第十話 白百合とこの傷の在処
前回のあらすじ
沼にはまり込むように痛みを思い出していく閠。
それは閠自身、痛むことを認識できずにいた傷なのかもしれない。
肌寒い秋の森でのお茶会は、それでもどこか暖かなものでした。
熱い
私たちは向かい合って
例えば母が亡くなった後のこと。
父がどれだけ嘆いたか。兄がどれだけ寂しがったか。私がどれだけ泣き喚いたか。
まあ主に私が泣き喚いて大暴れしたせいで父が嘆き兄は寂しがる暇もなかったそうですけれど、まあそれくらい私は悲しかったのです。
例えば兄が成人し旅に出たこと。
旅の物語を伝え聞いては、母から聞かされた冒険譚を思い出しました。
あのいい加減な兄の事ですから話を盛ったり削ったりは当然のようにしていたのでしょうけれど、それでも華々しい冒険の話が、また地味で苦しい旅の話が、母を亡くして一人で過ごすことの多かった私にとってどれだけ救いとなったことでしょう。
例えばトルンペートを拾ったこと。
妹分ができたと思ったのにあっという間にすくすく育ってお姉さんぶって、実際私も姉のように甘えては迷惑をかけました。
トルンペートが遊んでくれなければ、きっと私は今でも母の死を引きずって、ろくでもない駄目な奴に育っていたことでしょう。
例えば長い冬を何度も超えて、その度に私も強く大きく成長したこと。
キノコ狩りに出かけては毒キノコでお腹を下し、魔獣狩りについていけば魔獣と取っ組み合って怪我をしたり、飛竜狩りを見学に行けばうっかり捕まってあわや空から落とされる羽目に陥ったり、たくさんの危機と経験を乗り越えて、私は小さなリリオの頃とは比べ物にならないくらい大きく育ちました。
そして私も成人し、旅に出て、ウルウと出会い、冒険屋になったこと。
ウルウと出逢ってからの生活は、本当に語っても語っても語りつくせないほどでした。
森の中で
母はそのひとつひとつを微笑んで聞いてくれました。
私のまとまりのない、拙い物語りを、ただただ優しく頷きながら聞いてくれました。
「そう、そうなのね」
「リリオは頑張ったわね」
「大変だったわね」
そんな何でもないような相槌が、なんだか胸の深いところまで届いて、強張った古傷を柔らかく癒してくれるようでさえありました。
熱い
どこまでも心地よい空間は、離れがたく、いつまでもいつまでも続けばいいのにと、そう願わずにはいられないほどでした。
「母様」
「なあに、リリオ」
「母様はもうどこにもいきませんか」
「ええ、勿論」
「もうリリオを独りにはしませんか」
「ええ、勿論」
「ずっと私と一緒にいてくれますか」
「ええ、勿論」
私はその言葉に、柔らかく棘を溶かしてくれる言葉に、そっと
目じりに浮かんだ涙を拭い、ゆっくりと立ち上がります。
「ありがとうございました」
「……ずっとここにいていいのよ、リリオ」
「本当の母様だったら、そんなこと言いますか?」
「…………」
そう。
本当の母様はもうどこにもいない。
母様は亡くなった。
あの日、私たちの目の前で、飛竜に食われて亡くなった。
「もう一度母様の姿を見れて、とても嬉しかったです。でも、もう行かなきゃ」
「行かないでもいいのよ。ここでゆっくり休んでいっていいの」
「皆が待ってます」
「ほかのみんなも休んでいるわ。安らぎ、眠り、休んでいっていいの」
「人は、時には休むことも必要かもしれません」
でも。
私は胸を押さえます。
そこに確かにあるはずの古傷が、かすれてしまったように感じるその軽さを、押さえます。
「時には休むことも大事です。癒さなければならない傷もあります」
でも。
「でも、これは私の痛みです。私だけの痛みです。あなたになんか、譲ってはやれない」
母様は死んだ。もういない。
その死は、その痛みは、私の胸に大きな傷を残していった。
でもその痛みは私のものだ。
他の誰でもない私だけのものだ。
その痛みを癒してくれるのは、優しさかもしれない。
でも身勝手な優しさは、ただただうっとうしいだけです。
「私は母の命を失いました。今度はその死さえも奪うというのならば、私はあなたを許しはしない」
しゃん、と剣を引き抜けば、優しい森はたちまち姿を変える。
燃え盛る木々。横殴りの吹雪。血と炎で染まる雪原。
のしかかるような巨大な影。
飛竜の息遣い。
幼い私の悲鳴。
それはあの日の光景。
母を失ったあの日の光景。
「こんな苦しみを抱えていたっていいことはないわ」
母の似姿が優しくもろ手を広げる。
「さあ、リリオ。あなたの痛みを私にちょうだい?」
「この、痛みは」
湧き上がる恐れを、痛みを、私は飲み下す。
忘れるのではない、消してしまうのでもない、我がものとしてそれは受け入れなければならない。
「この痛みは、他の誰でもない、私の、私だけの痛みだッ!」
振り下ろした一閃が、懐かしき似姿を斬り伏せた。
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