今際の際は猫と共に

 酔っていた。こんな悪酔いは生まれて初めてだ。東の空が白み始めている。夜通し飲むのも初めてだ。何もかも初めて尽くしの御乱行。仕方ない、人生で初めてつまずいたのだからな。


「あいつ、私を置いて帰ったのか」


 連れの姿はなかった。どこかではぐれたのか挨拶をして別れたのか、その記憶もなかった。が、人事部長の言葉だけはしっかりと記憶に残っていた。伊勢支店への降格、思い出すたびに怒りが込み上げてくる。


「今日、付き合ってくれないか」


 本社ビルを出た後、私は同期のひとりに連絡を取った。入社以来ずっと本社に勤務している男だ。相手も私の意図をすぐに察したのだろう。快く了解してくれた。


 行き付けの飲み屋で落ち合うと、彼が現在知り得ている内容を全て話してくれた。


「そうか、おまえは知らなかったのか。無理もないな。本社でも知っている者は限られている。賀衿常務の取締役解任はほぼ間違いないって噂だ。国内旅行部門不振の責任を取らされる形でな」


 3年ほど前から会社の業績は確実に悪化していた。足を引っ張っているのは国内旅行部門だ。好調な海外旅行部門とは裏腹に国内旅行の売り上げは右肩下がり。人口の減少、団体旅行需要の低下、それはもはや会社の努力だけでは対処しきれない問題だ。敏腕を誇る賀衿常務でもこの苦境に打ち勝つのは難しかったのだろう。


「今月末に臨時株主総会が開かれる。反賀衿派は議決権を持つ株主の半数を手中に収めたそうだ。同時に賀衿派への粛清が始まった。今回のおまえの降格人事はその一環にすぎない。賀衿派の社員たちは今頃生きた心地がしないだろうな」


 派閥に属するのは諸刃の剣だ。他者を薙ぎ倒して己の地位を容易に押し上げられる反面、派閥のトップが力を失えば、その刃はこちらに向かって牙を向く。危険性は十分承知していたはず、なればこそ常に情勢の変化に気を配り、臨機応変に対処しなければならなかったのに。


「油断しすぎたよ。とんとん拍子に事が進んでいい気になっていたようだ。今更愚痴っても仕方ないが」

「まあ、そう気を落とすなよ荒木田。地方とは言っても支店長なんだろう。そこでしばらく頑張ればまた日の目を見ることもあるさ。元気出せ出せ!」


 バンバンと私の背中を叩きながら屈託のない笑顔を見せてくれる。同期の中で一番出世欲の薄い男だ。もちろんどの派閥にも属していない。給与所得者のひとつの理想形と言えるのかもしれない。


「よし、今日は飲むぞ!」


 それから何軒も渡り歩いて私たちは愚痴を言い合った。明日も通常業務があるのに、同僚はとことん付き合ってくれた。しかしさすがに朝までは付き合い切れなかったようだ。気が付けば私はひとり早朝の薄明の中、石碑にもたれて地べたに座っていた。ここで眠ってしまったようだ。


「ヘックション!」


 大きなくしゃみ。まだ2月中旬だ。暦の上では春だがさすがに早朝は冷え込む。コートの襟を立てて鼻を拭いながら私は周囲を見回した。目の前には川があった。日本橋川、本社ビルのすぐ近くだ。


「やれやれ、こんな場所に来てしまうとはな。よほど未練があるようだ」


 酔った勢いで勝手に足が動いて体を運んできた、そう言い切れない自分が情けなかった。4月からの新しい戦場、ほんの半日前にはそう思い込んでいた憧れの場所。だが今の私には蜃気楼のように手の届かない場所だ。


「帰るか。もう電車も動いているだろうし、こんな姿を知り合いに見られたら何を言われるか知れたものじゃないからな」


 のろのろと立ち上がる。もちろん出勤するつもりだ。同僚の言葉通り、ここで諦めてしまってはこれまでの8年間が無駄になる。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるのだ。文句を言わせぬほどの業績を上げれば、本社へ戻る道が開かれるだろう。飲み過ぎて痛む頭を押さえ、私は駅へ歩きだした。


「おっと、危ない」


 何かが足元を勢いよく通り過ぎて行った。猫だ。まだ酔いが残っているのか避けようとした足がふらついた。


「野良猫か。あいつらも生きるのに必死だな」


 都会に生きる野良猫。何物にも縛られない姿は自由気ままにみえるが、彼らには彼らなりの戦いがあるに違いない。人を手玉に取れるほどしたたかでなければ生きていけないはずだ。それは私たち会社員と変わりない。


「見習わないとな」


 走っていく猫を追うように私も足早に歩く。都会の朝は早い。こんな時刻でも車の往来は途切れることがない。


「あいつ、何がしたいのだ」


 先程の猫が歩道の端で様子をうかがっている。横断しようとしているようだ。が、5車線の道路を横切るのは容易ではない。人間ならば諦めるところだが相手は猫、そんな理屈は通用しない。何を思ったのか突然車道に飛び出した。


「危ないっ!」


 私も駆け出した。猫とはいえ命ある生き物。できることなら助けてやりたい、そう思ったのは私だけではなかったのだろう。タイヤを軋ませながら車が歩道に突っ込んできた。猫を避けようとした運転手がハンドルをこちらへ切ったに違いない。


「うわー!」


 見えていたものが見えなくなった。体が浮いている。衝撃、轟音、そして静寂。目を開けると青みを増してきた早暁の空が広がっていた。


「ひかれた、ようだな」


 それが言葉となって発せられたのか、そう思っただけなのか、もう私には分からなかった。ただ、自分の胸の上に生温かい何かが乗っていることだけは分かった。痺れている右手を動かして触れてみるとぬいぐるみのような手触りだ。


「にゃー……」

「おまえも、ひかれたのか」


 鳴き声は遠くから聞こえてくる幻聴のように思われた。手も足も体も急速に感覚が失われていく。痛みも寒さも感じない。見えていたはずの早朝の空は次第に明るさを失っていく。私は自分の死を悟った。


「なるほど、私の辞書に後退の2文字は書かれていなかったのだな。前進をやめれば、即、死。このまま死ねば私は降格することなく支店長の肩書のまま一生を終えられる。成功だけに彩られた人生、それが私に許された生き様だったというわけか」


 何も見えず何も聞こえず何も感じられない。そして唯一残された意識もまた薄れ始めている。あの世への道連れに猫を与えてくれたのは神の唯一の慈悲だろうか。まあいい、こいつを連れて旅立つとするか……それが闇に飲み込まれていく中で想起された私の最後の意識だった。

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