててね」
賀衿は私の前に立ったまま鞄の中を探っている。このアングルはまずい。見たくないものが見えそうだ。まだ2月の中旬だというのにどうしてこんな短いスカートを履いているのだ。実にけしからん。
「はい、どうぞ」
食べやすいように小さく千切ったカツサンドが差し出された。もちろん賀衿は私の前でしゃがみ込んでいる。このアングルも非常にまずい。見てはいけないものが完全に見えている。
(見なかったことにしよう)
手のひらに乗せられたカツサンドを口に入れる。美味い。やはりカツサンドは出来立てに限る。食べ終わるとまた千切って置く。それを食べる。置く、食べる、繰り返しているうちに賀衿がここにいる事情が飲み込めてきた。
今日は金曜日。本来なら仕事のはずだが彼女は先週の土曜、添乗員の仕事に就いている。その代休を今日に入れたのだ。
(そうか。休みの日に近くの神社へ遊びに来たというわけか。とんでもない偶然が起こってしまったものだ)
食べ終わって一服する。猫になってから顔見知りに会ったのは初めてだ。この猫が私だと露見するはずはないと思いつつも緊張の色は隠せない。
「えっ、もしかして荒木田支店長?」
驚きのあまり食べたカツサンドが逆流しそうになった。どうして私の正体がバレたのだ。この娘、もしや動物の心を読む術でも持っているのか。
「あれれ、目が丸いよ。驚かせちゃったかな。私の会社に荒木田君っていうすっごく怖い上司がいてね、トンカツを食べた後はいつも爪楊枝でシーシーするんだけど、不思議なことにその時だけは左手を使うの。猫ちゃんも左の爪で口をほじほじしているから、荒木田君を思い出しちゃった」
慌てて左前足の爪を口から引っこ抜く。左手を使うのは左の歯だけ挟まりやすいからだ。きっと歯並びが悪いせいだろう。癖というのは恐ろしいものだな。猫の歯に何かが挟まっているわけでもないのに無意識に爪を突っ込んでしまった。それにしても上司を君付けとは如何なものか。再教育の必要がありそうだ。
「そうだ、猫ちゃんの名前、荒木田君でいいかな。あっ、でも女の子なのに
また名前か。しかも雌猫だと思い込んでいる。鏡がないから分からないが、どうやら私の
「不思議。荒ちゃんとは初めて会った気がしないよ。それに人の言葉が分かっているみたい。変わった猫ちゃんだね」
鈍感な奴だと思っていたがそれなりに勘は働くようだな。もし人間に戻れたら少しは見直してやるとするか。
境内の外に向かって歩く私の後ろから足音が聞こえてくる。賀衿が付いて来ているようだ。おいおい、神社に用があって来たんだろう、何もせずにもう帰るつもりか。
「決めた!」
突然大きな声がしたかと思ったら私の体が宙に浮いた。両脇は人の手でガッチリと支えられている。
「今日は一人旅の予定だったけど、一人と一匹の旅に変更しちゃう。荒ちゃん、付き合ってね」
賀衿は私を抱きかかえたまま近くに駐めてある乗用車に近付いていく。まさか一緒に連れて行くつもりなのか。まずいぞ。昨日の男性ならいざ知らず、こんな能天気な女の玩具にされたら、猫として最悪の生涯を送らなければならなくなる。
「にゃにゃ!」
鳴き声を上げながら何とか逃れようと必死に暴れる。しかし賀衿は猫の扱いに慣れているのだろう。体の要所を抑え付けられ、どうあがいても腕の中から逃れられない。
「こらこら暴れちゃ駄目だよ」
ドアが開いた。中に放り込まれる。すぐドアノブに爪を掛ける。重い。固い、くそ、チャイルドロックか。まごまごしているうちにエンジン音が聞こえてきた。車が動き出す。万事休すだ。如何に機敏な猫でも走行中の車から飛び降りるのは危険すぎる。
「今日は素敵な日になりそうだなあ~、ふんふん」
(何を呑気に鼻歌交じりで運転しているのだ。賀衿、貴様は訓告処分だ。支店長を拉致するとは何事だ。後で会議室へ来い。反省文を書かせてやる!)
と頭の中で喚いても賀衿に届くはずがない。全身の毛が逆立つほどに怒り狂った私を乗せたまま、賀衿の車は国道15号線に出ると横浜方面へと走り始めた。
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