第一話 刃と琴弾き ⑧

 昨日彼は、結局何も持ち帰らなかった。そういう気分になれなかったのだ。


 自分が生きている裏で、死にゆく人がいる。


 極々ごくごく単純な自然の摂理せつりで、日常目にしていること。しかしそれ故忌避きひしていた考えに囚われ、空腹など大した問題ではないと思い直していた。代わりに彼がすることと言えば、大切な短刀に布を掛けることだった。

 わが身より愛しい刃だ。幸福という物とは縁の薄い人生を生きているが、いつもこの時間だけは間違いなく、彼の人生においてそれの代わりを果たしていた。しかし、今日はそれですら心を満たすことが出来なかった。昨日の雑音が、即ち、無残に中身をえぐられた哀れな果実の断末魔だんまつまが、彼の心の中で木魂していたのだ。それを拭い去るかのように、無心であるように努めて刃を愛でる。

 何故かは分からないが、ふと琴弾きの女が脳裏を過った。あの叫びに、琴の音が重なる思いがした。


 それもそのはずで、琴の音は実際にしていたのである。彼の住むあばら屋からさほど遠くないところに、あの女がいま、いる。昨日のやり取りを思い出し、彼は刃を仕舞うと家の戸に手をかけた。

 外に出ると、まだ朝告げの鳥も鳴かぬ刻限こくげんなのに、既に大勢の人々が活動を始めていた。しかしその動きに落ち着きは無く、皆何かに怯えているようである。大きな荷物を持つ者、家族を連れて話し込んでいる者、若き衆が各々武器を持ち、何やら不穏な会話をしていたりもする。

 その慌ただしさの中でただ一人、微動びどうだにせず座り込む者が、彼の目が探していた人物であった。


「約束の場所とは違うようだが」

 彼は女に歩み寄り、感情を乗せずにそう言った。

「吟じる者にとっては些少な問題です」

 琴弾きはまた昨日のように、澱みのない声で返した。続けて、

「共に生き、されど死す場はことなるが、もんの破るる音ぞかなしき」

 その詩は群衆には聞こえていないようだった。

「何が起こっている」

「戦です」

「戦だと」

「よくお判りでしょう? この国は敵を作りすぎました」

 女は相変わらず、彼に目を合わせようとしない。

「なぜこちらを見ない」

「それも、ご自身でよくお判りではありませんか?」

 それだけ言うと、ふところから紫の布を取り出して、彼に捧げるように差し出した。彼はいぶかしみながらも、その布の包を解いた。


 中から現れたのは、一輪の指輪だった。丁寧に磨き上げられたそれは、この薄闇うすやみの中でも目に眩しく映った。よく見ればそれは、昨日この琴弾きにくれてやったものである。彼がそれに何も言えないでいると、琴弾きが語って曰く、

言種ことくさに、しるしの在るを思ひ為し、さりとてもんに勝るものなし」

 彼はそこでようやく合点がいって、思い出したように石座いしざに目をやった。

 上弦の月をあしらった紋章。弥増いやます力を表した、この国の象徴である。それは彼自身、永らく忘れていたものだった。

「これは、迂闊うかつなことをしたな」

「わたくしめも、実際にこの目で見るまでは半信半疑でした」

「俺自身は、見なくてもよいのか」

「畏れ多くも、かようなこと……いえ、そう望まれるのなら」

 幾ばくかの逡巡の後、琴弾きは彼を恭しくあおぎ見る。彼の視界に、金色の双眸そうぼうが光を差した。

「それでよい」

 その視線に捉えられた刹那、世界から寸の間、雑音の消える思いがした。彼は満足げに笑った。

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