裸一貫での旅立ち

 倭姫は呆れた顔をしている。それはそうだ。せっかくの好意を無にされたのだから。


「やれやれ、そなたはせっかちじゃのう。人の話はよく聞くものじゃ。わらわは今のこの状況では戻せぬと言ったのじゃ。つまり条件さえ整えばそなたの命を元の体に戻すことは可能じゃ」

「そ、その条件とは何ですかっ!」


 食い付くように訊き返す。現金なものだ。冷静さを欠いているのはまだ残っているアルコールのせいだろう。手の平を返した私の態度を見て、したり顔になった倭姫が答える。


「わらわの住処である神域、つまり伊勢の神宮に参るのじゃ。そこでならわらわは神と同等の力を振るえる。さりとてそれだけでは不十分じゃ。わらわの力は天照大御神あまてらすおおみかみ様より与えられたもの。身に着けた緋袴は空を焦がす日輪の象徴。その力が最も強まるのは新月の時」

「つまり新月の日に伊勢神宮へ行けば、私は人として生き返るのですね」

「その通りじゃ。ただし夜は駄目じゃ。日の出から日の入りまでの間、日輪が地平から完全に離れている時でなければならぬ」


 思わず笑みがこぼれた。次の新月まで何日あるか正確には分からない。しかし現代の交通事情を考えれば東京から伊勢になど数日で、いや、その気になれば1日もかからず行ける。

 さすがに猫の姿で飛行機や新幹線に忍び込むのは無理だろうが、船に潜り込むくらい雑作もないだろう。長距離トラックの荷台にだってさして苦労もなく入り込めるはずだ。早合点して諦めたかけた先程の自分を笑ってやりたくなった。


「そなた、今、これくらい朝飯前じゃと思うたであろう」


 私の内心を見透かしたかのような倭姫の言葉。何か裏がありそうだ。ここは無言が最善の策。そう思って黙っていると倭姫はがにやりと笑う。


「ふっ、黙っているところを見ると図星のようじゃな。昔と違い今の世は様々な乗り物で溢れておるでのう。それを用いればたとえ猫の身とて長い道のりも苦にはならぬ。そこでわらわはもうひとつ条件を付ける」

「どんな条件ですか?」

「ほんの百数十年前は誰もが江戸から伊勢まで歩いて参っておった。その途中には旅人のために設けられた宿場がある。そなたもその宿場をひとつずつ回って伊勢へ向かうのじゃ。そうじゃな、宿場へ寄った証しとしてその地の神社を訪れ、境内にある物に触れて参れ。1カ所でも飛ばせば元の体には戻してやらぬぞ」

「1カ所ずつ回れと言うのですか!」


 状況は一変した。倭姫の意味する宿場とは東海道五十三次のことだろう。宿場の間隔はほとんどが10km以下。2kmに満たない箇所もあるはずだ。船ではとても回れない。

 となれば車しかないが、都合よく宿場ごとに停車してくれる車が簡単に見付かるとは思えない。見付かったとしても乗り込むのは容易ではない。楽勝だとほくそ笑んでいた先程の自分を殴ってやりたくなった。


「倭姫様、どうしてそのような難題を付加するのですか。荒木田の末裔である私を救ってくださるのが目的だったはず。これではその目的も果たせなくなります」

「じゃから言うたであろう。わらわは別に慈悲深くなどないのじゃ。確かに荒木田には世話になった。が、それはあくまでも単なる動機付けにすぎぬ。正直、そなたの命などどうなろうと知ったことではない。それにな、容易たやすく死者を蘇らせては有難味に欠けるであろう。これくらいの試練、乗り越えてみせよ。それができぬのなら潔く死ね」


 甘かった。神とは所詮こんなもの。人間など将棋の駒程度にしか思っていない連中なのだ。


「どうじゃ、納得したか。ではそなたの命、猫に移すぞ」


 まずい。こんな条件のままでは達成はほぼ絶望的だ。猫になって苦しんだ挙句、元の体に戻れず命を落とすなんて、骨折り損のくたびれ儲けもいいところじゃないか。何とかしなくては。


「お待ちください。そちらが条件を付加するのならこちらも条件を付加させてくれませんか」

「ほう、どんな条件を付けたいのじゃ」

「えっと、例えば人の言葉を話せるようにするとか」

「人語を操る猫などこの世に存在せぬ。無理じゃな」

「では1年先の新月まで期限を延ばしてくれるとか」

「それも無理じゃ。わらわの力では命の抜けた人体を生かし続けるのはひと月が精一杯。それを過ぎれば問答無用で死に至る。今日より迎える最初の新月までに伊勢に参れ」

「で、では……」


 他に何があるだろう。名案が浮かばない。苦し紛れにあらぬことを口走る。


「それでは一時でいいので私の命を私の体に戻せませんか。本当に短い時間で構いませんから」

「ふむ、一時だけ戻す、か……しばし待っておれ」


 不意に倭姫の姿が消えた。しばらく待ってみたがなかなか現れない。呼んでも返事はない。次第に不安が募ってくる。が、消える時同様、何の前触れもなく倭姫は戻ってきた。


「待たせたのう。大御神様と相談しておったのじゃ。わらわひとりの力では無理じゃが大御神様が力を貸すと約束してくれた。よって特別に願いを聞いてやろう」

「ほ、本当ですか、ありがとうございます!」


 再び深々と頭を下げる。これは大きなアドバンテージだ。短時間でも人の姿に戻れるなら選択できる行動の幅は飛躍的に広がる。微かだが希望の光が見えてきた。


「礼を言うのは早い。そなたの命が抜ければ死ぬはずの猫を、大御神様の力を借りて生かし続けねばならぬ。よっていくつか制約がある。戻れるのは一度きり。新月の日かその前日の日中だけ。元の体に触れていること。戻っている間は仮死状態の猫から離れぬこと。以上じゃ。戻りたくなったらわらわの名を呼べ。大御神様の力を借りてたちどころに元の体へ命を移してやろうぞ。それから宿場巡りは猫の体で行うようにな。人の体に戻って巡っていては試練にならぬからのう。伊勢へも猫の体で参るのじゃぞ」

「……承知しました」


 キツイ条件であったがさすがに文句は言えない。私はもう一度頭を下げ礼を述べた。


「さて、では命を猫に移すとするか。首尾よく事が進むと良いのう。伊勢でそなたが参るのを待っておるぞ」

「はい。あらん限りの力を尽くしてこの試練を遂行する所存です」

「うむ、頼もしい言葉じゃな。そう言えば猫が十二支に入れなんだのは鼠に間違った日付を教えられ、1日遅れで到着したからであったな。此度はそのようなことがないようにな。さらばじゃ!」


 最後に不吉な言葉を言い残して倭姫の姿は消えた。同時に周囲の白い霧は黒い闇へと変わり始めた。何も見えない闇の中で平衡感覚が次第に失われていく。立っているのか横たわっているのか、それさえも定かでない時の果てで、ふっと開いた私の目に映ったのは、歩道に横たわっている私の姿だった。


「おい、大丈夫か、しっかりしろ」

「救急車が来たぞ」

「なんだ、この猫、生きていたのか。あっちへ行け」


 無造作に振られる男の手。慌てて飛び退いた私は、その時ようやく自分が猫になっていることに気付いた。

 近くの植え込みに身を隠し、救急隊員によって運ばれていく私の体を眺める。やがて救急車はサイレンを鳴らしながら遠ざかって行った。


(しばしのお別れだな、私の体。だが大丈夫だ。必ず新月までに伊勢へたどり着き体を取り戻してやる。それまで死ぬんじゃないぞ)


 私は駆け出した。日本橋を渡る。かつての旅人がそうだったように、この橋を渡り終えた時から私の長い旅は始まったのだ。

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