初代斎宮倭姫降臨

「いつまで寝転がっておるのじゃ、この酔っ払いめが」


 女の声がした。目を開けると白さしか見えない。濃い霧の中に放り込まれたかのように上下前後左右真っ白だ。


「ここは……どこだ」


 起き上がりながらつぶやく。驚いた。体がない。手も足も体も目には映らない。意識だけが霧の中を漂っている、そんな感じだ。


「ようやく起きたか。荒木田の流れを汲む者とは思えぬ体たらく。なんとも嘆かわしい限りじゃ」


 白い霧の中から声だけが聞こえてくる。ぼんやりとしていた頭に記憶が戻ってきた。ここに来る直前、猫を避けようとした車にはねられ、私は命を失ったのだ。


「すると、ここは死後の世界」

「まあ、そうなるな。残念ながらそなたは命を落とした。あの猫と一緒にな」


 やはりそうなのか。しかし想像していたのとはかなり様子が違うな。三途の川へはこれから向かうのか。いや、それよりもこの声の主は何者だ。私は誰と話しているのだ。


「ふふふ、わらわが気になっておるようじゃな。どれ、姿を見せてやるとするか」


 目の前の霧がすっと晴れた。同時に女性の姿が現れた。ひらひら揺れる飾りを付けた冠。十二単のように着膨れした衣装、緋色の袴。神社の巫女さんを10倍派手にしたような格好だ。


「失礼ですが、もしかしてあなたは死神?」

「本当に失礼な奴じゃな。死神などではないわ。まったく何たることじゃ。せっかく姿を見せてやったのにそれでも分からぬとは。そなたの先祖が知ったら泣くぞ。わらわは倭姫やまとひめ。神宮初代斎宮である」

「やまと、ひめ……」


 子供の頃、聞いた覚えがある。皇族でありながら各地を巡り伊勢の地に神宮を創建した人物。それがどんな理由で、今、ここに姿を現わしたのだろう。


「で、その倭姫様が私に何か御用ですか」

「つれない言葉じゃのう。荒木田の子孫ならばもう少し喜んではどうなのじゃ。まあよい。今を生きる者たちの情の薄さには慣れておるからな。手短に言おう。そなたを助けてやる。もう一度生きる機会を与えてやろう」

「ほ、本当ですか!」


 昨日から思い掛けない出来事の連続だ。あり得ない内々示、賀衿常務の失脚、交通事故による死、その死からの復活。一生分の奇跡がこの一両日に凝縮されてしまったような気さえする。


「わらわが嘘を言うとでも思っておるのか。そなたは運が良いぞ。本来ならば即座に命を死神に奪われ、蘇生など無理な話なのじゃ。ところが一緒に猫も絶命したであろう。ここらを受け持つ死神は少々粗忽そこつ者でな。猫の命を拾うのに頭が一杯でそなたの命を拾い忘れてしまった。そこをわらわが横取りしたというわけじゃ。ホレ、これがその命じゃ。文字通り、そなたの命運はわらわの手に握られておる」


 倭姫が両手の平を上向きに広げた。その上に淡い光を放つ球体が現れた。それが私の命なのだろう。どうやら助けてくれるのは嘘偽りではなく本気のようだ。社会人の礼儀として深々と頭を下げ感謝の意を述べる。


「ありがとうございます。倭姫様がこれほど慈悲深いとは思ってもおりませんでした。これよりは伊勢に向かって毎日手を合わせて暮らしていく所存です」

「うむ、良き心掛けじゃ。さりとて慈悲深いかどうかは分からぬぞ。わらわとて誰彼構わずこのように助けてやるのではない。そなたが荒木田の流れを汲む者であることが大きな理由じゃ」

「荒木田の流れを汲む者、ですか?」

「やれやれそれも忘れておるのか。そなたの先祖は古くより神宮の祠官しかんとして、長きに渡ってわらわに尽くしてくれたのじゃ。その子孫ともなれば見殺しにはできぬであろう」


 言われてみればそんな話を祖父から聞いたことがある。大昔のことなど関係ないと気にも留めていなかった。やはりご先祖様は大切にすべきだと痛感した。


「加えてそなたは猫を助けようとした。結局それは叶わなかったが、その心意気はわらわの心を動かした。そこで死神が見逃したのをいいことに、すぐさま命を横取りしたのじゃ、助けてやるためにな」

「そうでしたか。倭姫様のお言葉、しっかりと肝に銘じこれからも良き生き方をしていきたいと思います。それではさっそくですが、その命を早急に私の体にお戻しください。長らく離れていては身体の方にも悪影響が出るような気がしますので」


 私の言葉を聞いた倭姫の顔が強張った。聞いてはならない言葉を聞かされたような表情だ。


「あ、ああ~、そのことじゃがな。うむ、まあ、なんと言おうかのう」


 いきなり歯切れが悪くなった。若干の不安を感じつつ尋ねる。


「どうかされましたか」

「うむ。残念ながらこの命、そなたの体に戻すことはできぬのじゃ」

「戻せない? それでは助けようがないではありませんか。今までの話は全て冗談だとでも言うのですか」

「そう結論を急ぐな。よいか、わらわは倭姫。神格はあっても真の神ではない。使える力には限りがあるのじゃ。人の命は重い。一旦体から出た命を元の体に戻すには神と同じ力が必要となる。今のわらわにはそれほど大きな力はない」

「ならばどうされるのです」

「人は無理じゃが人以外の生き物の体ならばさほどの力は必要とせぬ。此度こたびはそれで我慢してもらおうと思っておる」


 嫌な予感がしてきた。人以外の体……まさか……


「もしかして、倭姫様、私の命を戻すのは……」

「そうじゃ。そなたと一緒に命を落とした猫じゃ。おっと、命を落としたは誤っておるな。実はその猫、心の臓は止まっておるが完全には死んでおらぬ。命はまだ辛うじて肉体と繋がっておる。いわば仮死状態という奴じゃな。こんな場合にそなたたちがよく使う、胸に衝撃を与える仕掛け。あれを使えば生き返る可能性が僅かに残っておる。そのため死神も命を抱かえたまま猫の様子を見守っておる」


 AEDのことか。まあ、猫に処置を施す者などいるはずがないので、死は避けられそうにないな。


「ならば私もその装置を使えば無条件で助かるのではないのですか」

「いや、残念ながらそなたの命は肉体から完全に切れておる。仕掛けを使っても蘇生は無理じゃ。さりとてわらわの力はその仕掛けよりも強い。止まった心の臓を動かし、再び息を吹き返すことができる。ただ抜け出てしまった人の命を元の体に戻すこと、それだけは今のこの状況ではできぬのじゃ。となればここはひとまず猫にそなたの命を移して急場を凌ぐしかあるまい」


 現在置かれている状況は理解できた。だが猫となって生き返ったからと言ってそんな人生にどんな意味があるだろうか。精一杯助けてくれようとしている倭姫の心遣いは嬉しく思いながらも、私はこう言うしかなかった。


「申し訳ありませんが、猫となってまで生きようとは思いません。その命、死神に引き渡してください」

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