第二話 不可視の翼 ①

 燃え盛る炎が一つ、二人分の足音を勇気づける。

 それがなくてはきっと、もうくじけていただろう。



「入口に置いてくればよかったのではないか」

 松明たいまつかかげながら、彼は振り返り尋ねた。

「これを手放すわけには参りませんので……」

 足取りの覚束おぼつかなさに似合わず、強い意志を持って女が答えた。その姿は揺らめく光に照らされ、大いなる影をその背後に作っていた。彼は前を向き直すと、歩調を少し緩めた。


 眼前には何も見えてこない。どれ程時間が経ったのかも分からない。時に狭く、時に険しく。幾重いくえにも曲がりくねる複雑怪奇な洞窟を、二人は進んでいた。進むたび骨肉が削れ、心まで溶食されるほどの苦難の時間である。

 暗きを好む蝙蝠こうもりも、静けきを好む毒蛇も、ここでは一度も見かけない。この長く険しい迷宮は、あらゆる外敵を拒絶する意図を持っているようだった。自分たちは間違いなく招かれざる客であると、彼はそう思わざるを得なかった。

 突然、足音が一つ消えた。不審に思った彼が再び後ろを見やると、足を止めた女がなにやら神妙な表情をしている。


「祈りの声が、聞こえます」

 何も見えない先を見据えて、女は呟くように言った。

「祈り、だと。見せたいものとは、神への信心だったのか」

「そうではありません。しかし……」

 続く言葉は見当たらないようだった。その暗闇に彼も耳をそばだててみたが、自身の血の巡る音の他には何も聞こえなかった。

「しかし、目的の場所はもうすぐそこのようです」

 女は全てを悟ったように、虚空こくうへ五指を差し向けた。



 見せたいものがある。

 琴弾きは多くは語らなかったが、それが彼に必要なものだと断言した。

 今すぐに戦を止めなくてもよいのかと、彼は女に問うた。この国はいま、戦の炎に飲まれつつある。それは琴弾きが彼に伝えたことだった。その悪しき熱は、版図はんとの両端をじりじりと焼いている。それを食い止めるのが己が責務と、言ったのは他でもなくお前ではないか、と。詠み手の女は苦悶の表情にて、

「光さす、青き刃の長かりせば……」

「……刃切れが悪い、と言いたい訳か」

 彼は肩を落として自嘲した。腰にいた短刀は、多くの命を救うにはあまりにも短すぎる。熱に浮かされ無謀に武を奮っても、それは癇癪かんしゃくを起こす赤子と何ら変わりない。今はその時ではないと、女は冷静に語り掛けた。


 今のままでは何も護れない。民の命は蹂躙じゅうりんを免れない。その絶対的な不可能の断崖を、飛び越えるための羽根は何か。彼には皆目見当がつかなかった。それ故知りたかった。そして、この女なら知っている筈と、彼は期待した。そのように感じさせる何かが、この琴の音を纏う金色の目に宿っている気がしたのだ。

 勿論そうは言っても、その誘いの手を引くことに迷いが無かった訳ではない。しかし幸いにして、彼には何も無かったのだ。他には何も。空をたたえた瑠璃るりさかづきは、それを満たす酒を無意識に求めていた。それが村から一月も離れた砂漠にあると告げられてなお、彼が歩みを止めることはなかった。

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