第6話 盗み聞きはいけない。

 遡ること数ヶ月前。

 高校入学から二ヶ月くらい経った、とある日の放課後。俺は夕暮れ時となった学校の廊下を歩いていた。

 先ほどまでは、黒木と駅前のミックで時間を潰していた。ミックとは、ハンバーガーやフライドポテトを出すファーストフード店だ。

 で、その場で黒木から、数学の宿題があることを初めて知らされた。おそらく、授業中に寝ていて、聞きそびれてしまったのだろう。

 しかも明日までで、教科書やノートを学校に置いてきていた俺は焦った。なぜなら、教科書に載っている問題を解かなければいけないからだ。当日黒木に写してもらえばいいかと思ったが、数学は一時間目。朝早く起きて、家を出る自信はない。

 考えた末、俺は黒木を残して、学校へ戻ることにした。

 そして、今。

 俺はようやく、自分の教室前までたどり着き。

「ん?」

 不意に、誰かの話し声が、わずかに開いた引き戸の隙間から漏れてくる。俺はとっさに動きを止めた。

 引き戸のガラス窓越しに見れば、中にひとりだけ誰かいる。後ろ姿で顔はわからないが、セーラー服姿から女子のはずだ。

「そうね。兄さんの言う通りね」

 耳にしたことがある声。というより、自分の教室にいるのだから、クラスメイトなら、当たり前だ。ひとり、内心で突っ込みをしつつ、場でじっとする。

「というより、性格とかは少し兄さんに似たのかもしれない。でも、わたしは兄さんみたいに、みんなを引っ張っていけるようなことはできないから。クラスでは委員長として、みんなから、それなりに認められてるかもしれないけど、実際はわからない。わたしなりに頑張ってはいるのだけれど……」

 どうやら、彼女は兄と電話をしているようだ。片手で耳に当てているのはスマホだろう。

 話は続く。

「兄さんはどう? 大学は楽しい? そう。わたしはそれなりに楽しいわ。えっ? 楽しそうに見えない? 大丈夫。兄さんが心配するほど、わたしはちゃんとやってるから」

 俺は段々とこっそり聞いていることがまずいのではないかと思ってきた。人のプライベートを勝手に覗いている気がして、立ち去りたい気持ちが迸ってくる。でも、教室にある教科書やノートを取らないと、学校に戻ってきた意味がない。

「今度、兄さんのところへ行きたいと思っているのだけれど。えっ? 忙しいからダメって、もしかして、彼女? 違う? でも、兄さんなら、いてもおかしくないわね。うん、それじゃあ、また、かけるわね」

 話が終わったのか、彼女はスマホを耳から外す。さて、どうしようか。今入ったら、先ほどまでこっそり聞いていたのではないかと疑われるかもしれない。というより、事実だが。

 と、彼女は学校の鞄を肩に提げるなり、立ち上がる。

 次に、振り返るなり、俺がいる方へ視線を向けてきて。

「佐々倉さん……?」

 俺はいつも生真面目な委員長、佐々倉だとわかると、反応に困ってしまった。

 まさか、兄がいて、加えて、佐々倉の弱気っぽい姿を目にするとは思わなかった。

 佐々倉は俺に気づいたのか、目の前の引き戸近くまで歩み寄ってくる。

「どうしたのかしら?」

 佐々倉は出入口を開けるなり、俺に問いかけてきた。

「いや、そのさ、忘れ物を取りに来ただけでさ……」

「そう。なら、いいわ」

 佐々倉は口にするなり、俺のそばを横切っていく。

 あっさりいなくなろうとする彼女に対して、俺は声をかけずにはいられなくなった。

「あのさ」

「何かしら?」

 佐々倉は廊下で足を止め、顔を動かしてきた。

「教室で、何をしてたんだ?」

「それを知る必要があるのかしら?」

「いや、ひとりで教室にいるっていうのは、何かさ、何となく気になるからさ」

「心配してくれているみたいだけど、わたしは特に大丈夫だから。だから、気にしないでいいわ」

 佐々倉は淡々と答えると、正面へ向き直す。

「もしかしてだけど、長倉くんはずっとそこで立ち聞きしてたわけじゃないわよね?」

 後ろ姿で尋ねてくる佐々倉は表情が見えず、俺は怒っているのではないかと不安になった。実はもう、俺が盗み聞きしていたことはばれているのではないかと。

「いや、さっき来たばかりだからさ」

「そうなのね」

 佐々倉は言うなり、何かを思い出したのか、俺の方へ足を進ませてきた。顔は苛立っておらず、笑ってもいなかった。

「これ、教室の鍵ね。後で職員室に戻しておいてもらえるかしら?」

「お、おう」

 俺は佐々倉から教室の鍵を受け取る。

「忘れ物は今度から気を付けることね」

「そう、だな」

「それじゃあ、わたしはこれで失礼するわ」

「ああ」

 俺は手を振り、佐々倉は軽く頭を下げてから、場を去っていく。

 先ほどしていた電話の内容が、頭から離れられない。

 俺は、佐々倉が階段のところを曲がり、視界から消えるまで、ずっと姿を見続けていた。

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