第3話


 空は澄み、雲は白く、風は聖らかだ。

 ベランダのドアが開きっぱなしになっているから景色はよく見える。

 黄。

 青。

 白。

 黄色い陽の光が部屋を満たし、青い空には白い入道雲が浮かんでいた。

 夏を感じさせる蝉の音が心地良い。

 その蝉の音に幼馴染の芽衣の声がノイズのようにかぶさる。

「孝ちゃん、そろそろ学校に行かないとダメなんじゃないかなー、なんて思ったりして?」

 大柄な芽衣に似合わない遠慮がちな今にも消え入りそうな声だったが、六畳一間のそう大きくない部屋なら聞き取る事は容易だろう。

 孝一にとって芽衣の闖入は心地良くはなく居心地も良くはなかった。

「だからその呼び方はやめろって何度も言ってんだろ?」

「えー、そんな事よりも学校行かないと! それも直ちにダッシュで!」

 手足を大げさに振り回す芽衣の髪は陽光に照らされ、カラスの黒羽のように光っていた。

 芽衣が手足をバタつかせると大きな体のせいでベッドが大きく軋む。

 整った顔つきにバランスのよいスタイル。芽衣は美人と言えるだろう。

 だが、背が高すぎた。平均的な身長を持つ孝一よりも数センチも高い。

 何よりも先に目を引くのは上背ではなく……その瞳。黒く澄んだ、意志の強そうな瞳が、まっすぐに孝一を見つめていた。

「昨日、学校を休んだから今日学校に行かないといけない、っていうのなら筋は通るぜ? だけどこっちは五日休んでんだぞ? 物はついでって事もあるじゃん? 後一日くらい休んだってどうって事はないだろ?」

 孝一は枕元に積んである小説をかき分け、気ダルそうに身体を起こす。昨夜も朝方まで小説を読みふけっていたのだ。

「孝君、ダメだよー。そんなことを言い続けてるから五日になっちゃったんじゃない。一緒に学校に行こうよ、お願いだから」

 芽衣は腰まである黒髪を振り乱し懇願する。

「そうは言うけどな。クラスメイトの恥は自分の恥、俺はお前に恥をかかせたくないから学校に行ってないんだよ、わかるか?」

「そんな意味の分からない見栄はらなくてもいいんじゃないかな。だいたい、恥だなんて思ったことはないよ。それに風邪引いてたとかって言って普通に教室に入ったら、みんなも暖かく迎えてくれるよ。それとも、今さら学校に行くのが恥ずかしいのかな?」

 芽衣は挑発気味に言い放つ。

「そんな挑発に乗るわけねーだろ。俺はひきこもり界の中でもトップエリートなんだぜ? この俺がそう簡単に外に出るわけねーだろ。だいたい毎日毎日ベランダから入ってくんなよ」

 ベランダから部屋に入ってくる風に揺られカーテンがふわふわと揺れている。

「だって、玄関開いてなかったから……」

 都会だろうが田舎だろうが、大抵の家の玄関は閉まっているのではないだろうか。

「玄関が開いてなくて家が隣だと、ベランダを伝って他人ちに侵入するのか? いくらお前が大女と言っても玄関のドアくらいくぐれんじゃね?」

 これはベランダの鍵を閉めない孝一にも問題があると言わざるをえない。

だが、芽衣の性格上ベランダの鍵が閉まっていても、何らかの手段を使って入ってくるだろう事を孝一は理解していた。

 孝一は自然と小さい頃に芽衣が家に遊びに来た時のことを思い出す。

 ある日、テレビゲームをして遊んでいた圭の元に芽衣が遊びに来た。

 芽衣の相手をするのが面倒に感じた圭は居留守を決めこむ。インターホンがなってから芽衣のことを無視する事を決めるのに二秒と掛からなかった。

 それを物ともせず芽衣はベランダを伝って孝一の部屋に侵入しようとしてくるのだった。

 もちろん、今とは違って孝一の部屋に通じるベランダの鍵は掛かっており、部屋に侵入することは出来ない。それは芽衣も理解しており、どうすれば鍵が開くかも理解していた。

 芽衣はベランダで近所中に響く程の大声で圭の名前を連呼する。

 恥ずかしさで顔を真っ赤にした孝一はベランダの鍵を開けざるを得なかった。

 今、それと同じ事をされたら孝一は恥ずかしくて恐らくここには住んでいられないだろう。

 という理由からそれ以来、孝一は素直にベランダの鍵を開けている。

「このまま休み続けると留年しちゃうんだよ? 留年したら就職もできなくてその辺で野垂れ死んじゃうんだから」

 芽衣の言葉に圭は即座に反応する。

「え、給食も出なくてもたれ死ぬ? 給食食べてないんだから腹はもたれないだろ?」

「言ってないから、就職も出来なくて野垂れ死ぬ、ね。そんな聞き間違え普通しないよ?」

 明らかにわざと聞き間違える孝一。

「引きこもりってーのはな、一歩でも外に出たらもう負けなんだ。いわばこれは自分との戦いなんだよ」

 使い古された学習机に座ると真顔でそこまで言い切る孝一。

「いや、それ戦えてないから、戦えたとしても勝利者のいない戦いだと思うよ。たまには外に出て運動もしないと身体に悪いんじゃないかなと思ったりして……」

 げんなりとしたような顔をしながらも芽衣は圭をたしなめる。

「部屋の蛍光灯にぶら下がってる紐でシャドウボクシングとかしてるぜ。後ぶら下がり健康器にぶら下がったりしてる」

「このままだと首を吊ってぶら下がることになるよ」

 それはあまり健康的ではなさそうだ。

 首は幾分伸びるだろうが……。

「とにかく俺は学校に行かねえ! そういえば一つだけ聞きたいことがあるんだけど、いいか?」

「いいよ、お姉ちゃん、なんっっっっでも答えちゃうよ」

 元気いっぱいに返事をする芽衣。

「急にお姉ちゃんキャラ出してきたな、もうそれで行くの?」

「結構、環境が変わったからこれを機に出していこうかなと思ったりして」

「前からちょいちょい出したそうだったしな、まぁまぁ、それはいいとして芽衣――」

「なんでしょう?」

「お前死んだよな?」

 幻覚かとも思った孝一は頬をつねって再度芽衣の方を見る。

「うん、死んだよ。完璧に死にきったけどそれがどうしたのかな?」

 心底不思議な顔をする芽衣。

「いやいやいや、死んだなら現世に出てくんなよ」

「お姉ちゃん、孝君のことが心配で成仏できないの、現に今も引きこもってるみたいだし、およよよよ」

 芽衣は大きな身体を出来る限り小さく縮め、明らかな嘘泣きをする。

「いいからもう成仏しろよ。ほら線香とか焚いてやっからよ」

 嘘泣きを軽くスルーし、孝一は台所に走り割り箸を取って来るとそれに火をつけ線香替わりに芽衣の前に突きつける。

「したり顔で割り箸に火をつけられても……孝君、私を弔う気ないでしょ! こうなったら孝君が外に出るまではお姉ちゃんぜっっっったいに成仏しないんだからね」

 芽衣は机の上にあった飾り気の無い写真立てを、孝一に投げつけた

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