07. 被験者の憂鬱
目覚ましのセットを忘れ、いつもより三十分遅く起きた朝。母親は「そういう日」だと思い、起こしに来てはくれなかった。
全力で駅までダッシュして、汗だくで電車に乗ったものの、途中駅で一時停車してしまう。信号機の故障らしく、再び動き出したのは十分後だった。
目的駅に着いた途端、人の波を掻き分けて改札を通り、高校まで疾走する。
教室に駆け込んだのは、九時十五分で、一限目の数学の試験には見事遅刻した。
「時間が無い!」と焦るのは、自分の首を絞める行為だ。
本来なら解ける問題も白紙のまま頭が回らず、飛ばして先に進んだところで、また次の問題文を凝視して固まった。
全部で十問、うち解答に行き着いたのが二問のみ。これでは追試一直線だろう。
「残り十分、名前の記入を忘れるなよ」
非情な教師の宣告を聞いて、絶望で今度こそ脳がフリーズする。
――もうダメだ。十分なんて、ゼロ分と一緒じゃないか。
顔を上げた彼は、前に座る教師の方を見た。正確には、教師が肘をついている教卓を。
いきなり答案用紙を持って立ち上がった彼の様子に、教師は何事かと訝しんだ。
「お前は遅刻しただろ。もう出来たのか?」
無言で前へ進み出て、答案を丸めて捨てる。驚く教師が何か言う前に、教卓の上の赤いボタンを全身全霊を篭めて叩いた。
「やってられるかっ!」
黒い
こんな世界は、望んでいなかった。
何秒経ったのかも分からない暗い浮遊感の後、彼は思い切りむせ返り、ピンク色の液体を吐き出す。
教室は消え、代わって天井の高い大ホールが眼前に現れた。
白衣を着た研究員然とした青年が、計器のチェックをしつつ彼の機嫌を伺う。
「お帰りなさい。不都合がありましたか?」
「……大有りだ」
半裸の彼が座り込むのは、大人独りを収める卵型の金属カプセルだ。中を満たしていた液体は排出され、
窮状を訴えられる程に彼の意識が定まるには、その後五分を要した。
◇
半覚醒生体保存計画、その被験者に登録したのは、彼自身の意思だった。
もちろん、健康優良で大きな病歴も犯罪歴も無く、ほとんどの試験は正当にパスした。
知能も高く、総務省の高級官僚である楢浜は、職歴も合格基準を満たしている。
子供はおらず、妻は不慮の事故で若くして亡くし、近い身寄りが父しかいないことは、被験者に推奨される境遇であった。
全てをリセットしたいという思い、そこに社会の役に立ちたいという英雄願望が加わり、彼は計画への参加を望んだのだ。
ただ一点、これが最も難関なのだが、精神リンク相性テストだけが惨憺たる成績に終わる。半年に亘るテスト期間、これをクリアしなくては、本計画へ参加できない。
不合格の判定を覆したのは、父のコネを目一杯動員した工作の結果だった。
「心理テストなんかで、適不適が決まってたまるか」
その父の言葉は、ここに来て信憑性が揺らぎ始めている。
衰退期に入った人類が、未来へ人材を残す手段として計画は立ち上がった。
このまま行けば、環境悪化に対抗するより早く、人間は絶滅してしまう。生殖機能の不全が世界規模で蔓延し、子孫が残せないからだ。
医療の進歩、環境改変技術の開発、どれも超高齢化の進行と比べると、遅々として間に合いそうになかった。
優秀な人材を未来へ送り、破滅的な結果を先延ばしにする。
そのために採用されたのは、タイムマシンやコールドスリープといった夢物語ではなく、半覚醒生体保存という技術であった。
維持液で充満したカプセルに人を漬け込み、代謝を極限まで遅らせる。元来は難病治療を待つ患者のために作られたシステムではあるが、これが保存計画に援用された。
この維持システムは、人間の寿命を十倍以上に延ばす効果があると、既に実証済みだ。
然しながら、維持中の収容者の脳が活性化したままだというデメリットは、未だ解消されていない。
つまり、身体は寝ていても、脳は起きたまま何十年、下手をしたら百年以上を過ごす必要がある。
精神を病まないように、被験者の記憶を利用して人造の夢を見せるというのが、研究者の出した対応策だった。
清潔なタオルで顔を拭きながら、楢浜は自分の見た世界を思い返す。
最初は中学生時代、母を亡くした際の一週間を追体験させられた。
没入感が強いほど、これが“夢”だということを忘れてしまう。
癌で弱る母の顔に心を痛め、毎日病室へ赴いた挙げ句に、葬儀の時は棺に縋り付いて泣き崩れた。
現実に戻るために、夢には緊急停止ボタンが埋め込まれている。
出棺の日の夜、遺影の前に置かれた赤いボタンを見て、ようやく自分の置かれた状況を思い出し、保存センターへと帰還した。
二度目のトライが、先ほどのテストの夢だ。
不運が重なり、二科目で追試を食らった忘れ難い一日。学業で苦労した覚えの無い彼にすれば、屈辱的な記憶である。
一度体験していたおかげか、前回より早く夢と気が付けた。
同じ日が繰り返せば、嫌でも現実では無いと思い知る。それでも、数学の試験は二回受けてしまったが。
「繰り返す時間の長さは、一定ではないんだな?」
「記憶はブロック状に分かれていますからね。一ヶ月から一年くらいの期間が選ばれ易いです」
「……同じ日を繰り返したぞ?」
「よほど強烈に刻まれた思い出なんでしょう。良かったですね」
――いいわけないだろう。不愉快極まりない。
心理テストを重視した理由は、ここにあった。
トラウマを抱えていたり、悲観的な人間は、ネガティブな記憶をループしてしまうのだ。
「再生期間は、任意で選べないのか?」
「多少なら可能です」
「成人後にしてくれ」
「承知しました。若い時に戻りたい人が多いんですけどねえ」
官僚として地位を築いてからの方が、順風満帆と言えよう。楢浜は最近の十年、四十代を選ぶように指示する。
「あまり細かくは指定できません。十年幅くらいはブレますよ」
「構わない。若くなければ、それでいい」
「万一の時は、また緊急停止ボタンを押してください」
研究員は、被験者に説明するための模型を掲げてみせた。
「二度とも、そいつとは少し形が違ったな」
「形状も深層心理に影響されますから」
違和感のある場所に存在したので発見自体は楽だったものの、模型の青いボタンは色すら夢と違う。
見逃さないように注意しようと考えながら、彼は再びカプセル内に横たわった。
キャノピーが静かに閉じると、内部に維持液が満たされていく。溺れそうな恐怖には、未だに慣れない。
固く目を閉じた彼は、鼻腔に液体が流入してくるのに逆らわないように必死で耐えた。
◇
通勤客でごった返す夕方のホーム。
線路を濡らす小雨に眉を寄せつつ、彼は階段を上がり、二階改札へと向かう。
今回は最初から、これを夢だと認識しており、いつの記憶かと周囲を見回す余裕があった。
電車通勤をしていたのは三十代半ばまでで、希望した四十代より若い。
最後に電車で帰宅したのも、こんな雨の降る夏のことだ。
改札近く、天井から吊された表示器が、日時を教えてくれた。
七月二十四日、午後六時七分。
――最悪だ。掘り起こしていい記憶ではない。
二階コンコースを出た彼は、周りを懸命に観察しながら、全力で階段を駆け降りた。
三十六歳のこの日、彼の妻は傘を届けに駅へ出迎えに来る。そうしてくれと頼んだのは自分なのだが、以降、痛恨に我が身を
軽い脳障害に悩まされていた彼女は、駅前で症状が悪化して朦朧とし、フラフラと車道へはみ出す。
乗用車に跳ね飛ばされた妻が、意識を取り戻すことはなかった。
本来なら、駅を出た彼の目の前で事故は起こる。
――そんな光景を、もう一度見せられてたまるか!
走れば彼女を引き止められる。止められなくても、停止ボタンさえ見つければ脱出可能だ。
タクシー乗り場を少し過ぎた先、一般車両が次々と滑り込む駅前のロータリーが事故現場である。
赤い傘を差す妻の姿は、どこにも見当たらず、こちらへ歩いて向かってる最中だと思われた。
まだ到着していないのなら、自分から出迎えればいい。それなら間に合うと、彼はロータリー前の歩道から飛び出して自宅への道を駆け出した。
雨に打たれた上に、蒸し暑さから汗が噴き出す。白いシャツがベッタリと肌に張り付いた。
家と駅を結ぶルートは一本道であり、妻とは必ずどこかですれ違うはず。
徒歩十五分ほどの通勤路を半ばまで走った時、勢いを増した雨が激しく彼へ叩きつけられる。
――おかしい。
記憶を探り、雨足が強くなるのは、事故の直後だと気付いた。ずぶ濡れの腕時計の針は、六時十五分を指す。
慌てて駅へ引き返した三分後、彼は脳裏に焼き付いた映像を、別のアングルから見ることになった。
転がる赤い傘。集まる人だかり。
傘よりも赤い、アスファルトに広がる血痕。
見たくない、もう見せないでくれ、そんな思いとは裏腹に、足は現場へ体を運ぶ。
近くの派出所から、既に警官が駆け付けており、野次馬を遠ざけていた。救急車のサイレンが、遠くから近づいて来る。
――起こった事実は、変えられないのか?
およそ記憶の中でも、この瞬間を繰り返すのは酷過ぎる。
緊急停止ボタンを発見したのは、
夫を名乗った彼へ警官が質問を浴びせるが、無視して妻の左手を注視する。
彼女の手首にはストラップの輪が通され、その先に丸く小さな押しボタンが繋がっていた。
「……許してくれ。すまなかった」
◇
三度目の緊急停止に、白衣の青年も首を捻る。
「相性が悪いんですかねえ。一度、再検診を受けてもらって――」
「もう一度。もう一回だけやらせてくれ」
意識がはっきりすると、せっかく掴んだチャンスをふいにするのは惜しく感じた。
トラウマすら避けられれば、トラブルは生じない。時期設定だけの問題ではないか。
「使うのは、最新の記憶にして欲しい」
「さっきも新しい記憶でしたし――」
「もっと新しくないとダメだ。今日にしろ、ここに来た時の記憶で行こう」
「また極端なことを……」
近日記憶を使用するのも、不可能ではないらしい。設定を始める青年に、楢浜は一つ質問した。
「夢は現実であった通りにしか、再生されないのか?」
「そんなことはないですよ。ただ、記憶が強烈に残っているほど、変化しにくいみたいです」
「なるほどね……」
答えに納得した彼は、次にカプセルのコントロールパネルの上に置かれた、ボタンの模型に視線を移した。
緊急停止ボタンのイミテーション、だったか。
「なんで模型を持ち歩いているんだ?」
「実物を見せれば、理解しやすいでしょ」
「一度目は一週間、二度目は丸一日以上、夢で過ごした。これで三度目なのに、わざわざ模型を持って来たのか?」
二人は黙って見つめ合う。
楢浜は模型に手を延ばして、その赤いボタンを押した。
暗転、そして覚醒。
「お帰りなさい。何か不都合でもありましたか?」
「……ああ。大有りだよ。不都合しか無い」
――この茶番を、俺は何回繰り返して来たのだろうか。
自分は現実なのか?
答えは出しようがない、と思い至る。
知りたければ、押し続けるだけだ。
研究員が持つ模型を睨んでいた彼は、
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