驚天動地の夕間暮れ


 次の日の午後、私は日本橋にある本社ビルを訪ねていた。昨日の帰り際、本社訪問の要請が文書で届いたのだ。


「きっと内々示ですわ」


 文書を渡してくれた女子社員の顔がほころんでいる。2年間私を支えてくれた副支店長だ。私が本社に戻ったら次の支店長に抜擢されるのは彼女でほぼ間違いない。


「根拠のない早合点はしない主義なんでね」


 そう言いながらも内心では彼女に同意していた。今は2月中旬。人事異動の内示は3月と9月に出るが、その前に内々示という形で連絡がある。今回の呼び出しはそれとみて間違いないだろう。


「明日は午後の業務が一段落したら本社へ行く。留守中、よろしく頼む」

「お任せください」


 副支店長の頼もしい返事。これなら私が本社勤務になっても問題なくやっていけるだろう。


 本社へ着いた時には午後4時を回っていた。もう少し早く来るつもりだったが思い掛けない業務が舞い込んだため遅れたのだ。


「最後にここへ来たのはいつだったかな」


 受付を済ませてエレベーターを待ちながら、私は久しぶりに見る本社のエントランスを見回した。都内の支店長会議は月1回。以前は本社に支店長を集めて開いていたが、数年前からテレビ会議方式に変わった。本社に来る時間があれば業務に専念せよという経営陣の判断によるものだ。そのため本社に顔を出す機会はほとんどなくなってしまっていた。


「だが4月からはここが私の主戦場になるわけだ」


 不安はある。が、それを感じさせないほどの意欲が胸の中に渦巻いている。会社員となった以上、目指すべきは取締役、そして究極の目標である社長。今日の内々示はそれに向けての大きな一歩を約束してくれるはずだ。


「失礼します」


 人事部のドアを開けて中へ入る。人事部長は笑顔で迎えてくれた。


「ああ、荒木田君。忙しいところを呼び立てて済まないね」

「いえ。優秀な副支店長がおりますのでお気遣いなく」


 さりげなく彼女をアピールしておく。支店長昇格は間違いないとは思うが念には念を入れておいた方がよいだろう。


「ところで君の郷里は三重県だったね。確か伊勢の辺りで医者をやっていると記憶しているが」


 面食らった。考えてもいなかった話題を切り出されたからだ。


(今日呼び出されたのは内々示ではなく別の用件なのだろうか)


 少し疑心暗鬼になりながら答える。


「あ、はい。父が医者でして今は兄と一緒に小さな医院を経営しています。ただ、場所は名古屋です。伊勢は父の実家で、祖父母と伯父の家族が住んでおります」

「ああ、そうだったか。しかしお父さんの実家ならば、伊勢は君にとって懐かしい土地ではないのかね」

「まったく無縁とは言えませんが、さほど馴染み深い土地でもありません。盆や正月に数日帰省する程度でしたから。それも高校までで、親元を離れてからはほとんど訪れておりません」

「ふむ……」


 人事部長は黙り込んでしまった。目論見が外れた、そんな顔をしている。が、すぐに話し始めた。


「高校を出てからほとんど実家に帰っていないのか。入社して8年。ご両親も寂しがっているのではないかな」

「はあ……」


 苛立ちが募り始める。何のためにこんな世間話をしているのか、そもそも何の用件で呼び出されたのか、これだけ会話を重ねてもはっきりしない。


(いっそこちらから切り出してみるか)


 そう思い始めた時、人事部長が咳払いをした。


「おほん、さて、承知していると思うが、今日ここへ来てもらったのは4月の人事異動に関してだ。単刀直入に言おう。荒木田君、来年度からは伊勢支店の支店長として頑張ってもらいたい」

「な、今、何と……」


 聞き間違えたのかと思った。本社ではなく支店、しかも伊勢だ。支店とは言っても客相手の窓口業務しか行っていない営業所にすぎない。同じ支店長でも明らかに降格人事だ。


「内々示ということで今回は口頭による連絡だけだ。来月になれば正式に内示が出る。新天地で頑張って……」

「納得できません!」


 思わず大声を出してしまった。当然だ。この2年間、降格されるような働き方はしていない。


「理由を教えてください。どうして私が地方の支店に飛ばされるのですか。これまでの業績を考えればあり得ない人事です」

「いやいや、優秀な業績だからこその人事だよ。君のような人材を本社で眠らせておくよりは、赤字を垂れ流す支店に送り込んで立て直してもらった方が会社にとっても君にとっても有意義なはずだ。そうは思わんかね」

「この2年間でその期待には十分応えたはずです。まだ足りないと仰るのですか」

「まあ……そういうことだな」


 暗い表情とたどたどしい口調。それを見てようやく気が付いた。こんな人事がまかり通る理由はひとつしかない。


「もしや、賀衿常務に何かあったのですか」


 人事部長の眉がピクリと動いた。図星だったようだ。


「他人の人事を軽々しく口にはできない。それくらい君も理解しているだろう」


 その答えだけで十分だ。もうここに用はない。


「失礼します」


 入室した時と同じ言葉を吐き捨て私は退室した。迂闊だった。この2年間、支店長としての業務に没頭するあまり本社の内情について無頓着すぎた。


「くそっ、一体何があったって言うんだ」


 本社ビルを出て私は立ち尽くした。支店には戻れない。私の昇進を確信している副支店長を、他の社員を、こんな気持ちを抱えたままで見られるわけがない。日没の空は赤く焼かれている。焦燥する私の胸中のように。


「日、昇れば必ず沈む、か……」


 私は夕日に背を向けて歩き出した。どこへ行く当てもないまま……

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