第一回御神木御神託

「荒木田、疲れておるようだな」


 誰かの声がした。倭姫ではない。野太く老人のようにしゃがれた声だ。


「だ、誰ですか?」


 自分の言葉に驚いた。それはこれまでのように頭の中だけに存在する言葉ではなく、自分の耳に聞こえてくる言葉だったからだ。


「わしはこの神社の御神木、樹齢千年を超える大銀杏。社殿も名称も時と共に変わっていったが、わしだけは創建当時のままここで世の移り変わりを眺めておる。おぬしもだ。倭姫命やまとひめのみこと様により猫の姿にされたその時からずっとお主を眺めておった」


 一昨日現れた倭姫だけでも驚きなのに、今度は御神木が話し掛けてきた。ご先祖の荒木田なる者は相当神様に好かれていたようだ。


「そうですか。道中ずっと見守っていただきありがとうございます。それなら倭姫様が私に課した試練もご存知なのでしょう」

「うむ。各宿場を巡って新月までに伊勢参拝……あのお方も相変わらず人を揶揄からかうのがお好きなようだ」


 思った通りだ倭姫の奴め。試練などと言っておいて私が苦しむ姿を眺めて悦に入っているのだろう。

 それにしてもこうして御神木がわざわざ声を掛けてくれたということは、何らかの助力をしてくれると考えてもよいのではないか。駄目元で頼んでみよう。


「御神木様、見ての通り大変難儀しております。このままでは新月までに伊勢にたどりつくなど夢のまた夢、厚かましいお願いですが、この私に力を貸していただけませんか」

「それはできぬ。御神木と言ってもただの樹木。倭姫命様のような力はない。わしにできるのはこうして見守り、話し、聞くことだけ。すまぬな」


 膨らみかけた希望が一瞬で萎んでしまった。期待が大きかっただけに落胆も大きい。だからと言って無言のままでは失礼だ。挨拶ぐらいはしておこう。


「そうですか。分かりました。残念ですが元の体に戻るのは諦めた方が良さそうですね。さて、今日は疲れました。そろそろ休みたいと思いますので、これで」

「荒木田よ、結論を出すのは早すぎるのではないか。まだ猫になって2日ではないか。退職の節目は3日3月3年と言うであろう。せめてあと1日頑張ってみてはどうだ」


 御神木はまだ話し足りないようだ。どこで聞いたか知らないがマイナーな言葉をよく知っているものだ。樹齢千年は伊達じゃないな。


「よいか、荒木田。倭姫命様の試練を受けた者はお主だけではない。千年の間、実に多くの者たちがお主と同じく伊勢を目指してこの街道を西に向かった。ある者は雀に、ある者は馬に、ある者は犬に姿を変えてな」

「失礼、猫に変えられた者はいましたか?」

「いいや、おらぬ。お主が初めてだ」


 答えを聞いて憤慨する。不公平過ぎる。雀も馬も犬も猫に比べれば遥かに有利ではないか。命を移すのは猫しか選択の余地がなかったかのような口振りだったが、倭姫の力をもってすれば、生きている動物に命を移すくらい可能なのではないか。私を揶揄うために猫に移したのではないか、そんな気がしてならない。


「このような試練、馬や鳥ならば可能でしょうが、猫にはどう考えても無理です。諦めるより他に手立てはありません」

「結論を急ぐなと申しておる。倭姫命様は確かに人を揶揄うことを好んでおられる。しかし初めからできぬことを無理にやらせるようなお方ではない。宿場を巡れと言われたその後で、神社を訪れる条件を追加されたのは何故だと思う。我ら御神木の助言を聞かせるためだ。これは少しでもお主の助けとなり励みになるようにとの心遣い。倭姫命様は心底お主の成功を望んでおるのだ」


 確かに一理ある。神社に来なければ御神木から忠告をしてもらえることに気付かなかったのだから。しかし倭姫の本音がどこにあるのかはまだ分からない。私は肯定も否定もしなかった。御神木は更に話を続ける。


「千年の間、わしは見てきた。試練を成し遂げた者、成し遂げられず動物のまま一生を終えた者。両者の違いはただひとつ。諦めたか諦めなかったか、それだけだ。猫の姿で、各宿場を巡って、新月までに、伊勢へ参る。なるほど確かに成し遂げるには難しい試練に違いない。だがお主ならば必ずできる、倭姫命様はそう判断された。だからこそこのような試練を課したのだ」


 本当にそう言えるのだろうか。この2日間、それこそ自分の持てる知恵と経験と体力を駆使し、伊勢を目指して頑張ってきたのだ。それでもこんな結果にしかならなかった。これ以上、どんな方法があると言うのだろう。


「倭姫命様はずっとお主を見てきた。生まれてから今日に至るまでのお主の人生全てを見守ってきた。その上で判断されたのだ、必ずやり遂げられると。荒木田、何か忘れてはおらぬか。本当に全ての手段を尽くしたと言えるのか。お主にはまだ何か残されているのではないか。それは本当に細い、蜘蛛の糸のように頼りないものなのかもしれぬ。が、それを見つけ出せばお主は必ず成し遂げられる。そのような何かが必ずあるのだ。今一度胸に手を当てよく考えてみよ」


 私に残されているもの……分からなかった。見当も付かなかった。胸に手を当てても何も浮かんでこなかった。御神木の忠告を聞けば聞くほど闇の中に落ちていくような気がした。

 返す言葉を失い、黙ったままの私の胸中をようやく察したのだろう、御神木の口調が柔らかくなった。


「わしの話はこれくらいにしておこう。もしここで諦めるのならそれで良し。もう少し頑張ってみようと思うならそれも良し。どちらにしても悔いの残らぬようにな」


 御神木の話はそこで終わった。私は深い吐息をして体を丸めた。眠気はとっくに吹っ飛んでいた。御神木の言葉が頭の中で渦巻いている。しばらく眠れそうになかった。

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