第一話 刃と琴弾き ⑥


 あこがれたか? 世界に名をせる他人の才能に。

 思ったか? お前もそのようになれるはずだと。

 このざまは何だ? お前はどこにいる?

 それがなりたかったお前か?


 お前は何も為さない。ただ人の群れに溶け込み、仲間が出来たように錯覚しただけだ。

 誰もお前を見ていない。お前の身に着ける宝石しか見ていないのだ。そしてそれすらも、一度泥が付けば石ころ同然だ。


 お前は誰からも必要とされない。お前はこの世から消えても差し支えない。

 だからお前も期待するな。

 甘美かんびなる夢を。

 生きる希望を。



月の国の古都こと鬼隠す霊山ブルサにて。


 墓参ぼさんからの帰り道、空虚な時間。

 もはや悲しみはなく、ただただ真っ白な時間の中を、彼は歩いていた。昼間だというのに風は冷たく、辺りに人影はいなかった。

 何も考えない。という事すら考えない。彼は時々どうしようもなく、そうしようと意識する。

 少し遅めな両脚の調子に、ひたすら潜り込んでいく感覚。そのまま沈み込んで、自分が消えていく錯覚に陥る。

 このまま溶けて、モノになってしまえばよい。そんな福音が、もうすぐそこまできて――それを妨げる音があることに気が付いた。

「こんなときに、何だ」

 この墓所へ続いた道は、本来は孤独の道であるはずだった。彼は、そこに介在かいざいする何者かを忌々しく思った。

ことの葉にことの音を重ねております」

 よどみみ無き声が応う。見るとそこには、異国の琴を爪弾つまびく女の姿があった。続けて、

むなしさは、深き穴より出づるかな」

 もの悲しき詩を縁取ふちどるように、琴をき鳴らす。弾き手の女は、彼と目を合わせようとしなかった。

 琴の音が終わる頃、一陣の風が吹き抜けた。その後には、しばしの沈黙が残された。

「寒くはないのか」

「かく問う心の、氷故なり」

 その言葉を聞いて、彼は久々に笑った。楽しくて笑ったのではない。だからこそ自分がそれに気づいた時、彼は身に着けている中で一番高価な指輪を、この女に投げやることを思いついた。

「また明日、ここに来い」

 そして返事も聞かず、その場を後にした。


 帰宅した彼を迎えたのは、一匹の犬だけだった。飼い主に似て大柄で、毛につやはなく、黒くて汚い犬のみ。

 彼はこの犬にすら、嫌われていた。食い物の匂いがないと分かれば、主の帰還きかんに耳一つ動かすこともない。襤褸雑巾ぼろぞうきんのように家を汚し、死んだように寝たふりを続けていた。

 彼はその同居者に一瞥いちべつだけやると、自分もまた寝たふりをするのであった。


 夜になった。

 空っぽの胃が燃え、その熱と光によって彼は目覚めた。

 生きる気力もないのに、腹だけは空く。生命の警鐘けいしょうは心の平穏を乱す。彼はこの雑音が世界で一番嫌いだった。それを消すことだけが、彼にとっての生である。よろよろと立ち上がると、お守りのように持ち歩いていた短刀の、青い刃をゆっくりと抜き放つ。

 それは月の光をあらぬ方向に弾いていた。

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