第二話 神のお導き 武蔵 川崎宿
猫歩き一匹旅
疲れ果てていた。そして胸裏には早くも敗北感が漂い始めていた。猫の体になって2日目の夕刻。多摩川に架かる六郷橋をようやく渡り終えたところで足を止めて一服した。
(2日でまだ川崎か。絶望的だな)
日本橋から川崎まで約20km。猫の足でこれだけ進めたのだから大したものだ。しかし伊勢までは約500km。このペースでは50日かかる。新月までにはとてもたどり着けそうにない。
(徒歩では絶対に無理だ。さてどうしたものか)
橋のたもとで来し方を振り返る。走り始めた日本橋はもちろん、最初の宿にした
* * *
私の体を乗せた救急車が見えなくなると、私はすぐに走り出した。救急車に乗って一緒に病院へ行き私自身を見守りたい、という思いはもちろんあった。だがそんな行為には意味がないし、第一、救急隊員も病院も猫の付き添いなど認めてくれるはずがない。今、優先してやらねばならないのは倭姫から与えられた試練を完遂すること、それだけだ。未練を吹っ切って伊勢を目指すしかない。
幸い体に目だった外傷はない。胸の辺りが鈍く痛むがそれ以外にダメージはないようだ。事故の衝撃によるショック死、それが猫の死因だったのだろう。
(とにかく品川まで行ってみよう。それができればこの旅の目途もある程度立つはずだ)
東海道最初の宿場である品川は、日本橋から国道15号線沿いに進んで約8km。一本道なので迷うことなく行けるはずだ。問題はその道が今では大都会となった東京の主要道路になっていることだ。
「おっと、危ない猫だな」
(危ないのはこっちだ)
中年の男性に蹴られそうになった。人通りはまだ多くないのにこの有様だ。歩行者が増えてくれば問答無用で蹴られそうな気がする。私は走るのをやめた。危険回避のためだけでなく、走り続けられないほど疲れてきたからだ。
(少し休むか)
京橋の辺りで早くも休憩である。そもそも猫は長距離を走る動物ではない。一気に時速50kmまで加速する瞬発力はあるが長続きしない。すぐにへばってしまう。京橋記念碑の台座の上で体を丸めてしばし体を休める。
(しかし暑いな。ちょっと走っただけでこんなに体温が上がるのか)
ある童謡で「猫はこたつで丸くなる」と歌われているから寒さに弱いと思い込んでいた。今、こうして猫になってみるとそれは大きな間違いだと分かる。毛皮で全身が覆われているのだ、寒さに弱いはずがない。むしろ気を付けねばならないのは暑さだ。
(じっとり濡れているのは足の裏と鼻だけか)
人間ならば体温が上がると汗をかいて調節する。それは猫も同じだが汗腺は足の裏にしかない。非力過ぎて話にならない。汗が駄目となると濡れている鼻からの蒸発熱で体温を下げるか、熱い息を吐いて冷たい空気を吸うことで肺を冷やすか、それくらいしか手段がない。
(やはり走るのは駄目だ。時間はかかるが歩いていこう。走ったり休んだりするより一定の速度で歩いた方が結局時間は短縮できるだろう)
休んだおかげで息も整ってきた。そろそろ行こう。体を伸ばして台座から下りる。
京橋……日本橋を出て京都に向かう最初の橋ということで名付けられた橋。しかし今その橋はない。川もない。あるのは高速道路だ。何百年もの間流れ続けていたであろう川も、人の手にかかればあっと言う間に埋め立てられ、この世から葬られる。京橋という地名もやがて消えてしまうのかもしれない。
(それが人の世というものだ。猫の世ならばそんなこともないのだろうがな)
人が増えてきた。ぐずぐずしてはいられない。私はゆるゆると歩き出す。さらに通行人が多くなれば脇道に入る選択も考慮せねばなるまい。
意外なことに旅は順調だった。都会の人間はよほど自分のことだけで頭が一杯なのだろう。野良猫になど見向きもしない。道端の石ころのように存在自体に気が付いていない、そんな感じだ。
(思えば、私もそうだったな)
この東京にも動物はたくさんいる。猫だけでなく烏も鳩も雀も、探す必要もないくらい生息している。だが、それらは風景のひとつに過ぎない。自分に対して何らかの危害が加えられない限り、人はその存在を意識に登らせることさえしない。私自身、これまでどんな鳥や生き物を見てきたか、思い出そうとしても全く浮かんでこない。それくらい彼らの印象は希薄なのだ。
(街の野良猫は苛められているのかと思っていたが、そうでもないようだ。これなら幹線道路沿いに歩いても問題ないな。動物愛護法に感謝せねば)
見上げれば青空が広がっている。今日一杯は雨の心配は無用だろう。風も適度に吹いている。絶好の旅日和だ。
初日にできるだけ距離を稼いでおきたいが、ペースを上げると歩いていても疲れる。ゆっくり歩いたり速足になったり、休んだり立ち止まったりしながら国道を歩く。銀座を抜け、橋も川もない新橋を通り、右に東京タワーが見えてきたところで足が止まった。
(腹が減ったな)
考えてみれば朝から何も食べていない。水の一滴も飲んでいない。車にはねられる前の猫がどのような食生活を送っていたのかは不明だが、昇天する直前に何か食べていたとしても、そろそろ2回目の食事をしてもいい頃だ。
(さて何を食うか)
歩道から辺りをうかがう。国道の向こうに小さな公園が見える。そしてコンビニのマーク。
(あれだ!)
信号が青になるのを待って横断歩道を渡り公園に入る。うまい具合に親子連れらしい女性と男の子が、ベンチに座ってサンドイッチを食べていた。
(おこぼれを預かるとするかな)
いくら猫になったからと言っても雀や鼠や雑草を食べたいとは思わない。体は猫でも食の嗜好は人間なのだ。猫にとって害のない範囲で人と同じ食事をしたいと思うのは当然だろう。
「あ、猫だ! おいでおいで」
男の子が私に気が付いた。食べていたサンドイッチをこちらに差し出している。チャンスだ。そろりそろりと近付く。頭を撫でてもよいぞ、そのサンドイッチをくれるのならな、もし人語が操れたら私はこう言っていただろう。が、
「これ、野良猫に餌をあげてはいけません。それに触るのも駄目ですよ。汚いでしょ」
「ちぇー、つまんないの」
(まったくツマラン母親だな)
企みは不調に終わってしまった。しかしそう簡単には引き下がれない。私は一旦公園の隅へ行き茂みから二人の様子をうかがった。やがて食事を終えた親子連れは公園を出て行く。人影はなし。直ちに走り出す。ベンチからジャンプしてゴミ箱へ飛び移り、思いっ切り蹴とばして転がす。ゴミ箱の投入口からゴミがこぼれる。
(うむ。結構な食べ残しだ)
最初から分かっていた。二人分にしては大きすぎるコンビニの袋。残すに違いないと思っていたが収穫は予想以上だ。ついさっきまで食べていた食料なので傷んだり腐ったりしている心配もない。遠慮なくかぶりつく。
(これで食料も何とかなりそうだな)
腹が膨れると眠くなってきた。猫の語源は寝子。そして活動時間は明け方と夕方。昼に眠るのは猫の義務だ。私は日当たりの良い場所へ移動し丸くなった。途端にこれまでの疲れが一気に打ち寄せ、私は深い眠りに落ちてしまった。
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