第5話

通知アイコンを恐る恐る開く。私はなんとなく薄目で携帯の画面を見つめた。

――『わかります。私も同じです。なんで生きてるんだろう』

『最後なら南の島でのんびりくつろぎたいかなー』

『趣味持つのいいですよ!』

…そこに並ぶ予想外の文字たちに、私は目を丸くした。

今までろくに他人と関わってこなかった。それは自分が受け入れられない、内側に居れる人間ではないからだと思っていた。

ましてやインターネットなんて、顔も見れなければ素性も知らない。悪意や誹謗中傷がまかり通る、現実の悪い部分を濃縮したような世界――…。

それは、私の勘違いだったのかもしれない。

本心がわからないのなんて現実でも同じだ。顔を知っているからといって友好的な関係を築ける訳ではないのは、私が身を持って知っている。

私は今日図書館でコピーしてきたレシピたちに視線を移す。

知らなかった、知ろうともしなかったたくさんのもの。

死に向かっていくなかで見つけた新たな発見は、私の心をかすかに照らし、同時に動揺もさせた。

軽く首を振り、私はコメントに返信をする。携帯のボタンは小さくて押しづらい。スマホならば、もっと打ちやすいのだろうか。今まで欲しいとも思わなかったのに。

一通り返し終えると、私はまた「他人のやりたいことリスト」を眺めた。

旅行という文字がたくさん目に入る。後先考えずお金を使えるのは余命待ち「無」人間の特権だが、そもそも資金になる元手がない。お金を得るには働くか、あるいはギャンブルでもするか…。

そこで私はふと思いつき、検索エンジンを開いた。ある文字を入れると、大量の情報が波のように押し寄せる。

私はひとつひとつを丁寧に読み、時にはメモをし、気がつけば日付が変わっていた。

学生時代、こうやってちゃんと勉強していれば少しは違った未来があったのかもしれない。でもそれはifの話であり、どんなに明るい人生でも死んでしまえば同じである。

むしろ、死ぬのが辛くなってしまうことを考えれば今の方が幸せだ。

幸せ…。私は携帯から顔を上げ、窓の外を見る。星はあまり見えないが、穏やかな夜だった。

今まで幸せなんて感じたことも考えたこともなかった。それは嗜好品のような、恵まれた人たちのために存在する感情。私には無縁の、一生手に入らないもの。そう思っていた。

死が訪れたその時、私の一生は終わる。その瞬間に私が幸せを感じられたら、私の人生にも、意味があったことになるのだろうか。

なんだか頭が混乱してきた。私は一旦リセットしようと1分でシャワーを浴び、布団にくるまった。

どんなときでも布団だけは自分の味方をしてくれる。無職になって絶望の毎日を送っていたときでも、無言で受け止めてくれていた。

私は久々に携帯のアラーム機能をセットした。働いている間は嫌で嫌で仕方なかった目覚まし。今は、予定があるという喜びの中で使うことができる。自由とはなんと素晴らしいのだろう。

私は心優しい布団と、いつ以来かわからない高揚感に包まれて目を閉じた。



広々とした空間と、想像以上の人だかり。私は初めて来る競馬場にただただ圧倒されていた。

昨日調べた情報を元に、馬を予想してみた。勿論競馬をやるのも初めてなので、全然見当違いという可能性も高いだろう。それでも、私は謎のワクワク感と少しの罪悪感に背中を押され、馬券の機械に並んだ。

チキンなので全額は賭けず、損しても笑えるレベルには抑えた。どうせ死ぬのに日和ってるなーと自分に呆れながらも、私は買ったばかりの馬券をまじまじと見つめる。

携帯のメモには今日賭ける馬の名前。その中の1つが、私の心をつかんだ。

『タマゴヤキベントー』

夢の中で少年に取られた卵焼きで、金を取り返す。こじつけに近いが、私はそれに賭けてみようと思った。

レースが始まるまで施設内を散策してみる。お土産ショップやらフードコートやら、まるでショッピングセンターのようだった。想像していたのと全く違う競馬場に、私は余命宣告後何度目かのカルチャーショックを受けた。

そんなこんなでレースが始まる。私はてっきり外の席で見れるものだと思っていたが、今日はなんだか大きな大会だったようで、スタンドには人があふれかえっていた。室内のモニターで見ているとここがどこだかわからなくなってくる。

それでも私は必死にタマゴヤキベントーを応援した。スポーツにも興味がなかったので、こんなに何かを応援したのは初めてだった。それはドキドキ感と、胃の痛くなるヒリヒリ感とが混ざった不思議な感情だった。一着の馬がゴールにたどりつく。妙に長く感じられた一瞬の後、周りから怒号のような大声が響き渡った。

私は開いた口がふさがらなかった。手元の馬券とモニターとを何度も見比べる。

…当たってしまった。

超大金、という訳ではないものの、今まで死にそうになりながら働いていたのはなんだったのかという金額。

ほんの少しだけ、私はなにかをもったいないと思ってしまった。その「なにか」は、考えないようにした。



なんだかどっと疲れてしまい、私はそのまま直帰することにした。電車に揺られる間に携帯を開き、見知らぬ誰かとやりとりをする。

一ヶ月前なら思いもしなかった光景だ。

そういえば、余命宣告されてから「消えたい」と思うことがなくなった。願わなくても消えるのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。でも、人生において「消えたい」と思わない期間がほとんどなかったので、私はその身軽さに驚いていた。消えたい、死にたいと思わないというのは、こんなにも心が軽いのだ。

微熱はある日とない日が交互に訪れていた。今のところ肺が痛いとかもないので、ただただ無職を満喫している人になっている。

私はボロアパートに着いて早々床に倒れこんだ。投げ出されたカバンから見える財布には、多少の現金が入っている。

――どうせ消えるなら、なんでもできる。

私は改めてその言葉を考えた。

「余命」という限られた時間の中での自由。でもそれは私だけでなく、すべての人が当てはまる。遅いか、早いかの差だけ。でも一般的に人生は長い。

だから確かな「何か」…家族でも友人でも恋人でも趣味でも仕事でも、とにかく何かを手に入れなければ長すぎる人生をこなすことなどできないのだ。

私はそこから早々に脱落した。そして、期限の迫った今何故か「何か」を疑似体験している。これはこれで充実していた。

でも、それは普通の人なら特に考えることなくできているんだろうな。

そのまま私は眠ってしまい、次に目覚めた時には夜中になっていた。

床に直に寝たため、体が痛い。乾燥した目をゴシゴシとこすり、私は窓を開けた。

今日は綺麗な満月だった。涼しい夜の風が部屋に流れ込み、淀んだ空気を一掃していく。私は窓枠に肘をつきしばし空を見上げていた。

レモン色の丸い月は静かで優しくて、私の心の小さな変化を全て見透かしているように思えた。


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