微かな光明

「おおそうだ、忘れておった」


 いきなり御神木が声を出した。ひょっとしてお喋り大好きな神様なのだろうか。夜通し喋られては敵わない。寝る場所を変えた方が良さそうだな。私は立ち上がった。


「この神社には猫好きの男が住んでおってな。野良猫を見付けると餌を与える。お主、腹が減っているのではないか。男の住まいは社務所の隣。窓の下でひと鳴きしてみるのもよかろう」


 実に良い情報だ。これまで聞かされたの忠告の中で最高の価値がある。


「ただし餌をやった野良猫は捕らえられ去勢される。増やさずに共存していく地域猫活動というものらしい。注意するようにな」


 最悪である。一生を猫のままで終える可能性が限りなく100%に近いこの状況で更に種無しにされてしまっては、悲観を通り越して絶望的将来展望しか持てないではないか。まあいい。餌だけもらったら捕まる前に逃げ出すことにしよう。


「ご忠告、痛み入る」


 御神木の根元を離れ明かりが灯る建物に近付く。微かに人の声がする。ここのようだな。


「にゃー」


 鳴くとすぐに窓が開いた。逆光でよく分からないが人の好さそうな中年の男性だ。


「おや野良猫か。よしよし、そこでじっとしているんだよ」


 窓が閉じる。続いて扉の開く音。先ほどの男性が姿を現わした。


「ほう、逃げる素振りがないな。ひょっとして飼い猫かな。首輪は……ないか」


 男性が私の体を持ち上げた。無駄に動いても疲れるだけなので好きなようにさせてやる。

 そのまま家の中へ入り台所へ連れて行かれる。すぐに室内をチェックする。扉は閉められている。猫の力で開けるには時間がかかりそうだ

 窓は2カ所。片方は施錠されているがもう片方は開錠されたままの小窓だ。先刻外を覗いた時に鍵を掛け忘れたのだろう。


(よし、餌を食べたら箱かケージに入れられる前にあそこから脱出だ)


「ふむ、随分と色艶の良い三毛だな。明るい場所で見るとなかなかの別嬪べっぴんさんだ」


 別嬪だと。どうやら雌猫だと思っているようだな。勝手に決めつけるとは随分と失礼な話だが、猫の外観を見ただけで性別を判断できる人間がいるとは思えないし許してやるか。


「お腹が空いているのだろう、お食べ」


 男性が差し出したのはキャットフード。お断りだ。体は猫でも味覚は人間。どんなに腹が減ろうと絶対に食べたくない。


「にゃっ!」


 右前足で突き返す。男性が困惑顔になる。


「おやおや、嫌いなのかい。グルメな猫だね。では牛肉はどうかな」

「にゃにゃ!」


 大歓迎だ。疲れた猫を癒すのに肉より勝るものはない。


「はいどうぞ」


 出された皿を見てがっかりだ。生ではないか。いくらレアが好きでも完全な生肉など食べたくない。しっかり火を通してから出していただきたい。しかしそれをどう伝えればよいものか……ええい、仕方がない。


「うわっ、いきなりどうしたんだ」


 私はジャンプすると調理台に飛び移った。3口あるガスコンロのひとつに前足を置いて催促する。


「にゃっ! にゃっ!」

「まさか、焼けと言っているのか?」

「にゃっ!」

「これは驚いた。人の言葉が分かっているようではないか。ただの野良猫ではあるまい。あるいはどこかの研究所で特別に飼育された天才猫……」


 ミステリー小説の読み過ぎではないのかと心配になる。まあ、半分くらいは正解だが今はそんなことよりも肉だ。早く焼け。


「とにかく肉を焼いて食べさせてみよう。ちょっと待っているんだよ」


 うむ。それでよろしい。しかし言葉が通じなくても意思は通じるものだな。これは新たな発見だ。猫と人は意思疎通できないものだと思い込んでいたがそうでもないらしい。訓練すれば猫でも人語を操れるようになるのではないか。


「にゃ、にゃい、にゃう、にゃえ、にゃお」


 男性が肉を焼いている間、私は言葉が喋れないものかと発音を繰り返した。駄目だ。頭では喋り方は理解できている。しかしそれを猫の体にやらせようとすると、喉も舌も思った通りに動かないのだ。

 ビデオを見てバタフライの泳法を理解しても、いざ水中でやってみると溺れかけた海老みたいに見えるのと同じ理屈だ。分かるとできるは違うのだ。人語を話す試みは断念するしかないだろう。


「はいできた。熱いから気を付けるんだよ」


 皿に乗せられた牛肉は食べやすいように細かくカットされている。たかが野良猫如きにここまで親切にしてくれる人物も珍しい。ありがたくちょうだいする。


「はふはふ」


 うむ、味はほとんどない。僅かに塩を振ってある程度の味付けだ。少々物足りないが猫の体を考えれば仕方あるまい。猫の死因のトップは腎不全だと聞いたことがある。塩分の摂り過ぎは腎臓に負担をかける。長生きしたければ注意しなければいけないな。


「美味しいかい、よかったね、ミケ子」


 ミケコ? 勝手に名前まで付けられてしまった。しかも完全に雌だと信じ込んでいるようだ。もしかしたらこのまま飼うつもりなのか。親切な主人に可愛がられながら、飼い猫として一生安楽に過ごす、それもまたいいかも……


(いいわけないだろう! しっかりしろ九尾)


 自分に向けて喝!だ。美味いものを食わされて安易な考えに流されてしまった。あくまでも私は人間。猫のままで幸せになれるはずがない。諦めたら、流されたら、投げ出したら、そこで私の人生は終わりだ。


(んっ?)


 男性の様子がおかしい。最初に出会った時の優しい眼差しが消えて、獲物を狙うような目になっている。食べるペースを落として注意深く観察する。顔、体、手……右手に何か持っている。大きな金属製のケージだ。食べ終わったら入れるつもりだな。そうはいかない。


「ミケ子、すまないね。本来なら野良猫に餌などやってはいけないんだ。糞や鳴き声で迷惑を被っている人が大勢いるからね。でもそれではあまりにかわいそうだろう。だから餌をやる代わりに去勢をしてこれ以上増えないようにする、それが私たちの出した結論。ああ、心配しなくてもいいよ。手術が済めば自由にしてあげるから。ここに来れば餌もあげる。今まで通りミケ子は暮らして、あっ、こら、何をするつもだい!」


 つまらない男性の話など聞く耳持たぬ。最後の肉片を咥えたまま私は勢いよくジャンプした。幅10cmほどの窓枠に飛び移り、背伸びをして窓の引手に爪を掛け、思いっ切りスライドさせる。開いた。後ろを振り返ると男性がポカンとした顔でこちらを見ている。


(手厚い持て成し感謝する。さらば!)


 心の中で礼を言って窓の外へ飛び降りる。結構な高さだがそこは猫、難なく地面に着地した。


「ミケ子、ミケ子お―!」


 叫び声を背後に残して暗闇の中を駆ける。人目に付かない茂みに隠れ、咥えてきた最後の牛肉を味わう。


(彼には申し訳ないが、良い目を見させてもらったな)


 食べ終えると眠くなる。猫だから仕方がない。まどろみ始めた頭で考える。人と猫の意思疎通、それが御神木の言っていた新たな方法なのかもしれない、そんなことを思いながら眠りの中に落ちていった。

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