異変

 戒名がつけられた祖母の位牌に手を合わせた。唇がわなないて、いろんな感情の波に涙があふれそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。

 おばあちゃん、ひどい言葉をぶつけて、本当にごめんなさい。会いに行かなくてごめんなさい。

 目を開けると、遺影の祖母はこの前の葬儀と変わらず笑っている。その笑みが、葬儀の時よりも柔らかく感じた。きっと午後の法要では、もっと落ち着いて祖母と向き合える気がした。

 皐月は立ち上がると仏間を出た。ぎしりと鳴る廊下の床は艶やかに磨かれていて、廊下に沿って並ぶ座敷はただそこにある。広い本家は祖母がいなくなったとは信じられないくらいに、いつも通りだ。護伯父たち、本家を継いだ人たちが手入れを怠らず、しっかり引き継いだのだろう。積み重ねていく日常の中で、確実に祖母の不在は当たり前になっていく。

 今の本家の気配を確かめるようにしながら、土蔵のある裏庭に向かった。

 あいかわらず背の高い草が弱々しく揺れている。午前中の白い光は裏庭にはあまり届かず、夜明けの気配をかすかに引きずっていた。ここが太陽の恵みを受け取れるのは夕刻ばかりだ。

 鉄の扉に、鍵はかかっていない。力をこめて押し開けた。錆びついた嫌な音がして、外の光が中を照らした。

 迷わず神棚に向かううちに、土蔵の中の空気が変わっていることに気づいた。

 隅の方は変わらず闇が凝っていたけれど、この前と違って明るく爽やかな雰囲気に包まれている。

 それを不思議に思いながら、皐月はこの前落ちたはずの地下への入り口を目で探した。

 長持ちも和箪笥も動いた気配はない。ただ埃をかぶって、そこに何もなかったように沈黙している。でもそれが現実ではなかったとは今も思わない。

 神棚の前に立ってようやく、土蔵の雰囲気が変わった訳が分かった。まるで新しく作り直したかのように、神棚がきれいになっていた。

 注連縄に下がる紙垂は真新しくなって、杯の水には埃も浮いておらず、白い米はまだ炊かれたばかりのようにつやつやとしていた。

 風子伯母が、作法に則ってきちんと清めたに違いない。

 そしてこの前来た時にはなかったものがあった。

 紙の札だ。棚の端にずらりと並んで下がっていた。皐月には読めない墨文字が表面にのたくって、赤く異様な印や絵が描かれている。

 悟伯父だった異形の狐は、この家が傾くと言った。でも祈りは、きちんと受け継がれている。

 それが形だけだったとしても、そこに宿る想いは偽りじゃない。

「山の神様。どうかきよくんを無事に帰して」

 皐月は手を合わせると、ただ一心にそれだけを胸の内で念じた。

 涼しい風が頬を撫でた気がした時、背後に足音がした。

「あら皐月ちゃん、早いのねえ。法要までまだ時間あるのに」

「おばさん」振り返ると、風子伯母と、その後ろに小里が控えていた。

「ここで手を合わせてるなんて、子どもたちの中じゃ皐月ちゃんくらいなもんだわ」

 笑みを浮かべながら、風子伯母は手に盆を携えて近づいてきた。

「それ、お供えするもの?」

「そうよ。毎日だから大変。今日は法要があるからバタバタしてて、こんな時間になっちゃったわ。これも慣れだとは思うんだけど、こればかりは大事なしきたりだから」

 伯母は供えてあった水と榊をとりさげて、そばの小里に渡した。小里は黙って持ってきた盆に受けとると、恭しく上に掲げて、祈りを捧げるように頭を下げた。

 きっと小里にとって、本家に祀られている神は、本当にその存在を信じる相手に違いない。その姿にどこか胸を打たれながら、風子伯母が片づける様子を見つめた。

「ご飯きれいだったから、てっきり今日お供えしたものかと思ってた」

「そうなの、不思議なのよね、お供えしたの昨日なのに、全然その時と変わらないの。ほら少し触ってみて」

 さげたばかりの白飯の皿を渡される。表面をそっと触るとまだもっちりとした粘り気が残って、しかもほっこりと温い。

「ほんとだ……。不思議。炊いて少し経ったくらいにしか思えない」

「でしょう?」

「これ、この後どうするの?」

「当主……つまり護兄さんのお膳に混ぜるのよ。神棚に供えた食べ物は、神様のお手がついたものだから、それを食べることで体に神様の力を入れるのね」

 風子伯母は何気なく話しているけれど、都会で暮らしてきた皐月にはとても尊く感じられて、神妙な気持ちになった。

「これ、私も食べちゃダメ?」

「いいわよ。別に一粒でも一口でも、量は関係ないから。お供え物のお下がりをいただくことが大事なの。ね?」

 風子伯母が小里を見ると、小里は笑みのない顔のままゆっくり頷いた。

 少しつまんで、口に入れた。本当に炊きたてのような感じで、白飯の甘みもしっかり残っている。昨日供えたものだとはとても思えなかった。

「……信じられない……」

「私たちの祈りに、本家を守ってくださる神様がきちんと応えてくださってるのかしらね」

 風子伯母がそう小さく言って、神棚を掃き清め始めた。

「ねえおばさん、ここに祀ってるのって山の神様なんだよね?」

「そうよ」

「どんな神様なの? 女の人と聞いたけど……」

 風子伯母が手を休めて、今まさに触っている神棚をしげしげと眺めた。

「そうよ、もとはこの辺りに住んでた人間の女性だったのよ」

「え?」

 一瞬、意味がわからなくて、聞き返した。

「あくまで言い伝えだけどね。小里さんの方が詳しいわ」

 風子伯母はそう言って小里を見た。小里はしわに埋もれた目をぎょろりとさせて、皐月を見た。

 まるで、話すことに値するか確認するような視線の強さだった。怯みそうになる気持ちを叱咤して、皐月はしっかり小里を見返した。

 自分は、ここのことを知らなくてはならないのだ。

 今まさに白彦が、その相手を訪ねているはずなのだから。

「……この辺りは古くから村があった。その長に別嬪な娘っこが一人おって、評判だったっぺ。だけんどある日、村を通りかかったこれまたえれえ美しい若者がおって、二人はすぐ好きおう仲になったんだ。だっけが、こん若者は、人じゃあなかった。古宇里山に住むお狐さんが化けてたんだぁ。折しも娘っこの親は、娘の評判を聞きつけた長者の息子からも嫁さ欲しいと言われてたんだべ。当然、親はどんこの骨とも知らねえ若者より、長者の息子との縁組を決めるべ? 娘っこと若者は駆け落ちしたけんど、すぅぐ見つかって、しかも娘っこの前で若者は正体さ暴かれてしまったんだ。それを恥じた若者は姿さ隠して、二度と現れねかった」

 自然と白彦のことを思い出していると、小里はそのまま話を続けた。

「娘っこは長者の息子に嫁いだべか、哀しゅうて哀しゅうて、いつしか古宇里山や村を若者の姿を求めてさまようようになっちまっただ。哀しみが過ぎっと、いつしか恨みに変わんだな。恨んで恨んで、そんまま狂って死んじまった。だけんど、死んだはずの娘っこがいろんなとこで目撃されるようになったべ。たびたび飢饉や病気や、災いもいっぺえ起きるようになった。娘っこの恨みだっぺなあ。そんで仕方ねえがら、村人は、娘っこを古宇里山の神として祀って、古宇里山の狐を若者に見立てて捧げて、荒ぶる魂が鎮まるように祈願した。それから災いはぱったりやんだんだ」

「……愛した相手の同族を、贄に、したの……」

「喰らうほどに、深かったんだべ」

「恋しさと恨めしさは、紙一重よねえ」

 しみじみと風子伯母は言うと、きちんと清めた神棚に向かって手を合わせた。

「でもね皐月ちゃん。ここらの人にとっては、この山の神様は災いをもたらす神様ではないのよ。とても身近で、恵みの神様なの。山がなければ、ここに人は住み続けられなかったでしょうしね。ま、言い伝えよ」

「風子さん、祭主がそんなふうに言うもんじゃねえ」

 最後の一言に小さく反応した小里にすかさず咎められて、風子伯母が素直に「はあい」と返事をした。他の人にとって昔話のように聴こえても、小里にとっては真実であるように、そこには真実が必ずある。

 事実として、皐月は、美しい若者に化けた白彦というお狐さんを知っているのだ。

「でもキツネはずっとお狐さんとして供えられてきたのよね……?」

「お狐さんは、山の神様にとっては仇だべ」

 お狐さんを供えさせることで、叶わなかった恋に復讐していたのだとしたら、皐月と白彦の関係は山の神の目にはどう映るのだろう。

 ゾッとした。漠然と感じていた恐怖が、明確な形をもって現れたみたいだった。

 白彦は、もう、山の神に会ったのだろうか。

「ねえおばさん、今日、きよくん本家に来た?」

「え?」

「ほら、きよくん、法要欠席してたじゃない? 朝早くにおばあちゃんに挨拶に本家に来たと思うの。見かけてない?」

 祖母に伝えたいことがあると言っていた。線香をあげに寄ったとしたら、早朝のはずだ。初七日で親戚の中には前日から泊まっている人も多い。祭主の側面をもつ風子伯母も護伯父の片腕として、小里とともに本家に泊まっていた。

 早朝から法要の準備だので忙しい風子伯母なら白彦を見かけていてもおかしくない。

 でも返ってきた言葉は、皐月の想像を裏切るものだった。

「きよくん? え、どこの子のこと?」

 風子伯母は、怪訝そうに首を傾げた。

「え? やだ、悟おじさんとこの」

 冗談かと笑おうとして頰がひきつった。

「悟おじさんとこの……って、やぁだ、悟兄さんに子どもなんていないわよ。あの人、独身のまま亡くなったんだから」

 瞬間、血の気が頭から音を立ててザッと引いた。体から力が抜け、皐月は思わず支えを求めて目の前の風子伯母の腕にすがった。

「皐月ちゃん!? ちょっとどうしたの、大丈夫!?」

 驚いて皐月を支えた風子伯母の声も聞こえなかった。

「独身? 亡くなった? 死んだ?」

 言われている意味が理解できなかった。

「ちょっと、皐月ちゃん? 大丈夫なの?」

 なんとか頷きながら、足に力を入れた。

「悟おじさん、は、その、本当に死んでるの?」

「皐月ちゃん、知らなかったの? 悟兄さん、自殺したのよ10年前。ことがことだけに、葬儀もうちうちで済ませてたから。ねえ小里のおばさん」

 小里がかすかに頷いた。

「……嘘」

 それ以上、言葉が出なかった。

 悟伯父は、死んでいた。それならば、風子伯母の中にも小里の中にも、白彦は存在しない。存在するわけがない。

「そんな、の、嘘」

「皐月ちゃん?」

「おばさん……古宇里山のところに悟おじさんの家があったよね……?」

「え、あ、ああ。でも悟兄さんが亡くなってからしばらくして、取り壊したはずよ? それより大丈夫なの? 皐月ちゃん?」

 風子伯母が皐月を呼ぶのも聞こえなかった。どうにかすると膝が崩れ落ちそうになるのを堪え、つまずきかけながら、土蔵を飛び出した。走って、そして長屋門に向かう。今すぐ、白彦がいるはずの古宇里山に向かうことしか頭になかった。

 長屋門では、護伯父が法要に向けて掃き掃除をしていた。

「護おじさん!」

「お、おおお? 皐月ちゃん」

 血相を変えた皐月に、護伯父が身をのけぞらせて驚いた。

「きよくん、きよくんを知らない? 分家の、悟おじさんのとこの。白彦って名前の」

 知っていて、と願った。

 護伯父は一瞬ぽかんとしてから、眉をひそめた。

 もう、それだけで、……分かってしまう。

「きよくんとか白彦とか、分家筋にけ?」

「八重野白彦」

「知らねえなあ。悟は自殺してっからな、あいつが外に子ども作ってたら分からねえけど、聞いたことねえべ」

 目眩がした。

「おばあちゃんの葬式に出てたのよ。つい2日前には通夜ぶるまいにだって、お酒持って。護おじさんにお酌だってしてて」

 土間で久しぶりに再会した時の白彦の嬉しそうな笑顔がよみがえった。それから一週間もたっていやしない。

「白彦ってのがどこん子かしらねえが、ばあさんの葬儀に出てたんなら、今日の法要ん時も現れっぺ?」

 護伯父は皐月の勢いに戸惑った表情のまま、なんとなくまた掃き掃除の手を動かし始めた。

 皐月は愕然としたまま、吸い寄せられるように長屋門の向こうに広がる田んぼの風景とその先の古宇里山に目を向けた。

 ふらりと、長屋門から外に踏み出す。

「皐月ちゃん、どこ行くんだ?」

「ちょっと……」

「法要は十三時からだかんな、あんまし遠く行っちゃなんねえぞ」

 伯父の言葉に返事もせず、皐月は田んぼのあぜ道に降りた。舗装された道路を行くよりも、直線的に山へ、あの社へ続くあぜ道を行くほうが早い。

 田んぼを渡る風は柔らかく吹き去っていく。まるで今までと何も変わらぬかのようなその風が、さらに皐月の気持ちを粟立たせた。

 嘘だと、誰かに言ってほしかった。本家の皆で自分をかついでいるだけだと。

 轍の跡がついたあぜ道を歩き続けた。

 嫌な予感ばかりが来た道にも行く道にも降り積もっていく。

「おねえちゃーん!!」

 ふいに依舞の声がして、声の方角を振り返った。道路の脇に寄せた車のそばで、依舞が手を振っている。車の中には母もいるに違いない。

 皐月は依舞の方に向きを変えた。

「お姉ちゃん、こんなとこで何してんの!?」

 東京からようやく到着したらしい依舞が、軽やかにあぜ道に降りて走り寄ってきた。

「うん……きよくん探してるの」

 最後の望みを賭けるように言うと、依舞はきょとんとした顔ではっきりと聞き返した。

「きよくん? 誰?」

 言葉もなかった。つかまえておけと言っていた依舞さえ覚えていない。

 いやはじめから、いないことが正しくて、すべては皐月が夢を見続けていただけなのか。

「うん……なんでもない」

「お姉ちゃん? なんか変だよ? 大丈夫?」

 依舞と皐月の様子に、車の窓が開いて母が顔をのぞかせた。

「どうしたの、二人とも。皐月、これから法要でしょ? 乗っていったら?」

 母はこの前の諍いを忘れてでもいるように、屈託ない表情で皐月を見ている。

 いや違う。口論の原因は白彦のことから始まった。白彦の存在がなければ、そもそも口論さえ存在しないのだ。

「お母さん……」

「どうしたの、皐月。顔色悪いじゃない。だからまとめて有給とりなさいって言ったのに」

「お母さん、きよくんの居場所知らないよね……?」

「え? きよくん? 誰?」

 皐月は泣きそうになって、一歩後ずさった。

「悟おじさんは」

「え? 兄さん?」

「自殺したって……」

「そうよ、もう十年前だけど。でも兄さんがどうしたの? あの人と皐月、ほとんど交流なかったはずでしょ?」

 誰も、白彦を、知らない。

 悟伯父は存在していても、皐月が知るあの悟伯父のことじゃない。

「ちょっと散歩してくる……法要までには戻るから……」

 かろうじてそれだけ伝えると、皐月は来たあぜ道を引き返し始めた。

「危ないから、あまり遠くまで一人で行かないでね」

 母の気遣う声が背中に届いて、白彦の言葉を思い出す。

「お母さん、依舞」

 二人がいつもと変わらない笑みで、皐月の次の言葉を待っている。

「心配、してくれて、ありがとう」

「やだ、急に改まってどうしたの?」

 母がおかしそうに依舞と顔を見合わせて笑った。皐月は泣き出しそうになる心を抑えて、なるべく自然に見えるように、笑みを浮かべた。

 きっと、自分は、戻れない。

「ちょっと……なんとなく、かな」

「変なの、お姉ちゃん。ねえ散歩ってどこまで?」

 無邪気な声を聞きながら、遠く、界隈で重々しい雰囲気で存在感を放つ本家を見て、それからあぜ道が続く先を遠く見やった。

 もう皐月には、そこしか残されていなかった。

「古宇里山の神社」

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