第一話 刃と琴弾き ①

 それは寒風吹き荒ぶ真昼のことであった。


「恵みをくだされ。一片の麺包シミットでも構いませぬ。お恵みを」

 物を乞う下女げじょが手を上げ、譫言うわごとのように同じ文句を繰り返している。活力の無いその言葉に反し、その眼はわずかな望みも逃さぬように、せわしなく動き続けていた。この女にとって生活とは今日この日を生きること、その連続に過ぎぬ故にである。

 もとより往来の少ない道であったが、その願いが通じたのか、今日は幸いにして神のあわれみを運ぶ者がいた。

「あのう、こんなものですが……」

 赤毛の少年が包みから食物を取り出しながら、その女に向かって歩いて来た。人々から慈悲の心が失われて久しい時世である。女の顔は我知らずほころんだ。

「有難き幸せです。もう少し、もう少しこちらへいらしてください」

 下女は途端にびた声をつくり、物陰にいざなうように手招てまねく。言われるがままついて行こうとする少年の年頃はまだ十二、三と言ったところか。そのけがれなき眼では、下女の意図は見通せまい。


「させぬぞ、“北のあやかし”め」

 少年の背後から槍が伸びる。それが目に入ったのも束の間、気付いたときには既に、下女は壁に縫い付けられていた。少年が驚きの声を上げるのと、麺包が地に落ちるのはほぼ同時のことだった。

 槍を放ったのは月の国の兵士、それも装いの華美なるを見るに、位の高い身分であるらしいことがうかがえる。空いた右手でさやから赤き湾刀シャムシールを抜き放ち、次の攻め手を見定める様には一分の隙もなく、それだけで少年は気圧された。

「探し人とは異なれど、此度こたび邂逅かいこう果報かほうなり!」

 兵はえるように語った。


 一方、下女は痛みにあえぐこともなく、不敵な笑みを浮かべていた。

「よくぞ見破った。だが、まだ死なぬ」

 女が槍を両手で掴む。手に触れた部分は見る見るうちに溶け出し、周囲には蒸気が立ち昇った。そしてそれは徐々に獅子の形を成し、兵士に向かいにじり寄る。

「ほう、我を試すと申すか!」

 兵士は少年を庇うように立っていたが、新たな敵の登場によって戦い方を改めざるを得なくなった。獅子の突進に先立って、真っ先に狙われるであろう少年を掴んで投げる。一歩遅れて飛びついた爪牙そうがは、獲物がいたはずの空をむなしく裂く。そして兵は自らの身体をもひねって霧の獣をかわし、後背こうはいから渾身こんしんの力で湾刀を振り下ろす。赤紫一閃せきしいっせん。赤き刀身が獅子の背を断ち、わたを辺りに散らした。返す刀で下女をぐ。一つ斬って左肘が飛ぶ。二つ斬って右膝を砕く。三つ斬って、ついに首を両断した。


 石畳いしだたみに倒れこんだまま、少年はそれをぼんやりと眺めていた。それは刹那せつなの出来事であったが、そうとは思わせないほどに様々な思考が彼の脳内を駆け巡った。

(ここでなら、この国でなら、もしかしたら自分の居場所を見つけられるかもしれない……)

 それはとてもとても濃い一瞬であった。


「その手負いで今までよく永らえた。しかし、流石にもう仕舞いだ」

 兵士は刀を鞘に納めた。

 首と胴が離れ、下女はようやく動きを止めた。切り口からは血飛沫ちしぶきの代わりに、氷混じりの水が噴き出している。しかしその顔には今なお笑みを浮かべていた。

「獅子を狩る男、予想を超える男よ。双女帝そうじょてい両陛下りょうへいか、最後の土産、謹呈きんていつかまつる……」

 ここには居らぬ自らの主君に向けて、下女は別れの言葉を吐いた。直後に突風が巻き起こる。それは吹雪となり、兵士と少年をまたたく間に呑み込んだ。

 その暴風に乗じ、一揃いの眼球が飛び去ったのを認める者は居なかった。

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