第9話
その瞬間、心拍数が跳ね上がったのが自分で分かった。
ヤバイ人だったらどうしよう、騙されてたらどうしようという心配と、見た目からしていかにも社会不適合者であることを嘲笑われたらどうしようという緊張と、プライベートな場では他人とどんなことをどんなトーンでどう話せばいいんだっけという記憶の思い起こしと…とにかく近年考えたこともなかったような膨大な思考が頭を占領する。結果全ての回路がショートしてしまった私は、主催であろう青年に無言で会釈するという消極的行動を取るのが精一杯だった。
「えっと、レモンさんですか」
青年はマスクを少しズラして尋ねた。顔はまだ若く、大学生くらいに見える。
「…そうです」
登録するときに冷蔵庫にあった缶チューハイから取った、本名と一切関係がない偽名。思い入れも何もない一般名詞が、今は自分を表している。それはとても不思議な感覚だった。
「俺が幹事のフジです。で、こっちが今日のメンバーです」
男の人が数人、女の人は1人だった。それぞれ頭を下げて名乗ってくれるが、声が小さくて聞こえない人がいたり、ハンドルネームにそもそも聞き覚えがなかったり。私は曖昧に笑って頭を下げ返すが、バクバクする心臓と裏腹に少し安心をしていた。
すごいイケイケな人がいたらどうしようとか、輪に入れなかったりするのではという心配が少し薄れたからだ。
もしかしたら、彼ら彼女らは自分と少し似通った部分があるのではないか。そんな期待すら抱いていた。…勿論、自分より全て詰んでいる人物がいるはずないのは分かっていたが。
どうやら私が最後の合流だったようで、ぞろぞろと連れ立って居酒屋へ移動する。私はよく喋る女性と身長の高い男性の斜め後ろ、列の最後尾を現実感のないフワフワとした気分のまま歩いた。
居酒屋に着き端の席を確保すると、隣はさっき前にいた女性だった。各々が飲み物をテンポよく頼んでいき、焦った私は小声でレモンサワーを注文しようとする。…が、端に座ったことが災いし反対側にいる主催に声が届かない。そこに救世主が現れた。
「レモンさんだっけ?レモン好きだからその名前?あっ彼女レモンサワーだって!」
隣の彼女が一方通行でそう畳み掛けると、よく通る声で主催まで伝言してくれた。
私はその明るさと積極性に気圧されて瞬きを繰り返す。しかし、嫌な気分ではなかった。むしろ感謝しているのだが、いかんせん驚きの方が勝っている。
「あっ突然ごめんね!急に驚いたよね!私声でかいから伝言任せてくれていいからね!」
「あっ…ありがとうございます」
なんとかそう言うと、彼女はニコニコと笑顔を浮かべた。私は思わずじっと見つめてしまう。
髪も化粧も清潔感があり、ごく普通のOLのように見える彼女がこういった場にいるのに違和感があったのだった。
乾杯した後はしばらく彼女の独壇場だった。
彼女はよく呑み、よく喋った。その内容は他愛もないものだったが、久しぶりに私は他人との会話で笑うことができた。それはとても懐かしい感覚だった。表情筋なんてとっくになくなってしまっていると思っていたので、ぎこちなかったのは間違いないが。
そして彼女の話の合間にそっと周りを見渡す。いくつかのグループに分かれ、お酒を呑みながら時折小さな笑い声が上がる。とても穏やかな雰囲気で、私はなんだか感慨深かった。
これがいわゆる「談笑」というものだろうか。今まで人の輪の外側から眺めていた自分にとっては、とても新鮮な空間。
相手が自分と話したいと思っていてくれて、顔を合わせて話してくれること。それは私にとっては奇跡にも等しいことだった。
友達とか恋人がいる人にとっては普通のことで、意識することもないだろう。そんな世界が羨ましくもあったが、その一端を味わうことができた。それだけで十分だった。
何故なら、私は近いうちに死ぬから。
恐らく、ここにいる中で私より早く死ぬ人はいないだろう。不慮の事態が無いとは言えないが、年齢層からして寿命が尽きるとは考え辛い。
たくさんの幸福を味わおうが、絶望が全てを覆いつくそうが、結局死ねばゼロなのだ。だったら死ぬ前に幸福を抱えて未練を残すより、直前に楽しかったなあと思い出せる程度の小さな何かがあれば良い。
私は宣告されてからの日々を思い返し、流れるように話す彼女の声をBGMにレモンサワーを呷る。それは間違いなく私にとって、一番「丁度よい」、些細な幸福だった。
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