憑依猫東海道中伊勢もうで

沢田和早

 

第一話 旅立ちは お江戸 日本橋

虎の威を借る御令嬢

 私の名は荒木田あらきだ九尾くお。30歳。都内の大手旅行会社に勤務する超優秀エリート社員だ。恥ずかしげもなくよくもそんな自画自賛ができるものだと思われるかもしれないが、入社8年目にして支店長を任されている以上、ある程度のエリート意識がなければ上司としての責務は果たせない。今日も私はデスクに積み上げられた書類の山に目を通す。


賀衿かえり君、来たまえ」

「あっ、はい。荒木田支店長」


 返事はすぐに返って来るが本人はすぐにはやって来ない。昨年この支店に配属された女子社員、賀衿かえり三智みち。間もなく1年になろうというのに要領の悪さは一向に改善されないようだ。握ったマウスをしばらく右往左往させた後、ようやく席を立って私の前にやって来た。


「あの、何かご用でしょうか」

「用があるから呼んだのだ。今朝、君が提出したツアーの報告書、数値が間違っている」

「えっ、ウソ。そんなはずは……」


 いきなり私の手から書類をひったくり、紙面に触れんばかりに顔を近づける。間もなく1年になろうと言うのに、上司に対する礼儀もまったく改善されていない。


「ツアー参加者数と代金合計が合ってない。夫婦同伴は割引になるのを考慮していないようだね」


 私の言葉を聞いて賀衿は口を大きく開けている。子供のような間抜け面だ。


「ご、ごめんなさい。あたし文系で数字は苦手で……テヘ!」


 とても社会人とは思えぬ軽薄な対応だが、1年近く接してきたおかげでもはや耐性ができている。私は顔色ひとつ変えず答える。


「文系にしては誤字が多いようだ。もしかして日本語が不自由なのかね」

「そうでーす。ロシア文学専攻でした……って、これ前回も言いましたよね。テヘヘ!」


 私は無言で頷いた。彼女の報告書を受け取るのは2度目。1度目もひどい内容だったが今回は更にひどい。


「東海道五十三次弾丸ツアー。これは君がプランニングし、君が手配業務に当たり、君がツアーコンダクターを務めている、まさに君だけのために用意された企画と言えるものだ、にもかかわらずこんな報告書を上げてくるとは情けないにも程がある。もう少し真面目に仕事に取り組みたまえ」

「はーい、次こそキッチリ仕上げてみせまーす!」


 前向き、かつ元気が良いのだけは評価に値する。だがヤル気だけでは良い仕事はできない。次回の報告書も似たり寄ったりの仕上がりになるのは間違いなさそうだ。


「それからもうひとつ。前回同様今回もツアー参加者の落とし物や忘れ物が発生している。少し行程に無理があるのではないかな。参加者は高齢者が多い。時間に余裕を持って行動してくれ。以上だ」

「お疲れさまでした!」


 ペコリとお辞儀をすると、間違いだらけの報告書を持って賀衿は席に戻る。彼女の能力を考えれば今日中に報告書を訂正するのは無理だろう。


(とんだ貧乏くじを引いてしまったな)


 これまで何度も胸の内で繰り返した愚痴。今日も無言で復唱してしまった。パッケージツアーの管理者……彼女の能力を考えれば決して任せられない業務。本来ならすぐさま解任してもっと優秀な社員を割り振るところだ。が、それはできない相談なのだ。彼女は私が心奉する重役、賀衿常務の娘だからだ。


「荒木田君、期待しているよ」


 入社初日、重役から直接声を掛けられた時の興奮は今でも覚えている。それ以来、私は賀衿常務を頂点とする社内派閥の一員となってしまった。今思えば入社前から私の派閥入りは決まっていたのだろう。

 人が集まれば必ず派閥が形成される。一旦形成されればそれを大きくしようとする力が働く。期待の新人として一目置かれていた私は、入社内定の段階で賀衿派閥に狙われていたのだ。少々自意識過剰ではあるが、それでも同期の連中で重役から声を掛けられたのは私だけだったのだから、あながち間違った憶測でもないはずだ。


「そしてそれは正しい選択だった」


 今でこそ社内最大の派閥を持つ賀衿常務も、私の入社当時は他の取締役と大差なかった。同期の連中からは飲み会で顔を合わせるたびに「荒木田は運が悪い」と口々に言われていたものだ。

 だが幸運の女神は賀衿常務に微笑んだのだろう。打ち出す業務計画が好結果を生み、業績が改善するにつれ賀衿常務の発言力は次第に増していった。その恩恵は当然派閥の一員である私にも巡ってきた。この若さで支店長という地位に就けたのも賀衿常務の力添えがあればこそだ。


「来年度はいよいよ部長昇進で本社勤務か、荒木田」


 ここ最近、同期の連中から聞かされる言葉はこればかりだ。支店長となって2年。大きな成果は上げられなかったものの、叱責されるような失態を犯してもいない。次の人事異動で本社に戻れるのは確実と考えていいだろう。


「あ~、表計算っていまいちよく分かんないよ~。これじゃ今日中に終わらないなあ~」


 賀衿が両手を上げてぼやいている。勤務中は私語厳禁だが誰も注意しない。口惜しいが私もすぐには注意しない。賀衿常務の娘となれば気を遣うなと言う方が無理である。

 配属初日から彼女の能力の無さは際立っていた。社会人としての資質に欠けるのは言うまでもないが、社会常識も著しく欠如していた。よくも旅程管理主任者の資格が取れたものだと、それだけは誰もが感心していた。もちろんコネ入社であることに疑いの余地はなかった。謹厳実直で滅多に情に流されぬ賀衿常務にも親バカな一面はあるのだろう。


「この1年はあの娘に振り回されっ放しだったな」


 配属早々、新しいツアーを企画したいと言い出した賀衿。任せてみれば1カ月半で東海道を旅するという無謀な内容。それでも力を貸し、知恵を出し、なんとか形を整え、他の支店に頼んで優先的に営業してもらい、それなりに客を集めれば、自分は添乗員としてツアーに同行すると言い始める始末。ここに至ってようやく彼女自身が東海道を旅したくて企画したのだと気付いたが、時すでに遅し。彼女の希望通りにツアーは始まってしまった。


「だが、あの娘との縁も間もなく切れる」


 今度の人事異動で本社に戻るのは確実。如何に賀衿常務が親バカだと言っても、あの娘を本社に勤務させるような真似はしないはずだ。同じ職場で働くのもあと数カ月の辛抱。このまま波風立てずに日を過ごしていれば万事うまく行くはず……その時の私はそう信じて疑わなかった。

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