第7話
パクチーを刻み、鶏肉とご飯を炊く。私はひとつひとつの作業を確認しながら進め、やさなんとかタイ料理らしきものを完成させた。
結局昨日は夕方から作るのがめんどくさくなってしまい、私は仕切り直して今日の午前中から取り組んでいた。数億年ぶりくらいに携帯のカメラ機能を起動させ、四苦八苦しながら料理の写真を撮る。
「いただきます」
手を合わせ、箸を手に取る。するとそのタイミングでまた携帯が着信を知らせた。
『来週水曜日、18時に駅の待ち合わせ像の前で』
私はゴクリと唾を飲み込んだ。それは自分の料理がおいしそうだからではない。
震える手で了解の返事を打つと、脱力して椅子にもたれかかった。私は天井を仰ぎ、大きなため息をつく。
『――今度オフ会があります。よかったら来ませんか』
昨日、夕焼け色に染まる時間。私の携帯に一通のメールが入った。メールなんてほぼ使っていなかったので、着信音も初めて聞いたような気がする。
差出人はチャットグループの一人で、関東に住んでいる数人で食事に行くのだという。何故私を誘ったのかは分からないが、今回初参加の人や女性もいるとのことだった。
私は読んだ瞬間に手汗が止まらなくなるのを感じた。全ての動きが固まってしまい、ただひたすら携帯の画面を見つめることしかできなくなる。
…どうしよう。
今まで自分から人を避けてきた。必要最低限だけの関わり、会話。ましてやプライベートなんて誰かと遊んだ記憶すらない。
そもそもネットで出会った人と出掛けるなんてリスクが大きすぎる。女性もいるなんていくらでも嘘なんてつけるのだ。
それでも私が迷ったのは、どこかで自分の小さな綻びに気づいていたからだと思う。
どうせ嫌われるから。どうせ、うまくやれないから。そう思って生きてきた。「どうせ」というのは私の考えの根本で、頑なな部分だった。
でもそれは、今はポジティブな意味になっていた。
どうせ、死ぬから。
騙されて身ぐるみ剥がされても、全然話に入れず肩を落としても、どうせ一年後に自分は消えてなくなっているのだ。
だったら、最後に体験してみるのもいいかもしれない。そう思った私は、軽率に扉を開けてみることにした。
しかし。一日経ってみて冷静になると、私は後悔の念に襲われた。会話がうまくいくはずもないし、そもそも外に出れる服がないし、「ネットで出会った人」なんて怪しいことこの上ないし…。
私は首を振り、なんとかそのネガティブを頭から追い出す。少しだけ冷めてしまったタイ料理に改めて向き直り、もう一度いただきますを言った。
カオマンガイ…鶏肉と一緒に炊いたご飯を口に入れ、私は硬直した。
…圧倒的な草感…。
初めて食べたパクチーはかなりクセが強く、私はその存在感に悶絶するしかなかった。足をバタつかせ、コップの水を飲み干す。
やっとの思いで嚥下すると、不思議と笑みがこぼれてしまった。
死にそうになって作った料理が、こんなに口に合わないとは。
頑張っても報われなかった、というより頑張りがずれているというのが自分そのものだと思ったら、私は笑うしかなかった。
それでもパクチーを除けばなんとか食べることができ、私は久々にしっかりした食事をとったのだった。
洋服を買いにいく洋服が必要というのはよく聞く冗談であるが、私にとっては冗談ではなくただの事実だ。
そもそもおしゃれを意識して服を買ったことがない。私服を着るのは通勤のときくらいなだったので、色褪せたパーカーやトレーナー、それにヨレヨレのジーンズが私のクローゼットの全てだった。
これでは洋服屋に入る人権すらない。今はインターネットで服が買える時代とはいえ、私は仕事が不安定すぎてクレジットカードを持っていないし、自分の服のサイズも知らなかった。
そこで私が思い出したのは、先日スーパー近くで見つけたリサイクルショップの存在だ。
あそこなら多少ボロくても目立たないだろうし、最低限色褪せてはいない服を安く買えるだろう。
私はついでに家中を探し回り、売れそうなものを探した。
結果見つけたのは、動かなくなって久しい腕時計と、先代のガラケー。いつかの職場でもらった文房具セット。出所不明の謎のキーホルダー。
あまりの酷さに我ながら呆れてしまった。スカスカ人生をそのまま表したような貧相なそれらを無理矢理エコバッグに詰め、私はリサイクルショップへと向かった。
ショップの店内は思っていたより明るく清潔で、平日昼間だというのにそれなりの人がいた。私は挙動不審にならないように深呼吸をし、カウンターで査定をお願いする。
…まあ、わかっていたことだが。
文房具セットは二束三文、腕時計に至ってはノーブランドで処分。携帯は充電すれば動くとのことでほんの少しだけ値がついた。
私はなんたか恥ずかしくなりながら最後のキーホルダーの裁定を待った。しかし。
「これ、⚪⚪のバッグチャームですね」
⚪⚪が聞き取れず、私は首を傾げた。店員さんは明るい笑顔で説明をしてくれる。
「これは数年前の限定品なんです。うちにはないですし結構貴重ですよ」
…よく分からないが、とにかく他の3つよりはマシということらしい。私は曖昧に頷き、全て買い取ってもらうことにした。
思っていたより遥かに安い買い取り料しかもらえなかったが、私は気持ちを切り替えて洋服コーナーへ向かった。洋服のブランドが全く分からないので端から適当に見ていく。スカートは最初の仕事で着たスーツ以来なのでなんとなく避け、比較的綺麗目なズボンと、ボーダーのシャツ(トレーナーよりは薄いがTシャツよりは厚い、ファッション音痴にはなんという名前なのかわからない)をカゴに入れた。
しかし。試着室でそれらを身に付けた私は渋い顔をせざるを得なかった。
今日着てきた服と何が違うのか…?
思っていた以上に地味で冴えない自分の姿に、私はため息をつく。
そのへんに買い物に出掛けたり、図書館に行くだけならこれで十分だろう。しかし、元々のっぺりとした顔も相まってとてもじゃないが他人と出掛けるような見た目ではない。
他人と出掛ける――…私はそのことに改めて気がついて、不思議な気持ちになった。
そんな日が自分に来ようとは。そう思った瞬間に、ひとつ思い出したことがあった。
数年前の職場は女性だらけだった。私は上手くやっていける気がせず、なるべく余計なことを言わないように仕事をしていた。
しかしあまりにも仕事が出来ず段々と周りの目が冷たくなり、居づらくなった私は半年でスピード退職することになった。
退職当日も特に見送られることも声をかけられることもなかった。私はそれを当然だと分かっていたし、むしろ静かに去れることに安堵していた。定時に前に出て挨拶をし、そのまま大荷物を抱えて家路につこうとした。
その時。背後から、私の名前を呼ぶ声がした。聞き間違えかと思ったが、数メートル歩いたところでもう一度呼び止められて足を止める。
振り返ると隣のデスクで仕事をしていた先輩が、息を切らして駆け寄ってきた。
「…これ、大したものじゃないけど。お疲れ様ってことで」
先輩はそう微笑むと、私に小さな小包を差し出した。私は戸惑いながら、会釈をしてそれを受けとる。
「ごめんね、フォローできなくて。でもきっとあなたなら他のところでも頑張れると思うから、応援してるね」
私は驚いて彼女の顔を見つめた。今となっては彼女の顔もうろ覚えだが、出来る人だったしお荷物の私にも親切に接してくれた。例えそれが社会人、人間として常識の範囲の優しさであっても、今までいじめられるか無視されるかが当然だった私にはとてもありがたかった。
なのに、私はそれを言葉にすることができなかった。か細い声でありがとうございますと言うことしか出来ず、彼女をその場で見送る。
本当は、先輩に色々伝えたかった。
私は手の中の小包をじっと見つめる。自分のあまりの不甲斐なさと情けなさに、心の底から失望した。私は唇を強く噛み締めると、早歩きで駅へ向かった。泣いてしまう前に、家に帰りたかった。
…そのときの、キーホルダー。私はやっとそこで気がついた。慌てて試着室から飛び出そうとし…思いとどまる。
あれが良いものだとしたら、死にゆく私よりも大切にしてくれる人のもとに渡ったほうがいい。徹頭徹尾クズな自分よりも、ふさわしい人がいるはずだ。
私は試着室の床で膝を抱えた。周囲の喧騒が遠く聞こえる。
全ての人にとって私はどうでも良い存在。そう思うことはある意味とても楽だった。相手に期待しなくて済むし、他人に心を砕くこともなかったから。
でも、そのせいで気に止めず忘れてしまった記憶がほかにもあるのかもしれない。耳をふさいでしまったばかりに、聞くことができなかった言葉があるのかもしれない。
こんな思いも、私が消えると同時に消えてなくなる。それは救済であるはずなのに、私の心に雨雲のように広がっていくこの感情はなんだろう。
私は静かに目を閉じ、黙って自分の心臓の音だけを聞いていた。
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