訣別

 朝の光が、カーテンの隙間から差しこんで、眩しさに目覚めた。

 ふと頬に手をやると、濡れている。どうやら眠りながら泣いていたらしい。皐月は乾きかけている涙を拭うと素早く体を起こした。気持ちがざわついて、悠長に寝てはいられなかった。

 古宇里山でのできごともそれから見続けた記憶も、体に泥のような疲労を残していたけれど、目の前に突きつけられた状況の方が大事だった。

 初七日は明後日。死者の魂が三途の川を渡る日、死者がこの世への未練を断つ日。祖母が本当にあの世へと逝く日。

 悟伯父だった者は、その日を境に、本家は祖母の守りを失うと言った。家が傾くと言った。没落するということなら、なんらかの被害を被るのだろうか。

 そして、白彦の力なら、意のままにできるとは。

 本家の地域に伝わる狐の嫁入り、先祖が守り伝えてきた、お狐さんを山の神に贄として捧げる風習と祭主としての側面。郷土の図書館でも土蔵に残る昔の記録でも、護伯父でも風子伯母でも小里でも誰でもいい。とにかく今は知らないことが多すぎて、この混沌とした人の理解の及ばぬ世界のことを些細なことでも知りたかった。でなければ、窮地に陥っている白彦を、そして祖母たち先祖が人知れず守り伝えてきた何かを失ってしまう気がした。

 残された時間は、きっと少ない。

 会社に欠勤連絡をして、陽平に予定時間より早めに会いたいと伝えた。今の皐月がすべきことは、白彦と別れたあの社に戻ることだ。そう告げる自分の直感を信じることしかできないし、二度と、祖母の時のような後悔はしたくなかった。いや、後悔するかもしれなくても、やれるだけのことはした上でなら、きっとその後悔も納得がいくだろう。

 洗面所で冷たい水道水を思いきり顔にかけた。それでも鏡の中で水を滴らせた自分の顔は、ひどく頼りなげに見えた。


 十二時五分前。

 気が急いているせいか待ち合わせ場所に早く着きすぎて、これで何度目か、新橋の駅前広場でスマホの時刻を確認した。待つことがこんなにも辛く長く感じたのは初めてだった。

 外回り先から直行する営業部の陽平に、約束の時間を十二時に早めてもらったのが今朝。急な変更には敏感な陽平が嫌な顔ひとつしなかったのは、何か予感しているのかもしれない。

 大きく深呼吸して、高架上を走り抜ける電車を見つめた。正確な時間を刻んで人を運び続ける光景は、そのまま都会の人の営みと重なった。北関東の山あいに流れる時間と違って、そのスピードはとても速い。その流れをのりこなせば、ここでの暮らしはとても快適だ。でも皐月の中の流れは、祖母の葬儀で白彦と会ってから変わってしまった。いやもっと前から、皐月がうまれもつ幸せへの流れは、ここの時間とは違っていたのかもしれない。

 どこに向かえば、幸せになれるのか。

 その感覚が教える先は、今なら分かる。胸の奥でたえず扉を叩くような声をすくいとってあげれば、それはとても簡単なことだ。

 もっと木々や風の声を聴き、川や雨の匂いをかぎ、太陽の日差しに触れ、暗闇の蠢きに耳を澄ませ、人が重ねてきた祈りと、人には見えない者たちが呼吸するそばで歳月を重ねていきたい。

 その想いへと導いてくれたのは、他ならぬ白彦だった。

「皐月」

 背後から快活な声がかかり、振り返った。短髪の清潔感をいかすようにストライプ系の少し軟派で今流行りの型をしたスーツを着こなし、営業部でもエリートコースにのりつつある神宮寺陽平がそこにいた。昨日の電話での口論の影など微塵も見せない笑顔がまぶしいほどだった。

 基本的に人を楽しませることが好きで、社内でも爽やか度ナンバー1と評判のその笑顔を向けられるだけで胸の奥がくすぐったい時期も、確かにあった。この人の隣に並んで歩くと、新しいことを知る機会も多くて、楽しかった。

「身内の葬儀って大変だったろ。疲れてんの気づかなくて、昨日はオレも強引だった。ごめん。今日夜にまた合流してさ、慰労も兼ねてレストラン。予約しといたから、どう?」

 営業部らしい気配りの細やかさにほだされて、つい大事なことを後回しにしてきてしまった。

 そのつけは、いつかきちんと払わなくてはならない。

「あ、でも無理ならキャンセルするし。こうして時間早めたくらいだもんな。何かあった? あ、その前にどうする? とりあえずどっかで昼飯食いたいよな」

 皐月の返事も待たず、早口でまくしたてる陽平の表情に、どこか不安が垣間見えた。

 息を軽く吸った。

「陽平。あまり時間、とれないの」

「とれないって、……話、あるんだろ?」

 戸惑った顔で、陽平が少し声のトーンを落とした。浮気癖があっても、それでも一年半ともに過ごしてきた。何かと理由をつけてきっぱり別れられなかったのは、それだけ皐月も陽平を好きだったということだ。その想いを、別れという形ではあってもきちんと伝えたかった。これ以上、その想いを歪ませたくはない。

 陽平の目をしっかり見つめた。

「陽平とプライベードで会うの、もうこれきりにしたい」

「……なんで」

「他に、好きな人が、できたの」

 ゆっくりと一語一語区切るように言葉を伝えると、陽平は拗ねた顔でおしだまった。その沈黙の間、皐月は陽平から目をそらさず待った。むしろ目をそらしたのは、陽平だった。

「……オレが、浮気っぽいからか?」

 視線を地面に落としたまま、陽平が不味いものを押し出すように言った。

「それは大きな理由じゃない」

「……そいつ、社内?」

「ううん、全然関係ない人」

 再び黙ってしまった陽平と皐月の様子に、張りつめた空気を感じて、通り過ぎる何人か視線を寄越した。その空気をものみこんで、皐月は言葉を継いだ。

「陽平といるといろんな世界を見られて本当に楽しかった。でも私は、もう終わりにしたい」

「……もうつきあってんの?」

「ううん、……まだ」

 手を繋いで恋人のように、この世界を歩けるかは分からない。胸の奥にわだかまる不安を抑えていると、目を合わせようとしなかった陽平がようやく顔をあげた。その顔には、切羽詰まったような表情が張りついていた。

「なら、まだ別れる必要ないだろ」

「……え?」

「オレ、皐月に辛い思いさせてきた。その、……なんつうか、……悪いとは思ってる。だから、だからこそ、罪滅ぼしさせてほしい」

「え? ちょ、ちょっと待って。私は別に罪滅ぼしなんて望んでないよ」

「いや遠慮しないで、オレ使えよ。な、それがいい。今まで通りでさ、そいつと正式につきあうことになったらオレ身ぃ引くから。皐月にとって、悪くないと思うんだ」

 陽平の言葉が理解できず、唖然として、慌てて押し切られる前に口をはさんだ。

「良い悪いとかじゃなくて、ケジメをつけたいの」

「そんなかたく考えんなって。このまま別れんの、なんかオレ、無理だわ」

 陽平の強引さに何度か頭を痛めてきたことを忘れていた。皐月のためと口では言いながら、自分の都合のいいように解釈してしまう。

「そんな、無理ってそれは陽平の勝手でしょう?」

「こんなとこで言い合いとかしたくない、これでこの話は終わりにしよう。飯行こうぜ」

 聞く耳をもたず、さっさと皐月の腕をとった陽平のその手を抑える。その手がかすかに震えていることに気づいた。目の前の現実を受け止めきれない怯えが垣間見えて、皐月はその場にしっかり踏み止まった。

「陽平、聞いて。ちゃんとしたい。陽平には、本当に申し訳ないと思う。でももう陽平のことを考える隙間ないの、自分の気持ちを大事にしたいの」

 強く言い聞かせるように言い、まっすぐ陽平の目を見据えた。ここでひいたら、前に進めない。

 いつになく強情な皐月を、なかば睨むように見つめてから、やがて陽平が全身から力を抜くようにして皐月の腕を離した。

「勝手だろ……こんな、急にさ……」

「うん、勝手だね。でも、もう一緒には歩いていけない」

 いつだって男女の別れなんて、どちらかの勝手がきっかけだ。

「……本気なんだな」

 神妙な顔で、陽平が寂しげにつぶやいた。

 はっきり頷くと、陽平は何かをかなぐり捨てたような真剣な顔で皐月の正面に向き合った。

「でもオレも、本気なんだよ」

「え?」

「皐月にはいろいろ悪いことしてきた。文句もあんま言わないで、オレのそばにいてくれた。それ、すっげぇありがたくてさ。オレといたいって子、けっこういるけど、皐月はそういうところじゃなくて、オレの素の部分に寄り添ってきてくれてた。それがどんだけオレにはもったいないことか、分かってるつもりだ。いっつもいい加減で、言ったことなかったけど、言い訳とか変な理屈とか、この際やめる。皐月、オレは皐月にマジだし、だから別れたくないし、別れない」

 陽平の顔は今まで見たことがないほどに切羽詰まっていて、言葉を失った。

「オレ、皐月が好きだ。この際だから言っちゃうけど、実はオレさ、海外に栄転の話が出そうなんだよ。正式な辞令がきたら、皐月に海外についてきてほしいと言おうと思ってた。それもあって近々両親に紹介したいと思ってたし、今でも思ってる」

「……そんな、そんな……今さら」

 陽平の思いがけない告白に混乱するよりも呆然とした。

「考え直してほしい。もう皐月に嫌な思いはさせないと約束する。大事にする。今は別のヤツに気持ちがいってても、もう一度振り向かせる、だから」

 皐月の両腕をつかみ、陽平が一歩、近づいた。

「皐月、頼む。もう一度チャンスくれ」

 公衆の目があるところでみっともない姿をさらすのも構わない陽平の姿には必死さがあった。その姿に胸を打たれ、しばらく黙って陽平を見つめた。陽平は皐月から目を逸らさない。一瞬でも逸らしたら、皐月を逃してしまうとでもいうように鬼気迫る雰囲気に、いつものふざけた様子は微塵もない。

 でもだからこそ、皐月は陽平には応えられなかった。陽平の想いに答えるには、もう遅い。

 今、この時にも白彦は、どうなっているのか皐月には分からない。そのことが絶えず心配で、こんな場でも心にかかるのは白彦のことばかりだ。一刻も早く白彦のそばにいきたいと思ってしまう気持ちを止めることができない。

 そういう自分といたら、皐月自身だけでなく陽平も、ともに傷つくのは見えていた。

「……ごめん、こたえられない」

 ゆるく頭を振って、陽平を見つめた。

 もう何もかも遅いのだと分かってほしかった。祖母を喪った時、時間は巻き戻せないとさんざん思い知らされた。もっと前に陽平の気持ちを知っていたら、違っていたかもしれない。でも自分は、白彦と再会してしまった。

 人ではない、美しく優しい異形の獣に。

「……皐月……こんなにオレが頼んでもか……?」

 皐月の両腕をつかむ陽平の手に力が入っている。すがるような目に、胸の奥が痛んだ。

 もう一度「ごめんなさい」と口にしかけた時、後ろから突然声が響いた。

「その男はダメだよ、皐月ちゃん」

 諭すように静かで、それでも皐月の心にまっすぐ届くその声。まさか田舎の本家から離れた東京も都心の新橋で聞けると夢にも思わず、大きく振り向いた。

 スーツ姿の雑踏の中で、白彦が悠然と微笑んで立っている。まるでそこだけ明るく光っているかのように見え、なにもかも吹き飛んだ。皐月は陽平の腕を振り切って「きよくん!」と駆け寄っていた。

「どうしてここに? 大丈夫だったの? 体は? 平気?」

「大丈夫だよ」

「本当に?」

「うん、戻る、って約束したよね?」

 さも当然のように柔らかく笑いかける白彦に、皐月は張りつめていた気持ちを緩めたあまり、涙を落とした。

「心配かけたね、ごめん」

 白彦が少しためらってから、皐月の涙をそっと指の腹でぬぐいとった。

「ううん、無事で、本当によかった」

 優しい手つきに、胸が一気に白彦への想いでいっぱいになる。好きだというありったけの想いをこめた笑みで帰ってきてくれた白彦を迎えた。白彦もまた皐月を見つめる眼差しに、言葉にしなくてもはっきりと分かる想いを宿していた。

 もう、これ以上は、互いに隠せない。

「皐月、そいつ? つうか、初対面でいきなりオレがダメってどういうことか、説明してれません?」

 皐月と白彦の間の糸を断ち切るように、不機嫌な声の陽平が白彦の前に立ちはだかった。

 陽平の背丈も百八十センチ近くはある。でも白彦はさらに高く、しかも本家で見るよりもはるかに垢抜けた存在感を放っていた。行き交う女性の中には足を止める人もいて、改めて人離れした美貌の持ち主だということに気づく。

 一瞬状況も忘れて惚ける皐月に、陽平が小さく舌打ちした。

「皐月、ますます認めらんないわ。初対面の相手にレッテル貼るヤツなんてろくでもねえよ」

 乱暴に言い捨てた陽平に、白彦が目を眇めて鷹揚に見据えた。まるで相手を相手とも思わないような冷徹な視線に、息を飲む。体の芯まで突き刺されるような、それは明らかに怒りだった。空気中に電気が走っているようにひりひりして、陽平だけでなく、皐月も凍りついた。

「説明、ね……。自分が一番よく分かっているはずだけど」

 白彦は微笑みすら浮かべて、静かに言うと、一歩前に出た。陽平を見下ろすその目は陽平を見ているようで、もっと別の何かを見ているようだった。

 一歩後ずさった陽平をかわすようにして、白彦は皐月に目を向け、いつもの笑みとともに手を差し伸べた。

 怖さよりも、先に体の方が気持ちに素直だった。寄り添うために陽平の脇をすり抜けて、白彦の手をとった。白彦はとても嬉しそうに微笑んで、それから真顔で陽平を見た。手を繋いだ白彦の手にかすかに力がこもった。

「僕にとって皐月ちゃんは命よりも大切なんだ。お前のような人間の犠牲になって、これ以上穢してほしくないんだよ」

 辛辣な物言いに、陽平の顔が怒りで真っ赤になった。

「けがすとか、な、んだよそれ! ふっざけんな! あんたと皐月がどんだけつきあい長いかは知らないけど、オレは入社式ん時から皐月を見てきたんだ!」

 言い放った言葉に驚いて、目を見開いた。そんなことは一言も聞いた覚えはなかった。

「陽平? どういうこと? 入社式って、」

 陽平がハッとしたように皐月を見た。

「……オレ、入社式ん時に鼻血出して、そん時皐月に助けてもらったんだ。本当はずっと気になってた。だからつき合えた時、マジで嬉しかったんだ」

 入社式は、つき合うよりも数年も前のことだ。記憶にさえあまり残っていない。思い出そうとした時、ふいに白彦が皐月の手を強く握った。白彦を見上げると、少し拗ねたような視線をちらりと皐月によこした。それはどこか野性的な色気を匂わせていて、思わず胸の奥が大きく跳ねた。

 白彦が嫉妬している。それが意味することに状況を忘れて、体が熱くなった。

「人は本当に不思議な生き物だ。それほどに想っていたならばなぜ、皐月ちゃんを大事にしなかった? 皐月ちゃんを想うならば、彼女の幸せこそが、彼女の笑顔こそが、一番大事だろう? なぜそれをないがしろにした? 僕は皐月ちゃんのそれが守れるなら、そのために命を捧げても構わない。僕が言っていることは間違っているか?」

 白彦にまっすぐ射抜かれるようにして、陽平が言葉につまった。悔しそうに俯く陽平に、白彦は畳み掛けるように、わずかに身を乗り出した。

「お前は、しょせん皐月ちゃんより誰より自分がかわいい。それ以上でも以下でもない。自分の命を賭けられるほどには、皐月ちゃんが大切ではないんだよ」

「……あんたの、その命を捧げるなんて、口だけだろ。本気で命賭けられるなんて、そう言うヤツに限って一番に逃げ出すんだ」

「それはお前がそうだから、そう思うんだろう? 僕を見くびるな。お前の価値観で測ってもらうほど、安くはない。僕は誰がどう言おうと、皐月ちゃんを守るためにいる。皐月ちゃんが幸せでいられるように、そのために皐月ちゃんも皐月ちゃんの大事なものもひっくるめて守る。お前が何を言おうと、それが僕の真実だ」

 堂々と言い切る姿に、陽平は唇を噛みしめて相手を睨んでいた。白彦はそれを平然と受け止め、かすかにため息をついた。

「人のおぞましさは、時に僕には毒だから口にもしたくないが、でもこの際あえて言わせてもらおう。ブランドのバッグをあげた相手はどうした? ヒールをあげた相手は?」

 陽平が瞬時に青ざめた。白彦はただ淡々と感情ののらない声で、続けた。

「なにより、ちゃんと生きているのか?」

 言葉の意味することにゾッとして陽平を見た。

 陽平はまるで死人のように真っ白な顔で絶句している。

「陽平……?」

 思わず名を呼ぶと、陽平はびくりと震えて怯えたように皐月を見て、泣きそうに顔を歪ませた。

「ちが、う……」

 喉がつまったように喘いで、陽平は白彦と皐月から一歩後ずさった。

「だって、そんな、あれは……そんな、オレは別に何も……」

「陽平、顔色悪いよ……?」

 土気色にまで顔色を変えた陽平にさすがに心配になって近づこうとして、陽平が一歩引いた。

「オレは、オレは悪くない……だって、あれは、不可抗力で……」

「本当に薄情だね。墓参りぐらいなら罰も当たらないだろうに」

 深いため息をついて、白彦は不穏な言葉と裏腹にそれまでの表情をひっこめて、穏やかに微笑んだ。笑っているはずなのに氷の刃のように冷え冷えとして、白彦が陽平を精神的に叩きのめすつもりだと分かった。

 思わず繋ぐ手に力を入れた。白彦が気づいて皐月を見た。もういいと頭を振ると、白彦は自分を抑えるように静かに「仕方ない……」とため息をついた。

 その時、陽平が怯えた表情のまま呟くのがきこえた。

「……化け物」

 ハッと顔をあげて陽平を、それから白彦を見た。白彦はかすかに表情を歪めている。

「僕が化け物なら、お前はなんだろうね。女の心も身体も喰らう怪物かな?」

 陽平が唇をわななかせた。

「同期だろうと、二度と、皐月ちゃんにつきまとうのは許さない。いいね?」

 白彦の言葉のプレッシャーに、陽平は「化け物め」と言い捨てると、その場から弾かれたように走り出し、人ごみの中へすぐにまぎれて消えた。逃げるように去った陽平が心配で、思わず白彦と陽平が去った方角を交互に見た。

「きよくん、さっきのどういう意味? 陽平に何を……」

「うん、彼がずっと隠してきたことをちょっとね、暴いてみせただけ」

 皐月を安心させるように微笑むその目は澄んでいて、先ほどの棘は感じられない。

「大丈夫、彼の場合、あのくらいのお灸はすえておかないとね。しばらくはおとなしくしてるんじゃないかな」

 例え陽平の過去に何があったとしたも、そう簡単には割り切れなかった。

「……今からでも遅くないよ。彼のことを追いかける? いいよ、僕のことは放っておいても。皐月ちゃんは優しいから」

 淋しそうに白彦が促した。

「……そんな言い方」

 困って顔をあげると、白彦が拗ねた表情で皐月を見つめていた。

「ごめん、困らせるつもりはなかった。でも……」

 白彦が皐月の頬にまた触れ、それから顔の輪郭を確かめるように、今度はゆっくり顎を瞼を、そして唇をなぞった。次々に触れられた部分が熱をもって、どうしたらいいのか分からなくなった。

 急に目の前の人が男に見えて、一気に心拍数があがる。

「あの、きよくん、この後は本家に帰るの?」

 うろたえて、誤魔化すように話題を探した。

「最後だよ」

「え?」

「皐月ちゃんに会えるのは、これが最後だ」

 ざあっと音を立てて血の気が引いた。何を言われたのか一瞬分からなくて、言葉を失った。

「皐月ちゃんの部屋、行ってもいいかな?」

 白彦が私の手を強く握りしめた。その手があまりに熱くて、浮かされたように皐月は喘いだ。彼が望んでいることを分からないほど子どもではない。でもそれ以前に最後の意味を確認したかった。気持ちを落ち着けるように一つ息を吸った。

「……きよくん、その前に、最後ってどういうこと?」

 白彦は柔らかく微笑んで、首を振った。

 教える気はない。そう言外に伝わってきた。

 こちらに判断を委ねるフリをして、実は他の選択肢など与えてくれない。

 そんなやり方、ズルい。なじりたくて、でもできなかった。その代わりに、また涙がにじんだ。

「守る、って、そう約束した、くせに……」

 白彦は少し哀しそうに「泣かないで」と囁いて、それからこぼれ始めた皐月の涙を指ですくうようにしながら言葉を続けた。

「皐月ちゃん、僕は君が好きだよ。小さな頃からずっと、君だけだった。白彦ではなく、きよくん、と呼ばれたあの瞬間から、僕はずっと君のものだった」

 血が沸騰したかのように体が熱くなった。何かを言おうとして、言葉にならず、ただめまぐるしい感情に揺さぶられて、よけいに涙が止まらなくなった。

 でもそれは、喜びだけの涙じゃなかった。迸る感情の発露のその奥に、絶望的な匂いのする予感が横たわっていることを、どうして無視できただろう。

「言わない約束だった。この想いは、永遠に僕一人だけのものだと思っていたから。だって、そうだろう? 人である君にとって、化け狐でしかない僕を、どうして……」

 好きになってもらえる? その言葉をのみこんで、束の間、白彦は口をつぐんだ。

「でも、期待してしまったんだ。君が、戻ってきてと約束させたあの時から」

 通行人の靴音も、何度も右に左に行き交う電車の音も、発車のベルや音楽も、どこかの宣伝も、呼び込む店の人の声も、周りの喧騒のなにもかもが、白彦の言葉にかき消された。

 嬉しいはずなのに、その先で口を開けている二人の間の距離が、哀しくて痛くて、辛い。

「一度期待したら、抑えられなかった。もしかして、と……。何度も打ち消そうとしたんだ。でも……」

 ふっとそこで言葉を切って、白彦は小さく息をついた。

「……彼のこと責められないね。僕こそが、皐月ちゃんに辛い想いさせてる」

 頭を振った。涙を止めたいのに、こんな顔でいたくないのに、止まらない。

 目の前に立つ、白彦と呼んできた男性が、指先を滑らせて、喉筋をなぞり、そして鎖骨を親指でなぞった。

「例えどんなことになっても、僕はこの先もずっと君のそばにいる。君を守り続ける。ずっと永遠に君のものだ。でも叶うことなら」白彦が言葉をいったん切って、そして体をわずかに傾けて、皐月の耳に口を近づけた。

「今日だけは、僕のものになってほしい」

 体中の血が逆流するような目眩を覚え、皐月は乱れた脈拍と呼吸を整えるように目を閉じた。

 白彦は、自分とは違う世界を生きる存在。

 それを知っていた祖母は、想像していたのだろうか。

 幼い頃に出会った、人間の子とお狐さんが、いずれ恋に落ちるなんてことを。

 それが、この先、悲しい結末しか迎えそうもないことを。

 目を開けると、凪いだ湖面のような、それでいて熱に潤んだ金の瞳が、どこまでも皐月を求めて見つめていた。

「……お願い、今日だけなんて言わないで……、ずっときよくんのものだと教えて」

 叶わないことだと分かりながら、精一杯笑みを浮かべて返事をした。

 白彦は私を抱き寄せ、祈りを捧げるように、天を仰いだ。その時に一瞬だけ端正な顔によぎった表情を、この先何があろうと、皐月は忘れないだろうと思った。

 最後の灯が消え、二度と光のささない世界に取り残されたような激しい孤独のそれを。


 マンションの部屋へ帰る道すがら、白彦はただ愛しげに皐月を見つめ、ときおり思い出したように皐月の顔や肩や背中や手に触れた。皐月は黙っていると最後という言葉に囚われて泣き出しそうだったから、東京はどうだとか、本家の様子はどうだとか、どうでもいい話題ばかりをもちだした。でも白彦は、そんな皐月の話を一字一句聞き漏らさないように耳を傾け、笑ったり頷いたり答えてくれたりした。

「やっぱり、皐月ちゃんの匂いでいっぱいだ」

 ようやく着いたマンションのリビングで、ソファに腰を下ろして、白彦は鼻で周りをかぐような仕草をした。思わず「えっやだっ」と皐月が赤くなると、白彦は「変な意味じゃないよ」と楽しげに笑った。

「本家みたいな古い木造の家って、先祖から続いてきたいろんな人の匂いが染み付いてるんだけど、そこにさらに畳のい草や、建築材の木とかの自然の素材の匂いが強く残ってるんだ。すごく複雑な匂いの層がたくさん重なってる感じだよ。でもここは、もっとシンプルな気がする」

 興味深そうに部屋を見回す白彦に苦笑しながら、湯気の立つ日本茶をふたつローテーブルに置いた。

「きよくんのそれって、やっぱり動物の嗅覚?」

「そうかもしれない」

「汗くさいとか、嫌な匂いじゃなければいいんだけど……」そう言って向かいのソファに座ろうとして、白彦が笑みを浮かべて、皐月の腕をとった。そのまま自分の隣に皐月を座らせ、首筋の匂いを嗅ぐ仕草をした。「ちょ、やだ、きよくん!」恥ずかしさに思わず体をのけぞらせると、不満そうに白彦が少しだけ離れた。

 まるで、これまでの白彦がニセモノだったんじゃないかと思えるほどに甘い。

「……ずっと触れちゃいけないと思ってた」

「どうして?」

「皐月ちゃんは、僕にとってなんていうか、命の恩人だし、神のように畏れ敬いこそすれ、僕の欲望で汚したらいけない、というか……」

「なにそれ。私そんな偉いもんじゃないのに」

「うん、でも僕が化けものだと知っても気味悪がらずに接してくれた皐月ちゃんに、僕はすごく救われたんだ」

 皐月は照れくさくなって、小さく笑った。

「おおげさだよ。私、なんの力もないただの人だよ?」

「ううん、皐月ちゃんが気づいてないだけだ。こんなに、僕を……」かすれた声でそう言うと、白彦は私を自分の腕の中に閉じ込めるように皐月を抱きしめた。

「皐月ちゃん、ごめん。僕はとても醜い。さっきの彼よりも、僕の方が汚くてあざとくて……最低だ」

「そんなことない。きよくんは、私が知る男の人の中で、一番まっすぐで優しくて純粋だよ」

 白彦が頭を振って、皐月の首筋に甘えるように顔を埋めた。

「白状するとね、皐月ちゃんの彼氏、もっと叩きのめしたいくらいだった。爆発しそうになる自分を抑えるのに必死だった」

 逃さないとでもいうように、白彦は皐月の背中に渡した腕に力をこめ、首筋に鼻を押しつけた。

「もうずっと……皐月ちゃんから甘い匂いがしてる。……くらくらするんだ……」

 皐月にとっても毒のように甘い囁きが、体に火を灯した。

 白彦が皐月を見下ろした。

 皐月の魂まで縛る、金に輝く瞳に変化している。魅了されて、視線を外すことなんてできない。

 なんて美しいんだろう。白彦は神がかっているような荘厳ささえ持ち合わせていて、その主が皐月だけを見ていることに、恍惚とした。

 生と死の匂いが充満して、喰うか喰われるか、危うい琴線で互いを支えながら、燐のような閃光が眼裏をよぎる。

 優しさも、労りも、慈しみも、何もいらなかった。

 遠くで笛の音が聞こえた。

 白彦の向こうに、漆黒の闇が渦巻くのが見え、その不吉さを握りつぶそうとかろうじて手を伸ばす。

 ゆらりと銀色の、三股に裂けた尾が見えた気がした。


 互いしか見えない時間をこえ、互いの輪郭さえも恐ろしいほど希薄になって、感覚だけが茫洋と広がっているみたいだった。

「……本当はね、人間の男と女がなんであんなに体を繋げたがるのか、理解できなかった。体の器官を繋げるなんてただの生殖行為でしかないし、僕らには、さらに必要ない行為だから」

 ぽつりぽつりと、白彦が語り始めた。

「でも人の営みに触れて、皐月ちゃんを好きになって、それまで知らなかった激しい感情や欲望を知った。皐月ちゃんを抱いたらそれは鎮まるのかと思ったけど……全然だね。堰き止めていた何かが決壊したみたいに、自分をとめられなくて、でもそれがこの上なく気持ち良くて、皐月ちゃんがそれに応えてくれるほど、また僕も気持ち良くて……。皐月ちゃんが甘い蜜になったみたいだった。あまさず飲み干したくて、もっと貪りたくて、……自分がこんなに強欲だとは思わなかった」

 白彦はそう言って、自分の両手を眺めるように天井に向けた。

「不思議だよ。皐月ちゃんが思うことや感じることが手に取るように分かる。でもなんでだろう、もっと近づきたい、もっと知りたい、もっと感じたいって思うんだ。もどかしいな、なんだか。ひとつになって、僕も皐月ちゃんもないくらいに溶けてしまえたら、いっそ楽なのかもしれない。今でも物足りなくて、このままじゃ、皐月ちゃんを壊してしまいそうで怖いよ……」

 白彦のうわずった声には、二度と冷めない熱が滞留していて、それがじわりと伝播する。

「いいよ……」

 その言葉に白彦が怪訝な顔で半身を起こして、皐月の顔を見下ろした。

「いいよ。きよくんが満ち足りるまで、何度だって壊していい」

「皐月ちゃん」

「……でも本当の最後の最後、その瞬間には、壊れたままがいい」

「……そ、んなの、」うろたえた白彦が、できるわけない、と呻いた。

「だって、二度と会えないんでしょう? 二度と抱いてくれないんでしょう?」

 白彦が言葉を失って、皐月の視線を避けるように目をそらした。

「どうしても最後なの?」

 天井を見据えたまま、白彦は皐月を見ない。その視界を遮るように皐月は身を乗り出した。

「私が人だから?」

 白彦が皐月を見た。今は穏やかなその金の瞳が、泣きそうに見えた。

「私に、人ではない力があればよかったの? それなら一緒に、きよくんが立ち向かおうとしているものに立ち向かえた?」

「皐月ちゃん」

 白彦が、流れ落ちる皐月の髪に触れ、それから頭に手を差し入れた。

「きよくんみたいな力はないけど、一緒にいたい。一緒に立ち向かいたい。最後までそばにいさせて」

 ふいに白彦が皐月の頭を強く引き寄せて、噛みつくように乱暴に唇を重ねた。

 白彦の不意打ちに一瞬流されそうになり、そして恐怖が背筋を駆け上った。

 このままでは何もできないまま、自分は白彦を失ってしまう。

「きよくん! ごまかさないで!」

 半分怒りとともに言い放った。

「今日だけは僕のものになると言った!」

 抑えきれない苛立ちを滲ませ、白彦が動きを止めた。

「それとこれとは違う……! こんなに幸せだと思えてしまうのに、それが今日だけなんてどうやって分かれっていうの? 明日からきよくんを失うなんて納得できないじゃない! こんなに好きだと思い知らされたら、思い出だけで生きていけるわけない! お願い、ごまかさないで話してよ、そばにいられる方法があるかもしれないじゃない……!」

「ごまかしてなんかない!」

 耐えきれないように、白彦が言葉を荒げた。それが呼び水になったのか、白彦は飛び起きて心情を吐き出した。

「僕は皐月ちゃんに思い出さえも残せないかもしれない! さっきの男の元に戻る? 僕以外の男に恋人の顔をする? 皐月ちゃんが僕を忘れて、他の男と家庭を作っていく? そんなの耐えられるわけないじゃないか! 抱けば抱くほどに思い知らされる! 僕は畜生で、心底醜いキツネだ。本性はずるくて卑怯でえげつない。それでも、それでも諦めきれないんだ! この世界に存在していても、僕を知らない皐月ちゃんを見ているくらいなら、それならもう、皐月ちゃんの体と魂の底に、僕のことを無理矢理にでも刻んで僕のものだと知らしめたい。奪われるくらいなら、いっそのこと、僕が……!」

 ここまで強い独占欲とむき出しの欲望を白彦が見せるのは初めてだった。

 ベッドの端に腰かけ、顔を覆って堪える背中に皐月はそっと手で触れた。白彦がびくりと震えたのが伝わる。

「好き。誰よりも、きよくんが好き。そう言ってくれるきよくんが好き」

 白彦が嗚咽を抑え込むように、皐月の手を握りしめた。

「こんな醜態……幻滅したろう?」

「ううん、するわけないよ。どんなきよくんも、私にはたった一人のきよくんだから。会った時よりももっと近づけてる気がして嬉しい」

 白彦の胸の中の慟哭が伝染しそうになって無理に笑みを浮かべたら、変な泣き笑いの顔になった。白彦は、皐月の体を強く抱き寄せた。

 先ほどの言葉が蘇る。

 人間の常識でははかれない、あの異形の狐たちの世界。それを守るための理。

「きよくん……私、きよくんと崖から落ちた時のことも、亡くなったはずのおばあちゃんがいた世界で私を助けてくれたことも、悟おじさんの顔をした狐に襲われたことも、……きよくんにひどい言葉をぶつけたこともいろいろ思い出した。ねえ、思い出さえも残せないってどういうこと?」

「……」

「私……きよくんのこと忘れるの? 理というのがそうするの?」

 言いようのない怒りが募っていく。

「ねえ理ってなんなの? ずっとその言葉ばっかり耳に入ってくるのに、全然分からないの」

 白彦が低く「そうだね……」と呟いた。そしてそのままひっそりと言葉を続けた。

「僕らにもよくは分かってないんだ……。ただ人の目に見えない世界や存在はいくつもある。それは事実だよ。僕らみたいにたまに顔出しがバレると、狐の嫁入りだとかいわれて認識される場合もあるけど、それは全体の中でごくわずかなことにすぎない。確かなのは、その世界も存在も微妙な均衡の上に成り立っているから、それを崩すようなことを皆本能で無意識に避ける。例えば……自然界で普通、異種交配はしないだろう? 異種同士が関わるとしても、捕食するかされるかの大きな枠組みはあるくらいで……」

「でも共生し合う関係もあるじゃない」

「そうだね。でも残念ながら、僕らとこの世界との関係性は、そうはならない」

 哀しそうな物言いに、ハッと顔を上げた。

「どうあっても捕食される側、なのね。人は」

 白彦の無言が肯定を表していた。

 本来なら、皐月は白彦に喰われてもおかしくないのだろう。人は、命に優劣も軽重もないと、言う。でもそれは、人の世界でしか通用しないままごとだ。白彦たち、異形の狐にとって人の命は喰らう物でしかない。それはきっと、彼らの方が人をたやすくできるほど力があるからだ。そして人である皐月の命は、当然彼らにとって白彦のとは比較にならないほど軽いにちがいない。

「でも、もしそうだとしても、私、このまま何もしないで受け入れるのだけはできない」

 白彦は、何かと激しく葛藤しているような険しい表情で皐月を見た。

「最後まで、きよくんと一緒に生きていける道を探したい」

 白彦が何かを言いかけて、口をつぐんだ。

 皐月の願いがどれだけ難しいことなのか、皐月には見えないことが、白彦には見えているのだろう。でもそれがどんなに不可能で、甘えたことでも、譲れなかった。それが、白彦に対しての皐月なりの命の賭け方だった。

「もう引き返せない。だってそうでしょう?」

 心も体も、互いの存在がなくてはならないほどに通いあわせてしまった。二人でともに在ることの幸せを、知ってしまった。

「私の幸せは、きよくんの幸せ。きよくんの幸せが、私の幸せ。一緒に生きていきたいの。それが、私が命を張ってでも守りたい幸せなの」

 白彦は大きな塊をのみこむように眉根を寄せて目を閉じると、束の間黙っていた。やがて長く息を吐きだし、天井を仰ぎながら目を開けた。

「……巻き込みたくなかった。これは人ではない僕がなんとかする問題だと思っていたから」

 白彦はゆっくり私を見た。

「僕は野狐やこだ。人の言葉を借りれば妖怪とか化け物とか、そういう類だ」

「野狐?」

「人を不幸にする、人を悩ませることで喜びを得る妖狐だ。それでも人智をこえた力がある。だからたいていのことは、僕には耐えられるだろう。でも人は、本当に脆弱だ。僕らは糧がなくても命をつなぐことはできる。でも人は他者の命を吸って生きるしか術のない生き物だ。人である皐月ちゃんには、真綿でくるまれたようなこの世界しか耐えられない。僕とともに生きるというのは、この世界を飛び出すことでもある。理から外れたところへ向かおうとしてる。つまり明日にでもどちらかが死ぬかもしれない、ということだよ。僕が全力で守っても、僕の力が及ばないことも、どんなことになるかも、僕にはすべてを予測はできない」

「じゃあ私たちは会わなければよかったの?」

「そんなわけないじゃないか」

「離れられない、私にはきよくんが必要。きよくんも私が必要。違う?」

「違わないよ。でも世界の均衡に挑むようなこの状況に、僕は……責任が持てない」

「だから逃げるの?」

「違う!」

「明日にでも死ぬかもしれないなんて、きよくんに出会っても出会ってなくても同じ。そんな不確定の未来に怯えて、今ある奇跡を自ら手放すなんて、納得いかない。きよくんと生きたい。ただそのことを大事にしたいから、必要なことを積み重ねていくの。だってそれしかできないじゃない、人の私には。きよくんだけに守ってもらおうなんて、責を負ってもらうなんて思わない。私だって、きよくんが背負うものを一緒に背負わせて。私にもきっとできることがあるはずだから。きよくん一人だけが抱えないで」

 黙って皐月の話を聞いていた白彦は、胸のつかえを吐き出すように息をついた。

「本当に、強いね……。こういう時思い知らされる。皐月ちゃんのその強さが、魂が放つ輝きが、昔から僕には憧れだった。いつどこにいても惹かれて、目を奪われる」

「きよくんがそばにいてくれるからだよ。だから私は強くなれる」

 白彦は軽く目を見張った。そして、ゆっくりと皐月に問いかけた。

「本当に、こんな僕と、生きてくれる?」

「一緒にいてくれるんでしょう?」

「言うまでもない」

「私を食べてしまう?」

「それは絶対ない。こんなこと言わなくても」

「同じ」

「え?」

「言わなくても、分かってるでしょう? きよくんと生きたいと、今さっき言ったばかりよ?」

 皐月が小さく笑うと、白彦は嬉しいような哀しいような複雑な顔で呟いた。

「そう、そうだね、ごめん……きっと辛い思いさせる。分かってるのに、分かってても僕はすごく嬉しい……」

 自分の浅ましさを隠すように手で顔を覆った白彦に、皐月はその不安を包みこむような穏やかな眼差しを向けた。

「他の誰でもないきよくんだから、私はそう言えるの。それに化け狐は魂を食べる、んだよね? でもきよくんは、私を食べないじゃない。それだけでもう、きよくんは特別だよ」

「……まったく魂を喰らってこなかったわけじゃないよ。僕らにとってほかの生き物よりも人の魂は一つでも数百年、数千年を生きるために最適だから……。でも僕は皐月ちゃんに出会って、同胞と違って人と深く触れあう時間を長く持った。おばあちゃんやおじさんたち、周りの人間たちの間で、人の営みがどんなに儚く、なのにどんなにたくましくて豊かなものなのか、知ってしまった。いまさら……」

「……後悔してる?」

 白彦は、しばらく皐月の目を見つめ、緩く頭を振った。

「全くしてないと言えば嘘になるかもしれない。でも皐月ちゃんに会って、僕は変わってしまった。以前の日々に戻りたいとは思わないんだ」

 白彦は自分の額を皐月の肩口に軽くのせた。

「そんな僕を、同胞は見て見ぬふりをしてきてくれた。僕は分かってて、それに甘えた。戯れならば許されるし、なにより、僕はまだ彼らの敵じゃなかった。でも……僕が皐月ちゃんに本気になればなるほど、同胞の皐月ちゃんを見る目が変わった。中には……。許せなかった。だから僕は彼らのそれまでの厚意に唾を吐いたんだ。僕は同胞を裏切り、それゆえに彼らの汚点になった。理を乱すだけでなく、敵対者がいるなんてことは、あってはならない。保っていた世界がたやすく崩れ、自滅への道を歩むことになりかねない原因だからね。同胞の汚点は、同胞たち自らが落とし前をつける。それが僕らの流儀だ。遅かれ早かれ同胞が、僕になんらかの制裁をくだす」

 白彦を追いつめ、古巣を敵に回す選択をさせたことを、改めて思い知る。表情を曇らせた皐月に気づいて、白彦は安心させるように腰を強く抱きしめた。

「そんな顔しないで。今言ったばかりだろう? 昔に戻りたいとは思わない。僕自身で選んで、望んだことだから」

 そう言われて、皐月は何かを堪えるように微笑んだ。白彦も穏やかに微笑み返した。

「僕らの世界、人の世界、または第三の世界。それは皆、たまに干渉し合いながらも危うい均衡の上で成り立っている。それを保つのが、理だ。化け狐には化け狐の、人には人の、ね。それを曲げることは、自分の存在そのものを危うくする。その覚悟の上で、僕は選んだ。皐月ちゃんと同じように、後悔したくなかったから」

 白彦の言葉ひとつひとつを聞き逃さないように、じっと耳を傾けた。例え果ての見えない航海にたった二人で漕ぎ出そうとしていても、繋いだ手だけは、決して諦めたくなかった。

「……もしかしたら、一つだけ……望みをかけることができるかもしれない」

 ハッとしたように顔をあげた白彦は、明るい表情で皐月を見た。

「山の神に会うことだ」

「山の、神様……?」

 神棚に祀られている神のことを思い出した。

「正直、会えるか分からないし、会えても僕の願いなど、神たる彼女には無意味だ。彼女は、僕らとはまた違う存在だから」

 自分の理解の範疇を超えている話に目を瞬きさせた。

「人の皐月ちゃんには信じられないかもしれないけれど、人が信じる神の中には、僕らよりも高次元に実在する存在もいるんだ」

 白彦は、希望を見つけたかのように息を弾ませている。でも皐月には、一抹の不安がよぎった。不安というより、漠然とした恐怖に近い。

 ふとした日常の折々に、祈りを捧げたり願いをかけたりしてきた相手が実在しているという感覚は、普通現実にはない。奇跡や自然の力の片鱗にその存在を思うことはあっても、事実として存在するという話とは違うのだ。でも白彦のように人ではない存在を知ってしまった今は、皐月にもその存在の信憑性を疑う余地はなかった。だからこそ、その神という存在が怖かった。

 何より、本家が祀る山の神は人にお狐さんを生贄に捧げさせてきた神だ。

「皐月ちゃん、僕は陽が昇ると同時に山に帰る。山の神がおわすところは、あのお社だから」

「だめ」

「……どうして?」

「山の神は、お狐さんを供物として受けとる存在なの。それこそ、きよくんの言っていた捕食する側なんじゃないの? そんな相手のところになんて」

「皐月ちゃん」

「だめ、行かせられない。そんなのリスクが高すぎる。行くなら私も一緒に行く。一人でなんてだめ」

「皐月ちゃん」言い募る皐月を落ち着かせるように、白彦が力を込めながらゆっくり皐月の名前を呼んだ。すがるように見た皐月を、白彦は凪のように静謐な瞳で見返した。

「分かってるよ」

「……分かって、る?」

「彼女が、僕らを供物にしていることくらい。そうなりかけた当事者だよ、僕は」

「なら」

「それでも、僕らより高次元にいる彼女ならきっと僕らが見えないものを見ている。だからこそ僕ら二人が一緒に生きる道を見いだせるかもしれない」

 それでもためらって、皐月は俯いた。

「……不安なのは分かる。僕だって、そうだ」

 白彦を見た。穏やかな笑みを湛えて、白彦は皐月の両頬を両手で包んだ。

「皐月ちゃん。共に歩くと、離れないと、決めたんだ。世界を異にする僕と皐月ちゃんで、理に逆らってでも、そうすると決めたんだよ。どんなことが起きるか分からないと、言った。それでも、と君は望んだ」

 小さく頷いた。胸の奥できしむような不安を、目を一瞬閉じて、飲み込んだ。

「大丈夫。僕は、必ず帰る。君を、一人にはしない。自分の命をむざむざ捨てるようなこともしない。僕は、君とともに生きる。そのために帰るんだ」

 覚悟を決めた白彦の言葉は力強い。その覚悟は、皐月にもある。

 だからできることは、たった一つ。たった一つだ。

「信じる」

「うん」

 間近で金色の瞳が澄んだ光を灯して輝いている。白彦は額を皐月の額に重ねた。

「大丈夫、これでも力はある方なんだ。ほら、この前だって皐月ちゃんを連れて、お社から逃げられただろう?」

 皐月の不安や心配が伝わってしまったのか、それを払拭するように、白彦は楽しげに言った。

「それに、……皐月ちゃん、皐月ちゃんもやらなくてはいけない大事なことがあるよね?」

「……初七日のこと?」

「そう。三途の川を渡ったら、おばあちゃんは本当に死者になる。初七日までは、まだこちらに半身を置いているけれど。伝えたいことがあるなら、今のうちだ。……あるよね?」

 どきりとして白彦を見た。白彦は深く優しく皐月を見つめた。

 この人の前で何かを隠すことなんてできるのだろうか。ふとそんなことを思いながら「……間に合うかな」と呟いた。

「間に合う」間髪入れずに言い切った白彦は「僕もおばあちゃんに伝えたいことがあるから」と続けた。

「私も、ちゃんと伝える」と頷くと、白彦は皐月の頭に指先を差し入れて、優しく髪を梳いた。

「伝えたいことがあるなら、それを思ったその時を大事にするんだ。人ではない僕と生きるってことは、皐月ちゃんに人である部分を捨ててもらうかもしれない。皐月ちゃんの大事な何かを奪うかもしれない。何が起きるか分からない。だから皐月ちゃん、大切な相手との一瞬一瞬を後悔しないようにして。僕が約束できるのは、皐月ちゃん、君の手を離さないということだけだから」

 依舞が、母が、護伯父や風子伯母たちの顔が、一瞬脳裏に浮かんで消えた。

 そして、祖母。

 いろんな人たちに生かされてきたこの命を賭けても、今までの繋がりを絶っても、それでもやっぱり白彦と共に歩みたい。

「皐月ちゃん?」

「ちゃんと伝える。きよくんのその約束だけで十分よ。一番大事なものはもうここにあるから」

 白彦がかすかに息を吐いたのがホッとしたように見えて、皐月は思わずその首に腕を回した。

「ありがとう」

 耳元に響いた低く優しい囁きが、波紋を広げるように胸の奥深くに広がっていく。皐月は小さく頷いて、白彦の胸の鼓動に、自分の鼓動を重ねるようにゆっくり目を閉じた。

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