06. コピー

 美術評論家を生業にする秋塚あきつかショウは、ざわつくホールの壇上に立ち、次の作品が運び込まれるのを待った。

 公開審査会と銘打たれただけあって、それなりの観客が入っている。


 五人の専門家の内の一人として、厳正なる審査を期待されているのだが、手元の評価シートには酷評ばかりが増えていく。

 溜め息を漏らしながら、彼は事の始まりに思いを馳せた。


 人の創作能力の減退が世間で叫ばれ始めて、十余年が経過する。

 秋塚が携わる芸術分野においては、もう少し古い十五年前の夜が契機ではなかったか。


 その夜のことは、今も鮮明に彼の記憶に残っている。国立中央美術館の一室、芸術関係の重鎮、二十名が集められた。

 当時の彼は、その面々に加わるにはまだ力不足だったが、数名の推薦を以って参加する名誉にあずかる。


 この冷えた会場に似た、寒い部屋の出来事だった。





「皆さんにお集まり頂いたのは、二枚五セット、計十枚の絵を見てもらうためです」


 進行を務めるのは、グレーの作業服に身を包んだ男性で、およそ芸術関係の人間には見えない。

 坂澤さかざわと名乗った彼は四十歳半ば、秋塚と同じくらいの年齢だろう。


 広々とした大ホールは、本来なら修復作業のために使用する場所である。今夜はそこへパネルが何枚も立てられ、既に絵画が掛けられていた。


 どの絵も美術館が誇る一級の所蔵品で、一般人でも知る者が多い名画ばかりだ。

 洋画界の大物であり、芸術大学の学長でもある髭の御大が、坂澤の意図を尋ねた。


「贋作を並べたのか。我々をテストするつもりかね?」

「そうではありません。二枚はどちらも本物・・です。それを確認して欲しいのです」

「そんな馬鹿な」


 他には著名な修復家や、秋塚と同じ評論家、各界を代表する画家に、美術館所属の学芸員もいる。

 ルーペとペンライト、それに白いハンカチといった小物を手渡されて、それぞれが絵画へと向き合い始めた。


 一時間を予定していた鑑定作業は、終わってみれば三時間を越す長丁場となる。

 五組の絵画を調べた全員が、どちらが贋物かを指摘できなかった。どのペアも細部に至るまで全く同一で、当て推量すら無理である。


 色、構図はもちろん、絵の具の盛り上がりが作るマチエール、付着した筆の抜け毛、経年劣化による表面ワニスの曇りにも違いが無い。

 タチの悪いことに、絵を収めた豪華な額縁すら、傷の入り方まで同じ品物だった。


「お手上げだ。何の違いも無いんだ、区別もできん」


 壁際の椅子に座り込んだのは、最年長の美術評論家である。彼は実際に両手を挙げて、万歳をしてみせた。

 これを皮切りにして、皆も口々に降参を呟く。悔しさを滲ませる者もいれば、プライドをへし折られて不貞腐れる者もいた。


 坂澤一人だけが、その様子を眺めて嬉しそうに微笑む。その楽しげな作業服の男へ、評論家が声を掛けた。


「判別するなら、科学鑑定しかないだろう。人の目では不可能だ」

「いえ、その必要はありません。どちらも本物なのですから」

「しかし、実際にどっちかが複製なのは事実じゃないか」

「複製だとして、どんな問題が?」


 ここで坂澤の種明かしが告げられる。

 片方の絵画は、元絵をデータ分析した上で、専用プリンターで作成したものだと言う。

 色合い、透過度、硬度、経年劣化、その全てを再現する完現プリンターリプロダクターの所産だった。


「貴重な美術品を外気に晒し、劣化の憂き目に遭わせる必要はもう無い。違いますか?」


 そういうことか、と秋塚は得心が行く。

 完璧なコピーがあるなら、普段の鑑賞に本物を並べなくてもいい。美術館の作品を丸々コピーに入れ替えたところで、誰が文句を言おうか。


 制作時期の違いにこだわると言うなら、それは美を鑑賞しているのではなく、史跡や遺物を有り難がるのと一緒だろう。


 この日を境にして、全国の、いや全世界の美術品はリプロダクターによるレプリカへと置き換わっていった。


 複製技術は更に進歩を続け、五年後には美術品の価格破壊が起きる。

 コピーに要するコストが激減した結果、安価なリプロダクターが誕生し、名画はディナー一食分の値段で購入できるようになった。


 市場で取り引きされるのは過去の名作のデータであり、手描きの需要は地に落ちてしまう。

 今も空間デザイナーや、パフォーマンスを主に活動する芸術家は存在するものの、平面絵画を描く画家は絶滅危惧種である。


 描いたところで売れないのだから、誰も責めようがない。何十万もする原画を求めるのは、よほど偏屈な好事家ぐらいのものだろう。


 秋塚が一生の仕事と決めた絵画の世界は、無数のコピーのみが漂う過去の物となりつつあった。





 二年毎に開かれていた新人作家のための審査会も、もはや風前の灯だ。

 公開形式にして、人を呼び込んだところで、肝心の作家が現れないことにはどうしようもない。


 どこかで見た画風、手垢の付いたモチーフ。抽象画ほど、過去の作品を想起させる陳腐な物が多いのは、皮肉な現象であろう。

 皆、どこかで見たイメージに引き摺られてしまっている。


 係員が次の作品を中央に引っ張り出し、掛かっていた白幕を外す。

 期待せずにいた秋塚は、観客の邪魔になるのも構わずに、作品の正面へ慌てて飛び出した。


 タイトルはシンプルな『海』と一言。

 やや荒れた海面に、朝日が差し込む風景画である。


 モチーフ自体は陳腐だろうが、そのタッチが目を引いた。

 ターナーの煙った水とも、モネの粗い筆捌きとも違う。ゴッホの情熱とも、スーラの点描とも似てはいない。


 光を受け止めて投げ返す波は、意志を持つようにリズミカルに跳ねていた。

 古典的な画題であるが故に、この奇妙にも魅力的な筆の動きが、否応なしに心を掴む。


 ――こんな描法は、間違いなくオリジナルだ。賭けてもいい、人が初めて見る絵画の潮流に、俺は立ち会っている。


 マイクを渡された彼は、会場に向けて熱弁を振るった。

 これが如何に新しい・・・か。世で最初に観ることができたのが、どれほど僥倖か。


 この作家と出逢うために、自分はここまで生きてきたのだとまで、秋津は訴えた。

 他の審査員も、『海』が傑作であることに異議はなく、全員一致で最優秀賞に選ばれた。


 全ての作品の審査が終わると、休憩を挟んで秋津が総括を語る時間が設けられている。

『海』の作者は、審査会場に来ていると教えられたため、彼は是非ステージへ上がってもらうように頼んだ。


 万雷の拍手に迎えられ、脇の階段から係員と共に作者がやって来る。新進気鋭の画家を見た秋津は、その老けた姿に、顔を強張らせた。


 画家が初老であることは、別に構わない。問題はしわの刻まれた顔、そして、昔の思い出と同じ作業服だ。 

 十五年前に会った坂澤が、今また彼の前に現れたのだった。


「あなたが描いた絵なのか?」

「いいえ、リプロダクターに変換機能を組み込んだんです」


 にこやかな坂澤は、マイクを受け取って皆に続きを語る。


「過去の絵画は、全てデータ化を完了しました。この作品は、全データに一致しない・・・・・タッチを生成したものです」

「機械的に変換したのか……」

「人工知能のおかげですね。作品が認められて、私も鼻高々ですよ」


 笑う男とは対照的に、秋津の表情は絶望で暗く沈んで行く。

 機械の手に委ねられた絵画は、過去作と照らし合わせ、消去法で生むものと化しかねない。

 険しい顔を貼り付けたまま、彼は心中で呟いた。


 ――それでも、この絵は素晴らしい。これがオリジナルなものだという私の判断は、間違っているのだろうか。


 秋津の問いに答えが出るのは、それから何世代も経た未来の話だ。

 人という種が活力を失うにつれ、培ってきた文化も緩やかに下り坂を進む。

 過去データを参照し尽くし、機械が産んだ芸術を自身が参考にし始めた時、リプロダクターが新しい作品を産まない時代が到来した。


 彼が立ち会ったのは創造性の終焉、その嚆矢こうしであった。

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