過去の記憶2

 四つ足の獣の子がおずおずと生の鶏肉に鼻面を近づけて匂いを嗅いだ。その小さな動きだけでも嬉しくて、獣の子がしばらく生肉を食べられるか確認している姿をじっと見つめた。皐月がしばらく唐揚げを我慢することを条件に母からもらった鶏のもも肉だ。それを目の前の動物が食べてくれるのだけを願った。

 頑なに檻にしがみついて獣の子をかばう皐月に根負けして、祖母が祖父を説得する形で捕えた獣を解放した。毛布にくるんだ檻を長屋門のそばに置いて、祖父は最後までしかめ面のままさっさと母屋へと戻ってしまった。

 毛布を取り払うと、白日のもとに獣の正体がさらされた。すらりとしたキツネの子だ。キツネの子は外の強い光に始めは戸惑って檻の中でぐるぐると回った。生肉を檻の前に置いて扉を開けても、警戒心をむき出しにして、檻から出てこようとはしなかった。

 獣の身体は、数日間檻の中に閉じ込められて薄汚れ、ストレスでぼさぼさだった。しかも何度も檻に体当たりしたらしく、檻の網にも毛にも赤黒い血の塊がこびりついている。それでも元は十分に白かったのが分かった。

 キツネの子が檻から出てくるまでその場でしゃがんで待ち続けて一時間、ようやく空腹に耐えかねたキツネが生肉に近づいたのを見て、皐月はホッとした。しきりに生肉の匂いを嗅いでは離れ、それでも去ることができるほど本能を抑えきれもしない姿は、やせ細り、幼い心にも哀れだったからだ。

 皐月はその場から動かず、その獣の様子を観察した。

 そのやせた体についている、ふっさりと太い尻尾に気づいたのはその時だった。祖父が言っていたように二本に裂けている。そのキツネを、祖父たちがお狐さんと呼んでいるのは幼い皐月には知るよしもなかった。ただ怪我でもなく、ごく自然に尾のつけ根から分かれていた。皐月にはそれが不思議で、それまで近づかずに我慢していた皐月は思わず一定の距離をあけるのを忘れて一歩踏み出した。

 それを敏感に悟って、獣は唸り声とともに素早く飛びのいた。その俊敏さに驚いて、皐月はその場に尻餅をついた。キツネは離れたところで威嚇するように、低く唸り声をあげ、毛を逆立ている。それでも放り出してしまった鶏肉を気にしている。それほどに空腹なのだ。

 皐月はキツネの子を刺激しないようにその場からゆっくり離れ、距離を置いて座りこんだ。黙って見ていると、キツネの子は皐月をちらりと見てから、おそるおそる鶏肉に近づき、咥えた。

 ようやく空腹を満たせる。

 獣の気持ちが手に取るように分かり、自分のことではないのに嬉しくなった皐月を、キツネの子は黄金の輝きをたたえた瞳でじっと見つめ、それから興味を失ったように向きを変えて田んぼのあぜ道に降りた。

「あ、待って……!」

 立ち上がって追いかけた時には、キツネの子は軽快に山の方へと走り去ろうとしていた。薄汚れた白にしか見えなかった毛が太陽の光の下では、銀色を帯びて煌めいた。

「今度は見つかっちゃダメだよーぅ」

 語尾がこだまするように反響した。叫んだ言葉が獣に届いたのかは知らない。

 でも幼い皐月は長屋門からただずっと、キツネの子が消えた山の方を見つめていた。

 これが皐月と白彦の最初の出会いだった。

 あのキツネの子がもつ金の瞳を白銀の毛並みを、今の皐月が見間違えるはずはなかった。土蔵の中で初めて出会ったあの時、白彦にとって皐月は初対面ではなかった。

 彼は人の姿をとって、皐月に、会いにきた。


 次に目の前をよぎった映像は、ごつごつした岩肌が視界いっぱいに広がるものだった。そして自分が幼い手をのばして掴んでいるものは、やはり同じ幼い手だった。崖の上で腹這いになって、皐月は泣きながら白彦の手を掴んでいた。遊びに夢中になって、下生えの草葉に隠された崖の縁を見誤ってしまった。

「絶対手を放しちゃダメだよ」

 切れ切れに言葉をかけると、焦りと泣き出しそうな顔で白彦は目で頷いた。

 でも限界は近かった。皐月のたった一本の腕は、白彦の幼い体を支えるにはひ弱すぎた。少しずつ白彦の体の重みで、皐月もまた崖の淵へとずり下がってきていた。

 一瞬視界に入った足下の崖の底には、細い川が見えた。落ちれば、擦り傷どころではなく、命すら危うい。

 どうすることもできないまま、白彦が苦しそうに呻いた。

「さ、皐月ちゃん、手、手を離して」

「やだ、きよくんが」

「でも、この、ままじゃ、二人とも」

 頭をかすかに振った。わずかな動きも支える右腕の痛みと、白彦の命とりになりそうで歯を食いしばった。

「僕、は、大丈夫、だから」

「だ、めな、の」

 白彦が手を離そうとしたのが分かり、「ダメ!」と叫んだ瞬間、手元の崖の一部がわずかに崩れた。皐月の体が支えを失って、一気に決壊したように崖を滑った。皐月の視界が一気にさがって、悲鳴とともに無我夢中で手をかいた。触れたものが何かも分からず掴み、大きく体が回転した。断崖の岩場から飛び出ている木の根を掴んでいた。それが、皐月と白彦の命綱だった。

「もう、もう、いいんだ! 手を離せ!」

 絶叫するような言葉に驚いた瞬間、白彦の手が抜けた。

「きよくん!」

 スローモーションを見ているように落下する白彦に、皐月は後先のことも考えず、木の根から手を離した。白彦が驚愕した顔で皐月を見上げているのが見えた。

 視界にうつる景色がいっそう鮮やかに見え、耳に届く音が、木々の呼吸さえも不思議なほどはっきり聞こえ、空気を満たす土や風や水の匂いが強くたちあがってきた。あらゆる神経が覚醒したかのようにはっきりしていた。

 両親のことも祖父母のことも、さらには恐怖すらも頭から消え、ただ、白彦に向かってまっすぐ飛びこんだ。

 白彦が間髪入れずに、皐月に手を伸ばした。その目が金色に光って、そして、耳が大きく尖り、ヒゲが伸び、顔の形が変わったのは、幻ではなかった。


 落下の途中で、気絶していたのだと思う。

 汗と土と木の匂いに包まれて、なんだか安心していたことを朧げに思い出しながら、皐月はふっと目を開けた。気づくと、心配と不安で顔をぐしゃぐしゃにした白彦が皐月をのぞきこんでいた。

「よかった……!」

 膝に揃えて置いた小さな拳に我慢しきれない涙がぽたぽたと落ちているのを見て、皐月は体を起こして白彦の顔をのぞきこんだ。

「きよくん、大丈夫?」

 ぐっとつまった顔で、白彦の唇が震えた。それを隠すようにうつむいても、その頰をこぼれ落ちる涙の量が増え、何かに耐えているように見えた。

「どっか痛い?」

 落ちたことがとても怖かったのかもしれない。そう思って、転んだ時にいつも母がしてくれるように、白彦の震える体を抱きしめた。びくりと強張ったその小さな背中をゆっくり、ぽんぽんと一定のリズムでたたいた。

「ママがね、こうすると怖いの、どっかいっちゃうんだよって。そういうのは、全部、心がしくしくしてるからなんだって」

 白彦が小さく息を吸い込んで、頷いた。

「ぼ……僕よりも、皐月ちゃん、皐月ちゃんは?」

 真っ赤な目で皐月を見た白彦に頭を振って「どこも痛くない」と答えた。

 見上げると、高い位置に崖が見え、横を川が流れている。今いる崖下の岩場に直接落ちたなら、明らかに生きてはいない。

 白彦をもう一度見た。

 濡れている頰もその瞳も、気を失う前に見た形の片鱗はなかった。じっと白彦の顔を見る皐月に、白彦は気まずそうに視線をそらした。

「……その、落ちる途中で、うまく、枝に引っかかったみたいで……」

 皐月が問いもしないのに、白彦は口の中で言い訳するように言って黙りこんだ。引っかかったという枝など見えない。なにより子どもでも、崖から落ちればかすり傷で済まないことくらいわかる。

 皐月は白彦の顔をまじまじと見て、首を傾げた。

「おヒゲ、生えてたね?」

 弾かれたように白彦が立ち上がった。そむけた顔は青ざめている。

「あ、あれは、違う、僕じゃなくて、ヒゲとか耳とか、そんなキツネみたいな」

 墓穴を掘ってることにも気づかないほどに動揺して、白彦は強く否定した。

「なんで、嘘つくの?」

 白彦にとって、そのことがどれだけ大きなことかも分からず、幼い皐月は嘘をつかれたことのショックにムッとしていた。

「なんで?」

 容赦なく畳み掛ける皐月に、白彦が呻くようにして言葉につまった。

 皐月は黙ったまま白彦を見つめ、白彦は激しく葛藤して黙っていた。その沈黙はあまりに静かで、白彦はついに耐えきれないように大きくため息をついた。それでも何かに迷っているように視線を皐月にとめたと思えば、横の川や崖の上にうろつかせたりした。怯えているような様子に、皐月は思い出しながら口を開いた。

「あの檻の中の子だよね?」

 白彦が表情を強張らせて、今度はしっかりと見た。

「……なん、で」

「よかった。ずっと心配してたんだよ。ちゃんとけがとか治ったかなあって。だからまた会えて嬉しい」

 嬉しさににっこり笑った皐月に、白彦は信じられないという顔をした。

「ま、待って。どうして? どうして分かるの?」

「分かるよ」

「なんで……」

「だって、同じだもん」

「同じ?」

「きよくんが人でもキツネでも、同じきよくんでしょ?」

 混乱していた白彦が軽く目を見張った。

「……僕、がこわくないの?」

「こわくない」

「ずっと人間のふりして、皐月ちゃんのこと騙してたんだよ?」

「でもきよくんはきよくんだよ。キツネでもなんでも、きよくんだよ」

「人間じゃないんだよ?」

「うん、それでもいいよ」

「悪いやつかもしれないんだよ?」

「そんなことないよ。知ってるもん、きよくん、おばあちゃんの手伝いたくさんしてるの。田んぼとかお台所とか、おばあちゃん、たすかってるって言ってた」

「あ、あれは、……その、いたずらした罰だよ」

 白彦の顔ににじむ喜びと照れ、そして戸惑い。その色を浮かべた金色の瞳の目元を、白彦は乱暴に腕で拭った。

「皐月ちゃん、すごいね」

「どうして?」

「人って理解できない存在は認めないんだと思ってた」

 白彦の言葉の意味が分からず、首を傾げた。白彦は「なんでもない」と頭を振ると、恥ずかしそうに笑った。

「僕、会えたのが皐月ちゃんで本当によかった」

「私もきよくんに会えてよかったよ?」

 その手をとって、改めて「助けてくれて、ありがとう」と笑った。

「皐月ちゃん……」

「さっきの、ひみつ?」

 白彦の顔をのぞきこむと、白彦はこくりと頷いた。

「じゃあ、ゆびきりげんまん」

 小指を差し出すと、白彦は不思議そうに皐月の小さな指を見つめた。ゆびきりげんまんが分からないのだと気づいて、手をとった。それから白彦の小指に小指を絡めた。

「ゆーびきーりげーんまん、うーそつーいたーらはーりせーんぼんのーます、ゆーびきった!」

 歌う間に、白彦の顔がみるみる強張った。

「さ、さ、皐月ちゃん、これ、この歌、ほんと?」

「うん、だから約束」

 無邪気な皐月に、白彦はショックを受けたような顔のまま結んだばかりの小指を見つめた。

「僕……も、約束する」

 そう言って決然とした表情で、皐月を見た。

「絶対、皐月ちゃんのこと、命にかえても守るよ」

 白彦が小指を差し出した。

「約束」

 白彦の表情の奥に隠された覚悟も分からず、皐月はただ嬉しくて素直に小指を差し出した。

「ゆーびきーりげーんまん、うーそつーいたーらはーりせーんぼんのーます、ゆーびきった!」

 白彦がにっこり笑った。その笑みはどこまでも晴れやかで、皐月は一瞬にしてはちきれそうになった喜びをもてあまして、思わず白彦に抱きついた。

「きよくん、だーいすき」

 恋愛の好きではなくても、幼い女の子のまっすぐな想いに白彦が真っ赤になって、口の中で何かもごもごと言った。

 聞き逃して、一歩離れた皐月は白彦の顔をのぞきこんだ。

「なんて言ったの?」

 白彦は真っ赤な顔を背けて、頭を振った。

「な、なんでもないっ!」

「そうなの?」

「う、……な、なんでもなく、ない……」

「きよくん?」

「ぼ、」

「ぼ?」

「僕も、その、す、好きだよ……」

 一生懸命言葉を押し出した白彦に、皐月はにこにこしながら大きく頷いて、手を差し出した。その手を白彦が、ためらって、それからしっかりと繋いだ。

 ここまでなら微笑ましい思い出ですんでいたかもしれない。でも記憶はそこで終わらなかった。

 皐月の手を繋いだまま、白彦は皐月の顔をのぞきこんで何かをつぶやいたように見えた。直後、幼い皐月はまるで突然眠りに落ちたかのように白彦の腕に崩れ落ちた。

「ごめん、掟は破れないんだ……。でも、約束したことは絶対守るよ……」

 どこか哀しみを滲ませたその言葉に、皐月はああ、と納得した。

 きっとこれまでずっと、白彦は人にはない超常的な力を使って、自分から白彦の正体にまつわることを隠してきていたのだ。知らなければ近づくこともなく、危険にさらされることもない。祖母と約束したことを守り、細心の注意を払って皐月にその世界に踏み込ませないようにしてきたのだろう。

 いつだって、祖母も白彦も、皐月のことを守ってくれている。

 そう思った時、ずきりと、胸の奥が疼いた。

 忘れさせられていた記憶もあるけれど、決して忘れられない記憶もある。

 痛みを堪えるように、目を閉じた。眼裏によみがえるのは、中学にあがったばかりの、あの、梅雨が明けぬ薄曇りの日。重たい空からは、今にも雨が落ちそうで、湿った匂いが辺りを覆っていたのを思い出す。祖母を傷つけ、そのまま別れることになったあの日を。


 北関東の山間で見る雨を含んだ重たい雲は、周りの鬱蒼とせりたってくる山々の沈んだ様子とともに、まるで皐月の気分をそのまま吸い取ったかのようだった。娯楽も何もないただの田舎は、そこにいるだけで息がつまり、苛立ちさえ募ってくる。それが喉の奥に刺さった棘のように抜けず、だからといって素直に出すこともできない。いや、どうやって感情を伝えていたのか、今は分からなくなってしまった。

「……皐月ちゃん、来るの久しぶりだよね」

 離れて座った白彦が、遠慮するように呟いた。会わないうちに大人びて、背丈もいつのまにか皐月を超えた白彦を無視したまま、皐月は廊下からせり出した縁台の地面に視線を落として、足でそばにあるサンダルをつついたり、蹴ったりしていた。

 白彦はそれきり口をつぐんで、縁台でスイカをしゃく、とかじった。

 居間では、母が祖母に離婚の報告をしている。きっと泣いたり怒ったり、忙しいに違いない。

「皐月ちゃんも食べない? すごく甘いよ。おばあちゃんがつくったんだよ」

 沈黙を守る皐月に、白彦がスイカののった盆をこちらに寄せた。ちらりと盆に視線を走らせると、鮮烈な赤が目を灼いた。それが目に痛くて、すぐにまた前を向いた。

「……どっか行った方がいい?」

 遠慮がちな声にあえて聞こえないフリをした。

 久しぶりに訪れた本家で、白彦は昔と変わらない笑顔で迎えてくれたのに、皐月はひどく醒めた態度を取っていた。不機嫌そのものの皐月に、白彦がうろたえていることも、すごく気を遣ってくれていることも分かってはいた。でも今はそれがとにかく煩わしかった。

 どうしたらいいのか迷う素振りにイラっとして「好きにすれば」とつっけんどんに呟いた。

「ごめん……、じゃあ隣、いてもいいかな?」

「だから、好きにすればって言ってんの!」

 思わず声を荒げ、それからそんな自分がたまらなく惨めになった。皐月は話しかけるなと言わんばかりに膝を抱え、その間に顔を埋めた。

 自分の中に蔓延している気分は、本家に来るよりもずっと前から、腹の底にヘドロのように澱んで暗澹としている。

 毎日毎日、針のむしろのような家の中で、普通に呼吸することさえままならない。なぜ自分ばかり、こんな思いをしなきゃならないのかという不満は、そのまま両親への不信感に繋がった。

 愛し合って、それで皐月と依舞が生まれたんじゃなかったか。「パパとママの愛の結晶だから、何よりも大事なんだよ」と繰り返されてきた言葉は嘘だったのか。

 騙されたような悔しさと鬱屈した怒りをもてあましていると、隣で立ち上がる気配を感じた。白彦が縁台を降りてどこかへと行ってしまったようだった。

 自分で突き放したのに少しだけ淋しくて、そう思う自分にまた不愉快になった。胸の奥が悪いものでぐちゃぐちゃしていた。

 耐えられないと思った。母の不機嫌さも、父の苦い顔も、依舞がベソをかく顔も、何もかも。

 その時、駆けてくる音がして、顔をあげた。

 白彦が息を弾ませて、皐月の前に立った。少し枝や葉で乱れた髪のまま、白彦は閉じあわせた両手をぐっと差し出した。

「……何?」

 不機嫌な声が出てしまう。

「いいから手、……両手、手のひら上に向けて揃えて」

 しばらく白彦の手を見つめた。皐月が手を差し出すまで、白彦はその場から動く気がないみたいだった。

 渋々両手を差し出した。その瞬間、白彦はパッと手を開いた。

 そこから落ちてきたのは、たくさんの四葉のクローバーと、色とりどりの花。そしてモンシロチョウやアゲハチョウなどの美しい蝶たちだった。

「わ……!」

 自由に空へと蝶たちが舞いあがる華やかな光景に目を奪われた。

 白彦はまた皐月の隣に座ると、蝶たちを皐月と同じように黙って視線で追っていた。

 蝶たちが屋敷の庭やその外のいずこへともなく姿を消して、皐月はようやく両手を見た。

 スミレやカンナやヒマワリや、いろんな花の中で、一番にもの言いたげな四葉のクローバー。

 そのクローバーを数えた。七つだ。

「四葉のクローバーって、持ってるとシアワセになれるんだって聞いたよ。もともと葉が4枚あるのって植物の世界じゃ珍しいから、分かる気がする。それだけあれば、皐月ちゃんシアワセになれるかな?」

 白彦の言葉に一瞬ポカンとして、意味が分かるとともに嬉しさがこみあげた。

 でもどうしてだろう。次の瞬間、どんどんどす黒い感情が、自分の知らない深い底から湧いてきて、皐月の内面を塗り潰した。

「少しは元気、出た?」

 穏やかな言葉に、皐月は顔を歪めた。その無邪気な気遣いが、ひどく憎らしくなった。両親の不仲が始まった頃から抑えてきた、澱んで腐敗しきった感情が、出口を求めてとぐろを巻いていた。

 踏みにじって、汚し、ぐちゃぐちゃにしてやりたい。

 はっきりそう思った時、無意識に険のある言葉が口をついて出た。

「当てつけ?」

「皐月ちゃ」

「自分は幸せだから、そうじゃない家の子を上から見下ろしてんの?」

 止められなかった。八つ当たりだと分かっていても、もうどうしようもなく。

「花とか蝶とか、もう子どもじゃないんだからさ、こんなので喜ぶと思ってんの、バカみたい」

 クラスや部活の友人たちの不満を漏らしながらも恵まれている顔が浮かんで、かき消えた。

 相手を傷つけたいだけの最低な言葉と感情が勢いを増して、皐月は両手に残っていた花を縁台に叩きつけるようにして立ち上がった。

 白彦は責める表情をちらとも見せず、ただ哀しげに手から落ちる花を目で追った。それがまた癇に障って、皐月はその場から乱暴に踵を返した。


 後悔や怒りや哀しさや、せめぎ合う感情をコントロールできず、その衝動が突き動かすままに、やたら部屋数の多い母屋の長い廊下を歩き回った。その無意味に多く見える部屋数さえも苛立ちに拍車をかけた。人に会いそうな居間や土間を避けているうちに、皐月はめったに入らない奥座敷へと迷いこんでいた。

 手当たり次第に襖やドアを開けてのぞくのも倦んだ頃、ひときわ大きそうな座敷の襖を開けた。その部屋はたくさんの書棚と古そうな書物が積み上がっている、いわば書斎のようだった。めったに人が訪れないのだろう。黴や埃、饐えた匂いが、中に入るのをためらわせた。

 その時、ごそごそと平積みされた書物の間が動いた。驚いて息を飲んで見ていると、祖母の姿が現れた。すぐに皐月に気づいて、祖母は老眼鏡をずりあげながら「こんなとこよっぐわがったなぁ?」と声をあげた。

「……別に」

 今は、誰の顔も見たくない。立ち去ろうとする皐月の気配を察した祖母は、腰をさすりながら中に入るよう促した。渋々一歩だけ座敷内に入り、皐月は襖近くの漆喰の壁に寄りかかった。

「この歳になるとダメだなあ。ちいせぇ文字が見えねえべ、仕事がちっともはかどらねえ」

 祖母はのんびりと言って、うず高い書物の波の間から出てきた。

「休憩いれっから、ちっとばあちゃんにつきあいな」

 姉さん被りしていたてぬぐいを外して、祖母は脇におしやっていたらしい座卓の上の茶櫃を開けた。茶を淹れようとしている祖母の様子に、手伝いたい気持ちと、今は誰とも口をききたくない気持ちが交互に頭を出して、結局皐月は身動きできずにじっとしていた。

「皐月、さっきお母さんからお父さんとのこと聞いたよ」

 どきりとして、祖母の表情を窺うように盗み見た。

「お母さん、いろいろ原因だの理由だの言ってたっけが、まあ、ああゆうもんはどっちが悪いとかでねえ。はじめっからそういう縁だったっつうことだ」

 祖母は、急須から二つ並べた湯のみにお茶を注ぎながら言った。

「縁ばっかりは、人がどうこうできるもんでねえっぺよ。これはもう私らの力及ばんとこで決められているもんだがら」

「……だから何?」長々とした話になりそうで、遮るように言葉を発した。

「んだから、ばあちゃんの時代さ違って、自由にできた分だけ、引き受けなきゃいけねえ代償もおおきかんべ」

 湯気があがる片方の湯のみを皐月のそばに置いて、祖母はその場に「よっこらせ」と腰を下ろして茶をすすった。

「東京じゃどうだかしんねえが、こういう土地じゃ口さがないもんもおるし、自然と肩身は狭くなる。辛いことの方が多いだろう。そういう時、最後に頼れんのは、血を分けた母娘だ。皐月にすりゃ、辛抱ばかりかもしらん。でも依舞はまだちいせえしな……。お母さんをしっかり支えられんのは皐月だけだ。だから助けてやってくれな」

 そう言って、祖母はまた茶をすすった。

 これから大変なのは、皐月と依舞を抱えて生活していかなくてはならない母だ。それは、言われなくても分かっている。そう言うつもりだった。母の苦労は、目に見えて分かっていると。でも口からこぼれた言葉は。

「……そんなの勝手じゃん」

 祖母が湯のみから顔をあげて、しわに埋もれた目の奥から皐月を見た。

「親の都合を子どもに押しつけて、辛抱してくれとか、助けてあげろとか、意味分かんない」

 こんなことを言いたいんじゃなかった。でも白彦の時といい、今といい、自分が自分じゃないみたいにイライラして、頭の中が沸騰して、真っ白になっていた。

「だいたいさ、おばあちゃんはいいよね、こんな大きな家に住んで、ただ人にああだこうだ言うだけなんだから。そんな人にさ、私の気持ちなんて分かりっこないし、指図もされたくない」

「皐月」

「お母さんとお父さんの喧嘩のたびに依舞は泣くし! 家ん中はどんどん汚くなるし! いつもどっちかが怒鳴って、近所のおばちゃんには哀れんだ目で見られるし! お弁当だって私! 洗濯だって茶碗洗いだって! 辛抱ならもうずっとしてきた!!」

「皐月、落ち着け、な? 茶ぁでも飲んで」

 立ち上がって近づいてこようとする祖母を避けるように、皐月は後ずさった。

「だいたいさ、私はお父さんとお母さんの愛の結晶だったんじゃないの!? ずっとそう言ってきたくせに!」

「皐月」

「結婚が失敗だったって言うなら、私はなんなの!? お母さんとお父さんの子どもに生まれたくて生まれたわけじゃないじゃん! いっそのこと死んじゃった方がマシだよ!」

「皐月!」

 祖母がひと際高く皐月の名を呼んで頰を張った。

「人の生き死にに関わることを勢いのまま口にすんじゃね!」

 痛みだけではなく、祖母が皐月を張ったことにショックを受けて、呆然と目の前で厳しい表情の祖母を見た。今まで祖母に手をあげられたことはなかった。

「……そんなの、そんなの私の勝手じゃん! 生きようが死のうが、私の命なんだから、私の自由でしょ!」

「皐月!! 命はその人だけのもんじゃねえ」

「もううっさいな! お母さんもお父さんも、勝手なことばかり!」

 激昂のおさまらない皐月の勢いに怯んだ祖母に、さらに追い打ちをかけるように口走った。

「おばあちゃんだって、お母さんのことばかりで、私がどんな気持ちで毎日過ごしてきたかなんて考えてくれないくせに! どうせ私は失敗した結婚の結果でしかないんだから!」

 そう叫ぶと、皐月は座敷を飛び出した。方角も分からないまま、感情にまかせて廊下を踏み抜くように早足で歩いた。毎日ぎすぎすして、神経を張りつめなくてはならないような家の中も、そうした両親も、そして逆に対極にあるようなこの本家ののんびりした雰囲気も、祖母も何もかも振り切って、今を抜け出したかった。

 でも今思えば、あの時ほんの少しでも冷静でいられたら、あのまま祖母と別れるなんてことはなかったろう。

 勢いのままカンナの鮮やかな花が咲く庭先まで走ってきた皐月は、あがった息をなだめるために膝に手をついた。じっとりと重い梅雨の空気が、背中や肩にのしかかってくるようだった。

 どこかに行ってしまいたくて、今いるここ以外のどこにも行けなかった。そんな自分が、ますます惨めだった。崩れるようにその場にうずくまった。

「もうやだ……」

 なにより嫌なのは自分だった。八つ当たりでしか、今の自分を保てない、そんな自分が。

 その時、背後から地面を踏みしめる音が聞こえてきて、皐月は全身の神経を尖らせた。

「……皐月ちゃん」

 白彦の手のひらが、そっと背中に触れた。

 学校のクラスメイトのもの言わぬ同情の目が思い出された。頭もいい、スポーツもできる。でもシングルマザーらしいよ。そう囁かれていたことなどとうに知っていた。

 皐月は身を守るように頑なに体を縮こめた。

「大丈夫だよ、いつかよくなる」

 上から降ってきた声は、言い聞かせるように穏やかだった。だからこそ逆に、自分の汚さや醜さが引き立てられて、苦しさのあまり吐き気すら覚えた。

「抑えなくていい」

 白彦は静かに諭すようにさらに言葉を重ねた。

「吐き出していいんだ」

 涼しい風が吹いて、庭の草木がこすれあう音がした。

「僕が、受け止めるから……」

 囁きに近い声で、白彦はそう言うと口をつぐんだ。

 背中から伝わる温度に解かれるようにして、抑えていた嗚咽がもれて、大きくしゃくりあげた。誰かにそう言ってほしかったと気づいた時には、涙がどっとあふれ、うわあっと泣き声が喉からほとばしっていた。自分でももてあましていたあらゆる感情をのせて、皐月は、ただその場で泣き続けた。


「……ごめんね」

 泣き止んだ後の恥ずかしさよりも、今の皐月が伝えられる精一杯の言葉をずっとそばについていてくれた白彦に告げた。

「謝ることないよ」

 ただ静かに答えた隣を、その日初めて見あげた。

 庭を見つめる横顔は、まるで月のように冴え冴えと張りつめて、どこか孤高の気高さが滲み出ていた。幼い頃は無邪気で時々意地悪で、でもいつだって優しい目で皐月を見つめた。その白彦とは違う横顔に、胸を突かれた。

「やっぱりさ、スイカ、食べない?」

 皐月の視線にすぐ気づいて振り向いた白彦の顔は、すぐ見慣れたものに戻っていた。

「さっきの縁台で待ってて」

 皐月の返事も待たずに、白彦は立ち上がって母屋の方に走っていく。

 皐月はこわばった体をほぐすように立ち上がって、縁側に歩いていった。縁台に腰かけると、どっと疲れが出て、俯いた。

 このまま消えてしまいたいと、ふとそう思った時、名前を呼ぶ声がしてのろのろと顔をあげた。スイカを乗せた盆を手に白彦が息を弾ませて立っている。

「皐月ちゃんには、絶対食べてもらいたかったんだ。おばあちゃんと僕がつくったスイカ」

 祖母という単語に、刺すような痛みが胸の奥に走った。

「すごく甘くできたんだよ。食べたらきっと元気になれる。スイカ自身もね、皐月ちゃんに食べてもらえる時を待ってたんだから」

 白彦はまた隣にするすると座ると、スイカにかじりついた。変なことを言うと頭の隅で思いながら、その咀嚼音につられて、皐月も受けとった真っ赤な果肉の、三角の頂点に歯を立てた。

 滴り落ちるほどの果汁と爽やかな甘さが口の中に広がった。夏の日陰を食べているような咀嚼音が響くたび、泣いて空っぽになった皐月の気持ちが、少しずつ潤っていくみたいだった。

 それと同時にまた、ぽろぽろと涙がこぼれてきて、口に入った。そのせいで、甘いのかしょっぱいのか分からなくなった。

「大丈夫だよ」

 誰に言うとでもない小さな呟きが耳に届いた。

「大丈夫。そばに、いるよ」

 そう呟いた白彦は、スイカを、しゃく、とかじった。

 いつか、この未熟さも、無力さも、感情の醜さもなにもかも、人を傷つけずに折り合える時がくるのだろうか。

 小さく頷いて、皐月は流れる涙を拭うこともせずにスイカをかじった。

 お互いのスイカをかじる咀嚼音だけが、延々と夏の隙間を縫うように蒸した空気の中に流れていった。


 結局その後、祖母に会うことはなかった。謝るきっかけを探すうちに祖母は外出し、その状態のまま私は本家を後にすることになったからだ。長屋門の外で、皐月と依舞が乗る車が去るまでずっと見送っていた白彦のほかに、皐月たち三人を見送る人はなかったと思う。

 一言、なんですぐに謝りに行かなかったかと、今はただ後悔ばかりが先に立つ。両親離婚後の生活の忙しさにまぎれて、祖母と顔を合わせることがあってもうまく言い出せないまま機会を逃し続け、時ばかりが淡々と過ぎた。

 大学生にもになれば自分一人で訪れることもできただろう。なのに皐月はそうしなかった。歳月が祖母との間を隔てれば隔てるほどに、皐月の足は本家に向かなくなった。糊塗して隠してきた自分の醜さをさらけだした白彦にも会わせる顔がなかった。勉強が、卒論が、仕事が、そう言い訳にして向き合わなくなった。

 いつかまた祖母に謝る時が訪れるにちがいない。そんな楽観を打ち砕いたのは、母が震える声で寄越した一本の電話からだった。

 祖母の訃報だった。

 病気とか危篤とか、そんな前触れもなく、本当に突然逝ってしまった。祖母に謝る機会を永遠に失ってしまったのだと気づいた瞬間だった。

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