第8話
どんなに嘆こうが怯えようが明日はやって来るものだ。それこそ、自分が死なない限り。
私は他人と出掛ける準備第二弾として、美容院を予約していた。現代にはインターネット予約というものがあり、電話が得意とは言えない私は喜んで利用した。
しかし、予約日が近づくにつれて私は明らかに気分が沈んでいくのを感じた。
だいたい美容院に行くのなんて何年ぶりか分からない。元々髪の量が多いほうではなかったので、放置してもお団子にまとめればなんとかなっていた。ここ数年、どんどん自分が落ちていくなかで、時にはハサミで適当に切ってしまうこともあった。
最後にしていたバイト先には、とても髪の綺麗な女の子が勤めていた。大学生の彼女はサラサラのストレートヘアをピンクがかった茶色に染めていて、振り返る時にまとめた髪がふわりと広がるのが印象に残っている。
いつも笑顔で誰からも好かれ、友達と遊びに行ったと言っては毎週のようになんらかのお土産を持ってきてくれた。
光の中で生きている女性。私とは真逆で、他人へちゃんと目を向けることのできる人。社会を、世界をしっかり歩いていける人。
私は彼女が眩しくて、何を話せばよいか分からなくて、ほとんど接点がなかった。それでも私は彼女が嫌いではなかったし、むしろ尊敬していた。
彼女の彼氏は美容師らしく、彼氏に染めてもらっているのだと嬉しそうに語っていたのを覚えている。枝毛だらけの自分の髪を見ながら、私は髪の綺麗さは心の健康さにも比例しているのかな、などとぼんやり考えた。
美容師とコミュニケーションを正常に取るというのは私にとってアクロバットにも近い感覚だ。それでも予約してしまった以上、行かないわけにはいかない。
予約当日はしとしとと雨が降っていた。ますます行く気をそがれた私は、ギリギリの時間まで布団にくるまり雨音に耳を澄ませていた。
ビニール傘を差して駅前通りをダラダラ歩く。駅ビルに入るその美容院はガラス張りで中が見通せ、私はますます帰りたくなった。
数回深呼吸をしたあとにそっとドアを開けると、髪の毛をツンツンさせたイケメン達が一斉にこちらを向く。
「「「いらっしゃいませー!!!」」」
…私の記憶はそこから途切れている。
鏡に映る自分の顔がい大嫌いだった。肌も唇も荒れまくり。見えているのが不思議なレベルの腫れぼったい目はいつも不機嫌そうで、私は必要以上に鏡を見ないようにしていた。
しかし美容院では否応なしに自分の醜い顔と直面することになる。それも美容院から足が離れる理由のひとつだった。
美容師からたくさん質問され、話を盛り上げる自信のなかった私は頷いてばかりいた。すると、どうだろう。
あれよあれよという間に鏡の中の自分はシルエットを変えられて、元々の髪型が思い出せないくらいにイメチェンを果たしていたのだ。
丸っこい形のショートヘアは緑がかったような暗めの茶色に染められ、傷みまくっていたはずの毛先は綺麗に整えられている。
「あっやっぱ寒色系のが似合いますね!あと絶対ショートのがいいと思ったんすよ」
美容師は何故かニヤニヤと笑いながら背後に手鏡を掲げる。久々に見た自分の首筋は不健康に真っ白で、髪の色と相まって余計浮かび上がって見えた。
似合っているのかなど皆目見当もつかない。それでも、どう考えても私が今までやったことのない髪型だ。
美容院を出て駅ビルのショーウィンドウに映る自分の姿を何度も確認してしまう。気恥ずかしいし、落ち着かないし。流行りかどうかも分からないので、全く自信が持てない。
それでも、リサイクルショップで買ったボーダートップスとベージュのパンツが何故か少しだけマトモに見えるのは気のせいだろうか。
ぼーっと歩いていた私はたまたま通りがかったファストファッションの店の前に辿り着いた。そのまま何気なく店内に入った私はいつの間にか真剣に服を選び、気がつけばいくつかのビニール袋を手にしていた。
袋の中のカジュアルでシンプルな服を覗きこむ。…これならば、他人と出掛けても大丈夫だろうか。
服を買うのにあそこまで身構えていたのに、少し身だしなみを整えるだけで無意識に行動することができた。私は短くなった髪を触りながら、髪の健康は心の健康説をもう一度考えていた。
毎日必死で生きていた頃は、髪のことなんて考えてみたこともなかった。無理だと諦めていた訳でも無駄だと切り捨てていたわけでもなく、本当にそのことに気がつかなかったのだ。
期限つきの自由の中で手に入れた、かりそめの余裕。
店の外に出ると雨は上がっていて、私は目を細めて青空を眺めた。弱々しい風が生まれ変わった髪を微かに揺らす。
深呼吸して冷たく湿っぽい空気を吸い込むと、なんだか体の中身がほんの少し入れ替わったような気持ちになった。
あくる水曜日、私はカチコチになりながら電車に乗ってとある都会の駅へ向かっていた。目的は勿論オフ会…恐らく初めてに等しいプライベートな飲み会だ。
駅ビルで買ったシャツにカーディガンを羽織り、チェック柄のパンツの足元はスニーカー。普段使いのトートバッグには財布と携帯とハンカチだけが入っている。持ち物がそれ以上思い浮かばなかったのだ。
電車から降りると異常に喉が渇いてしまっていて、ペットボトルを買うべきか迷う。結局どうせ店で何か飲むだろうと結論づけ、いよいよ集合場所の銅像へ歩き始めた。
ハンカチを握りしめるが、手汗がとまらない。まるで重力が何倍にもなったかのように一歩一歩が重く感じられ、私は浅い口呼吸を繰り返していた。引き返すなら今だ。そんな考えが何度も頭をよぎる。
――『黒いマスクをして250ミリリットルのコーラを持ってます』
送られてきた主催のメールを何度も見返しながら、私はひとまず銅像の見える柱の陰に隠れた。
たくさんの待ち合わせの人波。私は全員がオフ会の人に見えてしまい、何度もハンカチで手汗を拭う。目を眇めて一人一人を確認していた、その時。
「あ」
黒いマスク姿の青年と、その周りに数人の姿が目に入る。
その手には、コーラのミニペットが握られていた。
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