第九話 亡霊と痛みの沼

前回のあらすじ

これはまやかしだと看破したトルンペート。

でもそうとわかってても自分の心臓ぶっ刺すのはどうなの。






 私が生まれた日は、雪の降る寒い日だったらしい。

 さしもの私も、生まれたての赤ん坊のころからお天気事情を把握していたわけじゃあない。目に映るものはみんな歪んで見えたし、ひたすらに白い病床のシーツの色ばかりが、目に残っている。


 生まれたばかりの赤ん坊は、その時から途切れなく始まるビデオテープの録画を開始していたけど、でもその内容を理解して飲み込めるようになったのは、もっとずっと後になってからだった。

 その頃の私というものは全く大人げなく情緒もない頭の中身が空っぽの自動機械のような有様だったから、受け取った刺激に対してとれる反応と言えば泣くか笑うか喃語にもならないうめき声を上げるくらいのものだった。


 だからその時のことに対する印象というものは、私がある程度ものを考える頭というものを獲得して、思い返すという情緒あふれる行動をするようになり、そして、まあ、思春期の脳で理解して思い出に蓋をした類のものだった。


 それはとにかく不快な音だった。後になって何と言っているかというのはわかったけれど、その時の私にとってそれはただただ耳障りで不快な音でしかなかった。

 激しく、吐き捨てるような、悪意のこもった声だった。

 そしてそれは私に向けられていた。


 生まれたばかりの私の生を否定するような声は、私の母の母、つまり私の祖母の声だった。

 その時の私には、それはただただ不快な音としか感じられなかった。耳障りで、不快で、悪意のこもった声。

 ただそれでも、言葉の意味が分からなくても、その激しい悪意が自分に向いているということだけはよくよくわかった。

 私にとっての人生とは、このようにして始まったのだった。


 私が生まれて、母はすぐに亡くなり、天涯孤独だった父は親戚の助けもなく、本当に男手一人で私を育ててくれた。

 父は不器用で、人間を理解できない人間未満だったけれど、それでも私は何一つ不自由というものを感じることもなく育てたように思う。少なくとも、事前に情報を集められ、対策が立てられる範囲において、父の養育は一般的な家庭よりも余程スムーズだったように思う。

 ただひとつ、私たちの間には愛情がうまく通わなかった事を除けば。


 父はいつも他人行儀な敬語で話し、私のことをさん付けで呼んだ。

 それは私のことを他人扱いしていたからではなく、他に話し方を知らない不器用さからだった。

 誠実な人ではあったと思う。

 恐ろしく不器用で、恐ろしく無理解ではあったけれど、私を常に一人の人間として扱い、対等な立場で向き合おうとしてくれていたように思う。


 母親がいないということを不思議に思いはしても、寂しさを覚えたことはなかった。

 最初からないものを寂しく思うことはない、という以上に、私が日々に程々に充足していたからだった。

 父は私に何もかもを与えてくれるほど甘やかしではなかったけれど、合理的な要求に対しては誠実な対応をしてくれる人だった。


 私が学校での会話についていけないと漫画雑誌の購入を強請ると、父はどの雑誌かを確認するだけして、すぐに書店で定期購読の契約を結んだ。それも二部。私の分と、父の分と。

 会話についていくためだけに少女漫画雑誌に目を通す私と、娘の会話を理解するために少女漫画雑誌を分析する父と、私たちはどちらもあまり真っ当に漫画を楽しんではいなかったかもしれないが、しかしそれが私たち親子の会話の形だった。


 私が好奇心に駆られて質問を繰り返すのと同じくらい、父は私に問いかけを投げつけた。


「閠さんは何が好きですか」

「閠さんはこの漫画のどこが好きですか」

「閠さんは学校で困ったことはありませんか」

「閠さんは今週号の『いちご2%』で学校内で不純異性交遊に及ぼうとした男子学生をどう思いますか」


 夕食時に交わされる会話は、まるで面接か、ともすれば医師の問診だった。

 父は事細かに私を理解しようとしてくれた。欠片ほども理解できないなりに、父は私の情報を蓄積し、分析し、合理的な統計を導き出そうとしていた。私という人間を数字で置き換えて、数式で読み取れるようにとしていた。


 父は人を愛することが苦手な人だった。

 致命的に人を愛することができない人だった。

 愛するということがちっとも理解できない人だった。


 私にとって父は私を養育するアンドロイドであり、父にとって私は養育義務のある子供に過ぎなかったと思う。

 私は父の期待に応えようとするというよりも、どうすることが父の期待というものに副うことなのか考えながら過ごすことの方が多かった。何しろ父は期待というものをしなかった。


 進路について学校で希望調査がなされた時も、私は白紙のプリントを前にまるで何も思いつかなかった。自分が何をしたいのか、何になりたいのか、まるで思いつかなかった。自分が何者かになる光景を想像できなかった。

 父に相談してみれば、私たちは親子そろってフリーズするしかなかった。私は何も思いつかなかったし、父にとって他人の進路の希望など数式で答えを出せるものではなかった。


 それでも父は誠実だった。

 同年代の子供たちが望む職種や、私に適性があると思われる職種をリストアップし、それぞれのメリット・デメリットについてを解説してくれた。それは子供の夢を応援する父の姿ではなかったかもしれないが、道に迷った子供に道の歩き方を教えようとしてくれる背中ではあった。


 結局それで私が華々しく夢を抱いて駆け始めたかというとそんなことはなく、私の進路希望は福祉がしっかりとして安定した給料と休暇があり、という要するに公務員になることを目指した進学であった。ブロイラーで出荷される鶏のように、判で捺したような個性のないものだった。


 中学、高校、そして大学へと進学し、良い成績をとることはさほど難しいことではなかった。暗記科目において私は他に引けを取るということがなかったし、応用においても人並み外れて劣るということはなかった。

 ただ、受験生の誰もが羨むような能力を、私は持て余していた。私はその能力を生かして向上するということがなかった。私にはいまだに、なにになりたいという夢の一つも見つからなかった。


 結局公務員試験に落ちて、勤め人として会社に勤めるようになってからのことは、いままでにも散々ぼやいてきたとおりだ。

 会社はブラックもいいところ。体制は旧態依然、錆びついた上に数が足りない歯車で何とか回しているような状態で、そしてそれがその頃の企業の平均値だった。


 会社に入って一人暮らしを始めるようになってからも、父の問診は変わらなかった。

 月に一度ほど顔を合わせて、食事を共にし、そして父は相変わらずの平坦さで問いかけた。


「変わりはありませんか」

「困ったことはありませんか」

「何か必要なものはありませんか」


 私はその都度、特に、何も、大丈夫ですとお決まりの文句を返してきた。

 私と父の会話は、台本を読むかのようにテンプレートそのままだった。


 結局父は、私が入社して数年目に、癌が発覚してそのまま驚くほどすんなりとなくなってしまうまで、お決まりの質問を変えなかった。

 今日明日が峠ですと言われて、初めて有休をとって見舞いに行った病室で、父は見違えるほどやせ細った体で、しかしやっぱり相変わらずの平坦さで、同じ問いかけをした。


「変わりはありませんか」

「困ったことはありませんか」

「何か必要なものはありませんか」


 特に、何も、大丈夫です。

 素っ気ない返答に父は不思議と満足げに一つ頷いて、それから、それきりだった。

 その晩父は眠るように亡くなった。


 渋る上司に忌引きを申請して、父が生前の内からまとめてくれた手引きに従って喪主を務めたが、父は天涯孤独の身で、葬儀に訪れてくれた人の殆どは仕事の関係者ばかりで、私は全く顔も知らないような人ばかりだった。通夜まで付き合ってくれるほど親しい付き合いの人たちはいなかった。

 寂しい人生だった、と思うべきなのだろうか。それとも、無駄のない人生だった、とそう思うべきなのだろうか。


 通夜に付き合ってくれたのは、母方の祖父母だけだった。

 とはいえ、形だけでも故人を偲んでくれたのは祖父だけで、祖母はひたすらに私にすり寄るばかりだった。


 軅飛たかとぶさんがなくなって心細いことだろう、身よりもなしじゃあ不安だろう、これからは私たちが一緒にいてあげる、そんな優しげな言葉に、祖父は険しい顔でもう止めろと諫めたが、祖母は執拗にすり寄ってきた。

 一人娘だった私の母の暦がなくなり、祖父母にはもう頼れる先がないのだ。老後の面倒を見てくれる労働力が欲しいのだ。正確に言うと祖父母ではなく、祖母には、だが。


 私は祖母に向き直って、それから、あの日の言葉を繰り返した。


「『何が閠だい!』」

「へ、へっ?」

「『こんな子産まなけりゃ、あんたがこんな目に遭うこともなかったじゃないの! この子はあんたの命を吸って生まれたんだ!』」

「な、なにを」

「『何が、何が閠だい! 余りもんの閠だよ! 生まれてくるべきじゃなかった! この子は、生まれてくるべきじゃなかったんだ!』」


 私の生を否定する言葉。

 それが、祖母が私に投げかけた最初の言葉だということを、私はよくよく覚えていた。


「おまえ、そんなことを言ったのか! 暦に、この子に!」

「ち、ちがう、あたしゃ何にも知らないよ!」


 もめ始める祖父母に、私はもう興味を失っていた。

 祖母の言葉も間違ってはいないなとただぼんやり思っていた。


 私は母の命を吸って生まれてきて、そして誰のためにもならない余り物として、今こうして取り残されているのだった。






用語解説


・いちご2%

 少女漫画。合成甘味料と香料でできたような甘ったるい学園生活は、しかし常に二パーセントの本音を秘めている。


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