正体

 品川にほど近い小さな商店が軒を連ねる駅で降り、マンションに向かった。自宅に寄らず仕事に向かったため、スーツケースが朝よりも遥かに重たく感じた。

 有休であけていた事務の仕事は思いのほか溜まっていて、ひたすら作業に徹しただけならばよかった。でも退社後に、電話で陽平と軽く口論になったのも、消耗した原因の一つだった。会いたいという誘いに応える余裕がなく、皐月があっさり断ったのが癇に障ったのだろう。

 すでに一年半交際してきた陽平は、同じ社内で、花形の営業部に所属している。遊び人の噂を耳にしていたことや男性との交際に消極的だったこともあって、最初は適当な理由をつけて丁重に断っていた。それでも別部署の垣根をものともせず、何度も口説かれたのに根負けし、押し切られる形でつきあい始めた。やがて陽平の浮気性が表に現れてきた時には、すでに情がうつっていた。その度に別れ話が浮上して、別れたい皐月と別れたくない陽平との間で話は平行線をたどり続け、ずるずると続いてきた。

 でもそれは、皐月だけでなく陽平にとっても不幸なことでしかない。

「さっきはごめんなさい。改めて、明日の夜、新橋のいつもの待ち合わせ場所に十八時半に。お話したいことがあります」

 エレベーターで自宅のある八階にあがりながら、陽平にメッセージを送った。玄関ドアの並ぶ外廊下に足を踏み出すと、吹き抜ける風が髪を揺らした。周りにあまり高い建物がないため見晴らしはいい。自宅を不在にして帰宅した時、ここからの景色を見ると、帰ってきた、という気がしてしていたはずなのに、この日はなぜかひとかけらの感慨も起きなかった。いつも見慣れているはずの夜を照らす店や看板の瞬く明かりさえも、なぜか心許ない。

 むしろあの古宇里山が吐き出したかのような夜の方がぬめりとした質感があった気がする。

 そんなふうに思うことが不思議でもあり、でも本家にいた時間を挟んだことで当然の変化にも思えた。

 鍵を出して玄関の扉を開けると、不在にしていた部屋のこもった空気がまとわりついてきた。

 スーツケースを置いて、リビングのドアを開けた。

 外のネオンがレースのカーテンを通して、暗い部屋に明かりを投げている。青く映し出された室内は静まり返っていて、どこか冷たい。

 ふとレースのカーテンがゆらりと揺れ、ハッとベランダの方に目をやった。

 カーテンの向こうに、ぼんやりと掴み所がない茫洋さで、小さな影。

 肌が粟立つ感覚は、つい最近も覚えた。

「……きよくん」

 呼びかけると輪郭がはっきりしだして、狐面をつけた男の子姿の白彦になった。灯りをつけないまま、小さな白彦に向き合った。レースのカーテンの向こうから滲み出てきたように、どこかまだあわいにいるような不安定さが、不吉さをかきたてた。

 灯りをつけるのをやめ、小さな白彦に向き合う。

「あれから、きよくんは大丈夫? ちゃんとこっちの世界に帰ってきているの?」

 私の問いかけに白彦は、かすかに頷いたようだった。そして、無言で外を指さした。

「外? 何かあるの?」

 近づくと、小さな白彦の格好はひどく汚れ、ボロボロになっていることに気づいた。草履はすでに鼻緒の部分がすり切れ、狐面も塗りが剥げたり角が欠けてしまっている。よく見れば、その狐面の下の顔も擦り傷が見え隠れし、露出した腕も足も傷だらけだった。

 その悲惨な様子に、不安が膨らみ、気持ちがざわついた。

「どうしたの、その傷。何があったの? 手当しないと」

 小さな白彦は後ずさって頭を振った。そしてもう一度、外を指さした。

「きよくん?」

 一歩近づくと、小さな白彦は、同じ分だけ一歩退いた。仕方なく距離を保って指し示す方角に視線を向けた。

「かえってきて」白彦は小さな口を開いて、たった一言、そう押し出すように囁くと一陣の風を残して消えた。

 揺れるカーテンのその先、あの子が指さしていた方角は、古宇里山がそびえ、祖父母の屋敷が建つ北関東だ。山に囲まれ、豊かな田んぼが広がる奥田舎。今もなお目に見えないもの達と人とがその住処を隣にしあう土地。

 目が覚めるような、爽やかで心地いい風を思い出す。

 カーテンを開けて、ベランダに出て大きく深呼吸した。

 ざらついた空気が、肺の中で異物のようにわだかまった。眼下に広がるネオンが、目を突き刺すようにぎらついている。

 ここは違う。

 そうはっきり悟った。

 皐月の心と体が、惹かれるところ。それは、あの場所だった。身体の輪郭が溶けて、そこにある営みに同化するように呼吸できる、あの地だ。人だけではない、人がその存在さえ知らぬいきものが闇の間で呼吸している世界だ。

 まるで泉が湧き出すように、気持ちがあふれ、涙となって皐月の頬を伝い落ちた。

 帰りたい。

 白彦が、生きる地に。

 涙をぬぐって、まっすぐ本家のある方角へ顔をあげた。

「待ってて。きっと、帰るから」


 身体はひどく疲れているのに、頭は冴え渡っていた。ベッドの上で何度目かの寝返りを打ち、目を開けた。見慣れた自分の部屋の天井を見つめ、何度となく反芻した想いを再確認する。

 あの地に根を下ろし、できることなら、白彦と一緒に同じものを見て笑い、泣き、怒り、そうして同じ場所で同じ時間を重ねていきたい。

 帰ってきてと望んだ小さな白彦の言葉通り、帰るのだ。誰が決めたのでもなく、皐月自身の選択として、住み慣れた東京を離れようと決めていた。皐月にはとても大きな決断だ。仕事のことも、築いてきた地元の友人たちのことも、この町での生活のことも、すべてが変わるだろう。そこに不安がないわけではない。でも、皐月の心が、幸せへの道しるべとしてそう示していた。

 スマホをとりあげると、時刻は午前二時を指している。

 眠らないと明日に差し障りがあると思っても、まだ目は冴えている。

 気持ちは決まったけれど、一つ気がかりなのは、小さな白彦の姿だった。まるで何かと戦ったかのように傷だらけの姿は、そのまま、会えていない白彦の姿に重なった。

 今朝依舞からもらった白彦の家の電話番号には、日中すでにかけていた。留守番電話に繋がってしまい、結局白彦本人に繋がることはなかった。電話番号をスマホの画面に呼び出して、そのまま額におし当てた。

 白彦は、戻ると約束してくれた。会いたいと願えば、会いにくると言っていた。

 何も心配することはない。

 そう分かっているのに、体の疲れに引きずられるようにして不安が足元に押し寄せているような気がした。白彦を信じていないわけではない。自分の心が弱いだけだ。

「……っもう!」

 気持ちを一新させるためにキッチンにカフェインレスのホットティーを飲みに体を起こしてベッドから降りた。

 その瞬間、耳元をひゅ、と何かが通り過ぎた気がした。顔をあげたとたん、間抜けな声をつい漏らした。

 足元に、地上が広がっている。

「うそ」

 スマホをもったまま、皐月は冷たい風に体をさらして、マンションの外の空に浮いていた。横の方にマンションの自分の部屋があり、カーテン越しに、スマホを握りしめたまま横になっている自分の姿が見えた。

 ベッドに皐月が寝ている。それを自分が見ている。

「なに、これ……」

 幼い皐月を、大人になった自分が見ていたあの時のようだった。現実感の希薄な、その奇妙さはどこか胃の腑を落ち着かなくさせた。

 まだ繁華街は起きていて、地平までところどころ白や赤や黄の点灯が星々のように瞬いている。空には、薄く雲がたなびき、その灰青色の向こうに群青の闇が広がる。本物の星はちらちらと瞬くけれど、月はない。

 皐月を巻くように、風が耳元で音を立てた。それに混じって、呼ばれた気がした。目を細めて、地平のかなたを見透かすように見つめた。

 奥の、もっと奥の、山の影さえ見えない遥か向こう。

 ひゅうううっと、風が吹いてくる。

 あの田んぼを渡る風に似た匂いを運んでくる。

 耳を澄ます。

 冷たい風に乗って、篠笛の音が聞こえてくる。

 あの、狐の嫁入りの。

 呼んでいる。

 その方角に体を傾けると、自然と体が前に進んだ。

 夢だからなのか、自分の思うままに夜空を滑るように進んだ。上空数百メートルも上でも不思議と怖くない。ただ気持ちが急いて、その気持ちに比例するように周りの景色は秒速で過ぎ、地上の原色が無数の彗星の尾を引いて流れていった。やがてその彗星もほとんど見えなくなり、肌寒いけれど凍えるほどでもなく、気温がわずかに低くなった。

 山が多くなり、黒い頂が折り重なるように増えてくると、笛の音もはっきりと耳に届くようになっていた。

 山々に囲まれて、うっすら明るく光っているところがある。

 そこに目を向けた時、強い視線を感じた。

「よく来た」

 しゃがれた太い声が響いて、皐月の体が強く地上に引っ張られた。バランスを崩して、落ちる、と恐怖に体がこわばった直後、目の前に苔むした石段が現れた。

 いつのまにか地面に倒れていた。まただ、と思いながら、頭も体もなんともないのは、やはり夢だからだろうと言い聞かせた。脈打つ心臓を宥めながら体を起こして、辺りを見回した。

 藪や笹がなかば崩れつつある石段の両脇から鬱蒼とせり出し、重たげな枝葉で空を覆い尽くさんばかりに広げた大木が黒々と威圧するように天に伸びている。その向こうには、都会では決して見られない、降るほどの星々が強く瞬いている。でも不思議と辺りはほの明るい。あれだけ聞こえていた笛の音はぴたりと止んで、風が木々を揺らす音しか落ちてこない。

 皐月は自分がどこにいるのか、気づいた。

 古宇里山の、あの荒れ果てた社だ。

 なぜここにいるのか分からない。でも進まなくてはいけない気がした。この先の何かが、皐月を引き寄せる。

 立ち上がって苔で滑らないように足をかけ、石段を慎重に登った。

 元は朱塗りだったらしい鳥居が、みすぼらしい姿をさらして立っている。

 その先にも、鳥居があった。その先にも、その先にも、その先にも。

 幾重にも参道を包むようにつながっていく鳥居。礎石の部分も崩れ、かろうじて持ちこたえている鳥居には、もう読み取ることのできない名前が刻まれている。

 はるか昔から続く、集落で暮らす者の祈りの形。奉納鳥居だ。どれだけ昔から奉納されてきたのか、参道の範囲だけでは建ちきらず、ゆるやかに参道に沿うようにして鳥居の道が何本かできている。

 中央の参道に続く鳥居の下を、異界に向かうような心地で皐月は歩んだ。

 あまりにも果てがないように連なる鳥居に、自分の来た道と行く道が歪むように目眩を覚えた。でも立ち止まったら抜け出せず、この夢からも目覚められない気がして、必死で足を動かした。

 ようやく出口のように淡い光が見えて、鳥居の群れを抜けた。ホッと息をつく間もなく、そこには、磨耗して原型は留めていないけれど、巨大な狛犬が参道を守護するように威圧して並んでいた。いや狛犬ではなく、狛狐だ。しかも太く大きな尾が、何本かに裂けている独特の造形をしている。その先に雛壇状に石垣が築かれ、その上に質素な拝殿が建っていた。神社の建築様式は判断できない。集会所と間違えてしまいそうな、あまりに簡素な姿だ。

 賽銭箱と色褪せた五色の布を垂らした鈴を見つけて、皐月は手を合わせようと拝殿の階段に足をかけた時、ふいに拝殿の扉が開いた。

「よくぞ、参った」

 そこには見知った顔が立っていた。

「……悟おじさん……!」

 和服の袖に手をいれ、唇の端を歪めて皐月を見下ろしている。どこか不遜な雰囲気からはひどく気味の悪い禍々しさが滲み出ていて、何がというわけではなく、本能的に一歩後ずさった。

 ぎしりと、拝殿の階段が音を立てる。

 夢なのにやけにリアルだ。

「あの、おじさん……」

「そこは寒かろう。社の中へ参られよ」

 いつもの訛りもない。誘うように丁寧でも、その口調は恐ろしいほどに尊大だった。

 悟伯父は目を細めて、手を差し伸べた。白彦と同じ、しなやかに長い指は、明らかに農業に携わる者の手ではない。

「白彦を探しておるのであろう?」

 さらに悟伯父の目が弓のように細くなった。その奥にある瞳は、笑ってはいない。むしろ獰猛に獲物を見定め、狙うような鋭さが宿る。

「白彦ならこの奥にいる」

 そう言われても、どこか信じきれないうすら寒さが漂う。

「さあ。さあさあ」

 悟伯父が一歩前に出た。ほんの一歩に過ぎないのに、伯父の威圧感が一気に増した。今目の前にしている姿よりもはるかに大きく見えて、皐月はまた一歩後ずさった。

 白彦がいるという拝殿の奥は暗く、何も見えない。

「何をためらう?」

 ためらう理由に根拠はない。でも、さっきから頭の隅で警鐘が鳴り響いている。その手をとってはいけない、と。

「どうしたのだ、白彦が待ちくたびれている」

 奥にいるなら、白彦はなぜ、姿を見せてくれないのだろう。

 皐月が知る白彦が、そこにいたなら、きっとそうする。

 泣き出しそうになるのをこらえた。

 目の前の伯父が、怖い。

 皐月がまた一歩さらに退くと、悟伯父は「ききわけのない」とゆるく頭を振った。そして次に顔を上げた瞬間、カッと目を見開いてその場から跳躍した。夜叉のような形相に豹変した悟伯父が、皐月との間にある賽銭箱と階段を軽々と飛び越え。

 声を上げる間もなかった。

 喉笛を片手でわし掴まれ、皐月の呼吸が一瞬にしてつまった。

「ぉ、じ……」顔がはち切れるようなうっ血を感じて、痛みと苦しさに相手の腕を引き剥がそうと爪を立てた。頭の中はパニックと恐怖に乱れたまま、意識が朦朧としていく。

「お前に否やはないのだよ」

 そう吐き捨て、悟伯父は、いや伯父の皮をかぶった何者かは皐月を突き放した。勢いのまま地面に転がり、大きく咳き込んだ。意志とは関係なく涙がこぼれ、急に解放された喉の奥が空気を求めてか細く音を立てた。必死で酸素を求めて喘ぐ皐月の上に影が落ちた。見上げると、金色の虹彩に輝く瞳をした悟伯父だった者が、大きく口を裂いて笑いながら見下ろしていた。

「白彦のためと耐えておったが……むしろ、始めからこうすべきだった。お前の魂魄さえこの世にのうなれば、白彦も元に戻ろう」

 悲鳴も出なければ、指先ひとつさえも動かせなかった。

 その口にはぞろりと人間のではない尖った牙が並び、その隙間からは一筋、よだれがこぼれ落ちた。伸びてくる手には、皮膚など容易に切り裂けそうな爪が生えている。

 刻々と、伯父だった者に、狐の耳が生え、鼻面が伸び、ヒゲがのびていく。それはまるでスローでコマ送りされる映画を見ているようだった。夢だからという言い訳がまだ頭のどこかに残っていたからかもしれない。死への実感なんてわかず、皐月はただ他人事のように異形の者の変化する姿を茫然と見上げていた。

 あの、狐の嫁入りの列に並んでいた者だった。

 伯父の片鱗を残しつつも人ではない存在が、皐月の顎をわし掴んで、大きな口を開けた。頬に食い込んだ爪が、皮膚を深く傷つけたのが分かった。生温かいものが、頬を伝っている。その血の匂いが、目の前の異形の者の笑みを深くし、涎をさらにあふれさせた。

 白彦に、会えぬまま、自分は、喰われる、のか。

 恐怖が背筋を貫いた。喰われることより、白彦に会えないことへの恐怖。

「きよくん!!!」

 絶叫した時。

「やめろ!」

 激しい怒号が降ってきて、体に衝撃を受けた。直後、鈍くぶつかる音と木が大きく裂ける音が響いた。耳をつんざく轟音に訳が分からぬまま目を開けると、すぐ目の前にカッターシャツのすらりとした背中があった。

 その向こうで拝殿の階段が割れ、埃や木屑が煙のように立ち昇っている。

「きよくん!」

「呼ぶの、遅い」

 怒ったように、白彦が背中を向けたまま言った。

「っだ、だって……っ!」

 安堵のあまり、涙がこぼれそうになる。

「……嘘だよ、ごめん」

 振り向いた白彦が、泣きそうな顔の皐月を見て、それから血が流れる頬に、今度は白彦が泣きそうな顔をした。

「……傷、……痛い思いさせた」

 不意に白彦が顔を寄せて、驚く間もなく、皐月の頬の傷を素早く舐めた。一瞬の出来事に、声を失って硬直している皐月に、白彦は少し照れたように早口で囁いた。

「舐めると治りが早いから」

 その時、拝殿が地響きのような音とともに破裂した。顔を緊張にさっと強張らせて、白彦は素早く皐月をその破片からかばった。木が裂けて粉塵とともに舞い上がる中、拝殿に向かって身構える。無惨に壊れた拝殿の瓦礫の中から、人影が揺らぐようにして立ち上がった。白彦の背が緊張に張りつめている。

「彼女の魂魄が欲しいなら、僕が相手になる」

「よかろう」

 低く唸るような声が地面を伝わるようにして届いた。その直後、目の前にいたはずの白彦の背中がかき消え、再び轟音が背後から響いた。振り返ると、並ぶ赤い鳥居がドミノのようになぎ倒され、その奥で白彦が片膝をついていた。

「きよくん!」

「人の姿では不便であろうに。なぜ戻らぬ」

 伯父だった異形の狐が白彦の方に歩いていく。

「なにか、それともここまできて、いまさらこの娘に正体がバレるのに臆したか」

 異形の狐が手をあげて振り下ろした。白彦の周囲の鳥居が雷でも落ちたかのように激しい音をたてて裂けた。

「黙れ」

 立ちこめる土埃と粉塵の中で白彦がゆらりと立ち上がった。

「女々しいのう……。希代の力を蓄え、果ては数千年も生きられようというその命を、たかが小娘ひとりのためにむざむざ捨てようとは」

 また異形の狐が手を振り下ろした。鳥居もその周りの木々も木っ端みじんに吹き飛び、粉塵がもうもうと木々よりも高く立ちのぼった。その中でよろめく身を支え、白彦が立っている。

「山の神への捧げ物などという蛮習がため両親を人間に嬲り殺され、自らも討たれんとしていたに、なぜそうも肩入れする?」

「黙れ!」

「あの萎びた人間の老婆が、真実この世に別れる日がくれば、あの家は守りを失った抜け殻よ。お前が力を出せば、意のままにできよう?」

 異形の狐の言葉に、眉をひそめた。

 老婆、つまりそれは祖母のことに違いない。

「……おばあちゃんが、あの家を守っていたってこと……?」

 思わず呟いた言葉に、異形の狐がちらりと皐月に目をやった。

「なぜ我があの家にたやすく侵入できた?」

 くぐもった笑いを漏らしながら、異形の狐が大きく腕を振りかぶった。直後、白彦の周りの木々が弾け飛んだ。

「のう白彦。己の本能に従え。喰らえ。お前が優しく請えば、その小娘、魂魄を差し出しも、その身を捧げもしよう」

「黙れええツ」

 身をかばっていた白彦が断末魔のように叫び、人間には不可能なほどに高く跳躍した。

 悟伯父だった異形の狐と同じ、金色の目が見えた。一瞬見えたその目が、ひどく哀しみに満ちていて、ハッと胸を打たれた瞬間、轟音が響き渡った。心臓を芯から縮ませるほどの音に首をすくめた。たち昇る土埃に激しく咳き込んだ。

 周りが白く煙り、様子が分からない。

 どこからともなく、あざけるような笑いが聴こえた。慌てて周囲を警戒した。

「あの家は、この先傾くだけ。祈りの要を失った家など、朽ちるだけよ」

「そんなことない! 風子おばさんが受け継いだもの!」

「笑止! 形さえも理解しておらぬ哀れな傀儡には勤まらぬ。あの家は白彦を受け入れた時点で、綻び始めておった。賢しらに情などを振りかざしたツケがこれよ」

 風が逆巻いて楽しげな哄笑が響き渡った。

「おばあちゃんのことを悪く言う権利なぞあなたにはない」

 白彦の低い声が響いて、笑いがやんだ。

 視界が少しずつ輪郭を取り戻しはじめる。物が落ちる音がして、ゆらりと立ち上がった影が見えた。

 白彦だった。洋服はボロボロに裂け、爆風で飛ばされた鋭い木片が皮膚を無数に裂いて、至るところから血が流れている。

 明らかに白彦は、劣勢だった。

 続くと信じていたものが突然断ち切られる恐怖が蘇った。祖母を喪ったばかりの今、大切なものを二度も喪うかもしれない恐怖は、自分の無力さも愚かさも忘れさせた。人ではない者らの間に割って入る危険も忘れ、皐月は弾かれたように白彦の元に駆けた。

 自分に何ができるわけでもないけれど、守られているばかりでは、この想いさえ喪ってしまう。白彦が自分の想いに忠実に皐月を守るならば、皐月もまた、自分の想いを貫きたい。

 倒れた鳥居や落ちた枝葉をつまずきそうになりながら、自分めがけて駆けてくる皐月に驚いて、白彦は「来るな!」と怒鳴った。

「嫌!」間髪入れずに否をつきつけた皐月に、白彦が一瞬状況も忘れて言葉を失った。皐月は白彦の胸にとびこむようにして、その服を掴んだ。

「私だって、きよくんを守りたい」

 白彦を背にして、異形の狐に向き直った。

「あなた達はなんなの? 私が目的なの?」

「皐月ちゃん!」

「私を喰らえば満足してもらえるの!?」

「何を……、何を、言っているんだ!」

 激高した白彦が後ろから皐月の肩をつかんで、のけようとする。それを振り払って、白彦を睨みつけた。美しい金色の目と、まっすぐ視線が結びつく。

「狐の嫁入り」

 白彦が表情を強張らせた。

「悟おじさんも、……きよくんも、人じゃなかった」

「皐月ちゃん、違う、いやそうじゃなくて、それは」

「ううん、否定も嫌もない。私にはきよくんが、人じゃなくたって構わないもの」

 妖怪でも、動物でも、異形でも、なんでも。

 白彦が大きく目を見張った。

 その驚愕と喜びと、それからわずかな淋しさの入り交じった白彦の顔に、ふっと何かが記憶の底からわきあがってきた。この感じに、覚えがあった。

「きよくんが人じゃなくてもいい」

 同じことを白彦に告げた時が、かつてあった。

 いつだったか。

「きよくんは、きよくんだから」

 皐月は笑みを浮かべて、白彦の顔に手をのばしてふれた。呆然とした風で白彦は視線をさまよわせ、それから不意に泣き出しそうに顔を歪めた。

「皐月ちゃん、君は昔も……」

「ごめんね、ずっと気づけなくて。きよくんは、私が知らないところで、いつも守ってくれてた」

 そう言った時、白彦がふいに「ぐあっ」と大きく呻いてのけぞった。

「きよくん!」

 白彦はそのまま地面にどっと倒れ、表情を歪めて胸をかきむしった。皐月は青ざめて瞬時に白彦の体を覆うように膝をついた。

「きよくん! 痛いの、どうしたの?!」

「人じゃなくて構わぬと? なら見せてみよ」

 嘲笑する声にハッと振り返ると、異形の狐が目を細めて笑っていた。その体の背後に、ふっさりと三本の太く大きな尾がゆらりと揺れている。

「う、ぐ……っ、て、てん、ぱく」

 白彦が四肢をつっぱってのたうち、苦しげに土に爪をたてた。

「きよくん!」

 脂汗をたらしながら、白彦が呻く。皐月はどうすることもできず、震える腕でその体を抱きしめた。

「お願い、やめて!」

 白彦が荒く小刻みに息をつき、皐月がふれる腕をもぎはなした。

「きよくん!?」

「はな、れ、ろ。僕か、ら」

 体を苛む苦しみから逃れようとしながら、白彦は切れ切れに言葉を口の端から押し出し、皐月を遠ざけようとした。

「離れ、るんだ。僕、は。ぐ……うあ、あ、あ、あああっ」

 びくんと大きく白彦が体を弓なりにのけぞらせた。その金の瞳がひどく揺れ、瞳孔が開いては閉じを繰り返し、そして大きく見開かれた。それを合図にしたように、ゆっくりその顔を、その手足を、その体を変化させていく。

「き、よくん……」茫然とする皐月の目の前で、耳が尖り、鼻やヒゲが伸び、口が横に裂けた。

「う、……が、あっ」苦しげに開けたその口に、ぞろりと牙が生えている。のたうつ白彦の手足は、人のものではない鋭い爪がのびていた。

「その姿が、白彦の本性よ」

 白銀の毛並みを纏って、白彦は人から四つ足で地を踏みしめる大きな狐へと変貌していた。そしてその尾は、悟伯父だった異形の狐と同じ三本。太くゆらりと揺れていた。

「あ……」

 あまりの衝撃に、皐月は言葉を失って獣となった白彦を見上げた。言葉で知っているのと、目の前で実際を見せられるのでは、違う。でもその一瞬の沈黙が、皐月を見下ろす白彦の金の瞳を揺らした。激しい怯えと恐怖が、浮かんでいる。

 その瞬間、皐月は白彦が、逃げたいのだと気づいた。

 自分の本当の姿を見せたくはなかったのだと、恥じているのだと気づいた。

 どうあっても、皐月と白彦は、根本的に存在が違っていた。

 ゆらりと三本の尾を揺らし、白彦は皐月から目をそらすと、皐月を異形の狐の目から隠した。

「しょせん、言葉かぎりよ。人にお前の本性は受け入れられぬ」

 哀れむような声に、白彦は人よりもはるかに大きな体の毛並みを逆立てたまま、黙って皐月に背を向けている。

 例え自分の身を捨ててでも、白彦は、皐月を守る。例え皐月が獣に変化した白彦を拒絶したところで、彼はそれを貫くだろう。

 それが、白彦だ。

 人の魂魄を喰らって力を得るというのが異形の狐の、いやお狐さんの本質だ。でも白彦は獣の姿であっても皐月をかばう。白彦も、あの狐面の男の子も、この伯父だった者と変わらないお狐さんなのにも関わらず。いつだって、皐月を喰らう機会などそれこそ無数にあったのにも関わらず。

 白彦は、捕食対象としてではなく皐月を守る。守り続けると、そう決めている。

 人には人の理がある。

 白彦たちには白彦たちの。

 彼らが人の魂を喰らうことも、理なのだ。それを曲げれば、それ相応の因果が白彦を縛る。

 本性を現しながらも、そうしない白彦にどんな苦しみが降り掛かるのか、皐月には分からない。

 皐月は流れ落ちる涙をぬぐうこともなく、目の前の汚れてごわついた白銀の毛に手をのばした。

「きよくん」

 皐月は白彦が震えるのも構わず、手をあたたかな毛皮にうめ、その奥の肌に触れた。そして静かに自分の身をその獣の体に寄せた。

 獣の毛が顔に触れ、皐月はそのぬくもりを確かめるように頬をすりよせた。

「きよくんは、きよくんだよ。どんな姿をしていてもきよくんなの……」

 するりと白彦が体を翻して、金の瞳でもの問いたげに皐月を見つめた。皐月はその瞳をまっすぐに見つめかえした。

「今度は私がきよくんに恩返しをする番。私だってきよくんが大切だから」

 白彦がまた目を見開いた。

 金色に輝く、美しい目だ。悟伯父のような禍々しさはなく、澄み切った琥珀の月のよう。

 同じ異形の狐でも、こんなに違う瞳の美しさ。

「きよくんみたいに不思議な力はないけど……私だってきよくんを守りたい」

 白彦の毛に覆われた頬は冷たく、流れていた血は固まっている。その血に触れた。

 同じ、生きてる。

「これ以上、命を、粗末にしないで」

 そう伝えると、皐月は後ろを振り返った。

 そこに、異形の狐が、悟伯父だった者の他にも、何人ものお狐さんと人に呼ばれてきた異形の狐が現れていた。

 拝殿の屋根に、石垣の上に、大木の枝や根元に、半壊した鳥居のそばに上に、あらゆるところに皐月と白彦を取り囲むようにして立っている。一様に狐の顔をしながらも、和服の男姿もあれば女姿もあり、無表情に金色の瞳で見下ろしている。まさに幼い頃に皐月が見た彼らであり、そしてあの茶色の草の海に現れた彼らだった。

「狐の嫁入りを見た者は、魂をとられる、か」

 言い伝えではなく、真実なのだろう。彼らが存在することそのものが物語る。不思議と恐怖はない。ただ、皐月が知らなかった事実がそこにあるだけだ。

 もしかしたら、本当はあの幼い日に、自分の命は潰えていたのかもしれない。

「何が、欲しいの?」

 静かに彼らに問うた。

 悟伯父だった異形の狐が、ぎらぎらと怒りを燃やして睨んでいた。それはどこか滑稽だった。人間のことを嘲笑いながら、その実、人間に一番近い感情を剥き出しにしている。

「お前さえいなければ、白彦は我をたばかりはしなかった」

 先に口火を切ったのは、かつて悟伯父の姿をしていた異形の狐だった。

「お前さえいなければ、白彦は同胞を裏切りはしなかった」

 拝殿の上の狐が言った。

「お前さえいなければ、白彦は理を乱しはしなかった」

 鳥居の横の狐が言った。

「お前さえいなければ、白彦は我らの掟を破りはしなかった」

 石垣の上に座る狐が言った。

「お前さえいなければ、白彦は孤独にならなかった」

 大木の枝に立つ狐が言った。

「お前さえいなければ、白彦は己の願いを見失いはしなかった」

 お前さえいなければと、重なり合う狐の声音が、社の神域中にわんわんと響いた。それはまるで皐月の魂を搦めとるような恐ろしくも美しい響きで、ふらりと、体が一歩前に進み出た。

 魂を彼らに捧げたいわけじゃない。でも彼らの唱和する言葉が頭の中に渦巻いて、考えがまとまらなかった。このままその掌中に落ちれば、白彦は皐月を失いはすれど仲間の元に戻って、孤独ではなくなるだろうかと、ふと思った。

「やめろ! 彼女のせいじゃない! ただ、ただ僕だけに責があるんだ……!」

 怒鳴り声が、きん、と頭の中に響いて、呪縛がとけたようにハッとした瞬間、白彦に背後から腕をとられた。振り返る間もなく、白彦は皐月を抱き寄せて、大きく跳躍した。獣の姿から人の姿へ戻りながら、そのまま皐月の頭を抱きこむようにして、後方に建つ鳥居に飛び降り、再び蹴って空に飛んだ。

 急激に社が遠ざかり、古宇里山が遠ざかっていく。白彦は後ろを振り返ることなく、周りの景色がいくつもの色の帯にしか見えないほど速いスピードで跳躍を続けた。あまりにも速いスピードと高度に、酸素が薄くなって呼吸が浅くなり始めた時、穏やかな声が耳元に届いた。

「お帰り、君は君の居場所に」

「きよくん!?」

 完全に人の姿に戻った白彦は皐月を胸から放した。皐月の体が白彦から慣性のままに離れようとしている。反射的に白彦の手をつかんだ。

「私の居場所は、きよくんのそばよ!」

 白彦がふわりと穏やかな微笑を浮かべた。そして静かに皐月の手に触れた。

「僕はこの世界の者だから平気だけれど、幽体の皐月ちゃんには毒なんだ。これ以上ここにいてはいけない。変質してしまうから」

「ならきよくんも一緒に。ここに一人で置いてはいけない!」

 白彦が寂しそうに頭を振った。

「僕にはやらなくてはならないことがある。皐月ちゃんは、僕の本性を見ても受け入れてくれた。それがどんなに僕を勇気づけてくれたか、分かるかい?」

 白彦が皐月の手をそっと引きはがした。嫌々するように頭を振って、白彦の手を掴もうとして、皐月の手は虚しく宙をかいた。

「戻ると約束した!」

「約束は、守るよ」

 指先が離れ、傷だらけでも微笑む白彦の姿と声が遠ざかる。皐月の体は猛スピードで来た道を引き返すように、夜空を古宇里山とは真逆の方角へ引っ張られた。抗えない力の大きさに無力を思い知らされて、悔しさともどかしさが胸を塞いだ。

 点になっても、空中でぽつりと皐月を見送る白彦の姿が、哀しくて、泣けてくる。

 でも泣いてはいられない。ぐいっと目元をぬぐった。

 視界の片隅で、東の空がかすかに白んでいるのが見えた。

 きっと、白彦は、皐月の元に戻ってきてくれる。帰ってきてくれる。

 そう約束した。守ると言ってくれた。

 皐月は、それを信じるだけしか、できない。

 そう思った時、ふいに耳元で声が響いた。

「たまらぬ……」涼やかなのに、深い悔いをかみつぶすような苦しさが滲む声音だった。

「え?」と聞き返した時、優しく手に触れられた気がした。

「見たいかえ……?」問われて、皐月は訳も分からずに本能的に返した。

「見たい」と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る