猫は日向で昼寝する
(まずい、遅刻だ!)
目を開けると同時にそう叫んだ。声に出したのではない、心の中で叫んだのだ。私は起き上がった。驚いた。目の前には茂み。体の下には土。どうして賃貸マンションのベッドではなくこんな場所で寝ているのか、まるで見当が付かない。
(なんだ、まだ夢を見ているのか)
とつぶやいてからようやく記憶が戻ってきた。そうだ、今の私は人ではなく猫なのだ。この姿で初めての睡眠と初めての目覚め。忘れてしまっていたのも仕方がない。さてこれから何をしようか……そこまで考えてようやく自分の使命に気が付いた。
(はっ!)
空を見上げる。太陽は西の空に傾いている。夕刻が近づいているようだ。
(寝過ごしたっ!)
なんてことだ。爆睡してしまった。慌てて起き上がり歩き始める。まだ最初の宿場にも到達していないのだ。これでは先が思いやられる。
歩きながら空を見上げる。西の空に太陽。それを追いかけるように東の空に少し太った半月が浮かんでいる。
(上弦の月から数日後か。とすると今日は新月から8~9日後、つまり次の新月まで約20日)
20日で500kmを踏破するには1日25km。今日のノルマは鶴見の辺りになる。無理だ。行けるわけがない。
(とにかく急ごう。猫の活動時間は夕方。今からなら本領を発揮できるはずだ)
私はひたすら急いだ。時に速足になり急ぎ足になり、けれども決して走らず、最初の宿場である品川を目指した。栄養と休養をたっぷり取ったおかげで体がよく動く。
三田を抜け、忠臣蔵でお馴染みの泉岳寺駅を通り過ぎ、ようやく品川駅にたどり着いた時にはとっぷりと日が暮れていた。
(取り敢えず最初の目標は達成だ。次は神社か)
各宿場の神社を回れと倭姫から言い付けられている。駅を過ぎて八ツ山橋の分かれ道を左に進むことにした。旧街道だ。この道には東海道の面影が色濃く残っている。家光と沢庵和尚が問答をした問答河岸跡、「日本橋より二里」の石碑が建つ品海公園、品川宿本陣跡に作られた
(確か目黒川の手前に神社があったはずだが)
品川に来るのは初めてではないが、それほど詳しいわけでもない。若干不安を感じながらそのまま南に進んで右に曲がると神社があった。
境内に入ると静けさが満ちている。創建1300年の歴史ある神社。しかし荏原神社と呼ばれるようになったのは明治の頃らしい。京橋とは逆だ。向こうは名だけ残って実体は消えた。こちらは実体は残っているが名は消えている。
(人の世とは面白いものだ)
屋根付きの立派な手水舎がある。水を舐めて渇きを癒し、風の当たらない場所で丸くなると一気に眠気が襲ってくる。これ以上歩く気はどこかへ失せてしまった。
(今日はここで眠るとするか。1日に進めたのはたった1宿。先が思いやられるな)
江戸時代のお蔭参りに要した日数は約15日。1日平均8里、30km以上歩いていたわけだ。猫ではなく人間だったとしても相当キツイ行程である。不意に民謡「お江戸日本橋」の歌詞が頭に浮かんだ。
(お江戸日本橋七つ立ち、
七つは明け六つよりも早い。まだ暗いうちに旅立ち、品川宿の辺りで夜が明けたので提灯を消した、それがかつての旅人の姿だったのだろう。
(明日はもっと頑張って今日の遅れを取り戻さなければな)
そう思いながら私は眠りに落ちた。
翌日は夜明けとともに出発した。当面の目標は川崎だができればその先の神奈川宿まで行っておきたい。
2日目ともなれば猫の体にも慣れて足取りも軽くなるはず、そう思いながら先を急ぐが気ばかり焦って距離はなかなか稼げない。所詮は猫である。どれほど早歩きをしようと限界があるのだ。おまけにある距離進むと歩いているだけでも疲れてくる。どうしても休憩を入れなくてはならない。
八百屋お七が露と消えた鈴ヶ森処刑場跡を過ぎ、梅好きの豪商が銘木を集めて作った庭園跡に差し掛かったところで昼頃となった。
(ここらで何か食うか)
朝方、ゴミ箱を漁って見つけたのは、かつてはおにぎりだったと思われる米粒の塊だけ。さすがにそろそろ栄養補給をしたい。
公園の中に入り込みゴミ箱を見付けて中を漁る。ほとんど肉の残っていない骨付きフライドチキンを3本見付けた。ガジガジとかじる。うむ、うまい。やはり猫には肉が一番だ。駅前にコンビニがあったからそこで買ったのだろう、などと考えながら食べ続ける。それなりに食欲が満たされたところで、またも昨日と同じく眠気が襲ってきた。
(駄目だ、ここで寝たら同じ失敗を繰り返すことになる。耐えろ、耐えるんだ)
と心の中で叫んでみてもそこは悲しい猫の
(しまったあー!)
目覚めたのも昨日と同じく日がだいぶ西に傾いてからだ。慌てて起き上がり速足で歩く。
(結局、これが私の限界か)
渡り終えた多摩川を眺めながらつぶやく。ここには今でこそ橋が架かっているが、昔は六郷の渡しと呼ばれる船で旅人は行き来していたのだ。徒歩ではなく船を選択すべきではないか、自動車も考慮すべきではないか、そんな考えが浮かぶ。
(いや、どちらも駄目だ)
すぐさま頭を振って否定する。どう考えても船で宿場巡りは無理だ。
車は何度も考えた。飛び移れる乗り物はないかと物色しながら国道を歩いていた。しかし乗用車のボンネットの上では危険すぎる。荷台のある軽四や2トントラックならそれなりに安全だが、そうは走っていない。
走っていても歩道寄りの車線でなければ車の間を縫って近付かなくてはならない。かなり危険だ。脇道に入ってしまえばどこへ連れて行かれるか分からなくなる。目的地で止まらず行き過ぎてしまえば引き返さなければならない。リスクが大きすぎるのだ。
(どうやら私には荷が重すぎたようだな。倭姫の試練、もはや達成は不可能だ。だがせっかく川崎宿に来たのだ。神社に寄って行こう)
疲れた体を引きずるように私は歩き出した。そうして競馬場を過ぎた辺りで神社を見付けた。
駐車場を通って中へ入り、御神木らしい大樹の根元で丸くなると私は目を閉じた。
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