第十四章 処女雪
第一話 白百合と境の森
前回のあらすじ
揺れる空の旅。
揺れるこの気持ち。
旅の果てにあるものを、私たちはまだ知らない。
雪の降り積もる音というものを、聞いたことがあるでしょうか。
あんなに軽くてふわふわとした雪でさえ、絶えず積み重なるときには音を立てるものなのでした。
息をひそめて、そっと耳を傾けると、きしきし、きしきしと、小さく軋むような音を立てて、雪は静かに積もっていくのです。
それはあんまりにも静かで、そしてあんまりにも美しい音で、そのほかにはどんな音だって聞こえないほどなのでした。
雪の降らない地域の人たちに対して北国を説明するにあたって、この文言は最高に詩的で素敵で情緒あふれるものなのでもはや常套句となりかけているのですけれど、ガチの雪国に来てしまった旅人には詐欺じゃねえかと罵倒されるまでが流れです。
雪国で雪が降り積もってるのって、最初は見てて綺麗で聞いていて美しいものですけれど、だんだんそれどころじゃなくなりますからね。
私ももう聞き飽きたどころかあんまり意識もしなくなったくらいに有り触れたものなのですが、しかし、それは雪というものの一面にしかすぎません。
北部や辺境には雪を表す言葉が百も二百もあると言われているくらいです。
まあ、言われているだけで実際にはそんなにないんですけど。
初雪とか根雪とか堅雪とか、なんとか雪みたいな言い方はそりゃいくらでもできるんでしょうけれど、はっきり別の言葉として雪を表す言葉はそんなにありません。
あってもまあ、十個くらいじゃないですかね。霰とか、雹とか、霙とか、雲雀殺とか。
田舎に行けば行くほど独特の言い回しなんかが残っていたり変化していたりするので、はっきりとは言えないんですけどね。
なんていう話を長旅のささやかな時間つぶしにと思って語って聞かせてみたのですけれど、ウルウはそれどころではないようでした。
何しろ、竜車は揺れるもので。
降りしきる雪の中を飛んでいく竜車は傍目には優雅かもしれませんが、実態としては無数の氷の粒に馬よりも早く体当たりし続けるというかなり厳しい現実があるんですね。
何しろ下手な風よりも早く飛んでいるので、常に暴風にさらされてる状態です。そこに雪が付きまとうのですから吹雪です。どれだけ静かに降ろうと、飛竜の速度で突っ込んでいったら吹雪と変わりないのです。
飛竜はその程度の雪なんてまるで問題になりませんし、頑丈な竜車もこれくらいでは壊れません。
しかしそこに乗っている人間はそうもいきません。
私は全然へっちゃらなのですけれど、ウルウはもはや死んだほうがましといった顔です。
ウルウよりはましなトルンペートも、あまり元気とは言えません。
もっと高く、雲の上をいけば、雪もなく風も平らで、随分穏やかな飛行になるのだそうですが、問題はその高さになると空気が薄くなってしまって、竜車のまじないではちょっと心もとないのでした。
それに空気が薄い分、飛竜が飛行に多くの力を費やさなければならなくなるので、かえって飛べる距離は短くなることもあるのだそうでした。
もちろんそんな話もウルウにとっては全く頭に入ってこない内容なのでしょうけれど、しかし私の声は聴いていると耳障りが良いとのことで、子守歌代わりに延々と中身のない話をし続けることになっています。
いいんですけど、いいんですけどなんていうかこう、最初っから聞いていないとわかっているのに喋り続けるのって結構しんどいものですね。お喋りが好きなのと一人で喋れるのって全く別の話なんですね。
延々と喋り続けることしばし、ウルウがなんとか寝つき、トルンペートがうつらうつらとしはじめ、そして私が一周回って喋りつづけることが気持ちよくなってきたというかやめどころを見失ったというかそのような無我の境地に陥りかけたころ、飛竜が揺れ始めました。
この揺れ方は、と天井を見上げると、飛竜の操縦を務めているお母さまが、伝声管からそろそろ着地する旨を伝えてきました。
今日は窓を閉めっぱなしだったので時間感覚がいまいちはっきりしませんが、ずいぶん長く飛んでいたように思います。
激しい揺れに否応なしに目覚めさせられたウルウがうつろな目で竜車の角を見つめはじめ、トルンペートが強張った体をほぐしながら降りる準備を始めました。
それにしても本当に、ウルウは小舟は大丈夫なのに何で船とか竜車はダメなんでしょう。いまだによくわかりません。
竜車から降りた我々を迎えたのは、うっそうと茂る森でした。
降り積もる雪の重みに耐えつつも立派な緑を見せつける針葉樹林です。
私がウルウと出会った、あの境の森です。懐かしいものです。あの時よりだいぶ北寄りですけれど。
ウルウとしてはどう思っているのでしょうかと振り向いてみましたが、どうもそれどころではないようで冷たく新鮮な空気を深呼吸しながら、こみ上げてくる乙女塊をこらえているようでした。
見なかったことにして、体をほぐしながら空を仰げば、赤々とした夕日が見えており、すっかり夕刻を回っているようでした。
「んっ、んー……はあ。今日はずいぶん長く飛びましたね」
「境の森と遮りの河を一度に渡っちゃいたいからね。そうすればカンパーロにお昼くらいにはつけるわ」
「……遮りの河って何?」
吸気面や眼鏡を外すお母様のお手伝いをしていると、すらりとした身体をぐんにゃりと曲げて参っているウルウが、それでもなんとか会話に参加してきました。
好奇心に忠実なのは良いことです。そうでなくても会話に参加してきてくれていいのですけれど。
遮りの河というのは、境の森の東側を流れる大きな河のことで、幅が広く底も深く、流れもそこそこ早いので、渡る方法が限られています。
湧き出る元は臥龍山脈の奥深くで、流れる先は海まで続きますので、たった一つしか架かっていない大橋を渡らなければ、普通は辺境に行くことはできません。
飛竜みたいに普通じゃない手段もあるので、絶対とは言えませんけれど。
この遮りの河と境の森の二つが帝国と辺境を隔てる一種の境界線というわけです。
政治的領土的な区分でもありますし、越えると途端に魔獣が強くなる生物学的な区分でもありますし、そしてやっぱり物理的な区分でもあります。
その向こう側のカンパーロとは、辺境の入り口でもあるカンパーロ男爵領のことです。
男爵領ではありますが、辺境内では最も領地が広く、農耕に適した土地が多く、辺境の胃袋といっても過言ではありません。
よそからの商人もみなここを通るので、流通も非常に活発です。辺境としては。
さすがの竜車でも広大な境の森と遮りの河を渡るのには時間がかかるようで、今日はここで野営をし、明日の朝からカンパーロ男爵領に向かう、とそう言うことなのでした。
なお、私の朗々とした説明は、限界を迎えたウルウの乙女塊によって中断させられたことをここに追記しておきます。
用語解説
・カンパーロ
カンパーロ男爵領。
アマーロ家が代々治める広大な領地で、肥沃な平野が広がり、豊かな農地に恵まれた土地。
辺境ではあるがよく拓かれており、内地との交流も活発。
・遮りの河
大陸東部の河。辺境領と帝国内地を分けるように南北に長く広がる河で、橋は一つしか架かっていない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます