第二話 不可視の翼 ④

 馬を駆り東へ、東へ。陽の出る方へと進みながら、彼はいにしえの王に思いをせた。

 幼き頃から読み親しんだ英雄譚えいゆうたん。西と東の世界を結んだ、偉大なる諸王の王バシレウスである。いつかはそのような男になりたいと無邪気に願ったものだった。日を重ね歳が近づくたび、それがどれ程無謀な夢想だったかと気づき、恐怖した。かの大王の即位の歳を追い越してからは、その憧憬しょうけいに胸をがした日々も遠くなり、いつしかそれすら忘れてしまっていた。


 今の自分はどうだろうか。少しでも理想の姿に近づけているだろうか。己の背後で同じく馬に揺られる琴弾きに、彼はいっそ聞いてみたいと思った。しかしどうも気恥ずかしく、開きかけた口に言い訳するように彼は聞いた。

「そろそろ、教えてくれてもよいのではないか」

「王たるに、欲するものはなんぞやと、悩む心が冠たらん」

 彼の腰に手を回し、弾けぬ琴を気にも留めず女は詠う。それは彼の問いには答えなかったが、図らずも、彼の本当に聞きたいことの答えとなった。

 王たるに何が必要か。それは先人のてつを踏むことではない。演者が冠をいただいても、王の素養を手に入れられる訳ではないのだ。そこは見誤ってはいけない。ただ、それが自身に本当に必要なものであると認識したとき、それへの向き合い方が変わってくる。それが理想の在り方よりもずっと大切……ということだろうか。捉えどころのない女の話だが、彼は朧気おぼろげながらもそのように解釈することにした。


 それにしてもこの馬はよく走り、よく食べよく眠った。気性も穏やかで、まるで病など知らないかのようである。あの時の様子からは考えられもしなかった程に、この葦毛はいま、生きている。恩返しのつもりだろうか、限りなく軽やかに、大空を飛ぶように、この馬は全霊でもって彼に尽くした。それがもたらした高揚感を伝えるには、千の言葉でも足りないだろう。


 街に着き馬が休む間、人の輪の中心に女の琴が鳴る。それは二人と一頭の命を繋ぐ調べである。感情を揺さぶる散曲に、観衆は惜しみ無き喝采かっさいと銭を投げて寄越した。それを背中で聴きながら、彼は近くの山で捕えた獣の皮をいでいる。各々が暮らしの為に、出来る仕事を分け合っていた。そうして得た金で飯を買い、馬宿うまやどを取る。それがいつも叶う訳でもなかったが、女も、そして勿論葦毛も、彼を恨むことは決してしなかった。


 そして長き旅の道すがら、琴弾きは夜ごと彼に数々の伝説を語り聞かせた。王の宝物庫を荒らし、奇妙な術が書かれた巻物を手にした男の話。日によって、様々な動物の姿を取って現れる女の話。新月の夜にだけ、住民が巨大な蝶に変わる国の話。それは彼に何か知見を与える意図があったようには思えず、おそらくそれこそがこの女の自己紹介の代わりらしかった。各地を渡り歩き、多くのことを見聞きしてきた語り手。それこそがこの琴弾きなのである。話の数は尽きることなく、百も千もあるのではないかと疑う程である。それを彩る魅力的な語り口に、彼は何時しか心を鷲掴わしづかみにされてしまっていた。話が終わるといつも、次の話を催促さいそくせずにはいられない。しかし女は決まって、続きは明日にと言って琴を仕舞うのであった。


 陽が昇り、なおも馬を駆り東へ、東へ。旅は長い。

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