第八話 鉄砲百合と氷の底
前回のあらすじ
森の中、亡くなったはずの母親と遭遇するリリオ。
いよいよもってこの森はまともではない。
暖かい。
ここは、暖かい。
焚火の火は暖かく、お腹はすっかり満たされて、そして、そして。
「大丈夫ですか、トルンペート」
そして、ここにはリリオがいる。
あたしと同じようにもこもこに着ぶくれたリリオが、あたしの隣で身を寄せ合って、体温を共有している。
「大丈夫よ」
「眠いでしょう? 私が火の番をしますから、眠ってしまってもいいんですよ」
「大丈夫よ」
本当は今すぐにでも、鉛のように重くなった瞼を閉じて、何もかも放り出してぐっすりと眠ってしまいたい。柔らかなぬくもりに包まれて、考えることさえ放棄して、ひと時の安らぎに身を任せたい。
でも駄目。
駄目なのよ。
私は眠っちゃいけない。
「いいんですよ、トルンペート。もう大丈夫です」
リリオの声が優しく響く。
ああ、なんて頼もしく育ってくれたんだろう。
ずっとあたしがお姉ちゃんをやっていたのに、リリオはいつの間にかこんなに大きくなった。
背は低いままだけど。
でも駄目だ。
駄目なんだって。
私は眠るわけにはいかない。
「外は寒い寒い吹雪です。いまはゆっくり休みましょう」
瞼が落ちそうになる。
意識が落ちそうになる。
夢の中へ落ちそうになる。
ぱちりぱちりと暖炉の薪が爆ぜる音がする。
石壁に囲まれて吹雪の音は遠く遠く、並ぶ壁掛け絨毯に織られた竜殺しの英雄たちが力強くあたしたちを見下ろしている。
漂う甘酸っぱい香りは、リリオが暖炉の火で焼いている
あたしの肩を抱いたリリオの指先が、とんとんと心地よい調子で叩く。
すぐそばのリリオの鼻先で、優しい旋律が口遊まれる。
それは、ああ、子守歌だ。
懐かしい、子守歌だ。
奥方様がリリオに教え、リリオがあたしに伝え、あたしがリリオに歌ってあげた子守歌が、こうした今あたしのもとに返ってきている。
「いいんですよ、トルンペート。眠ってしまっていいんです。ここでは誰もあなたを独りにしない」
暖かな暖炉の傍。
ぎぃきいと揺れる安楽椅子に腰を落ち着けた御館様。
暖炉に放った林檎の焼き加減を眺めるティグロ様。
リリオが拾って結局御館様が面倒を見ることになったプラテーノが、暖炉の傍のぬくもった床にうずくまって離れようとしない。
そして、そしてあたしはもこもこに着ぶくれて、リリオの大きな腕に抱かれて、あたしは、あたしは。
あたし、は、
「――――ッガァッ!!」
あたしは、眠っちゃいけない。
腕に突き刺したナイフの痛みが、鉛のような眠気を押しのけて、あたしを覚醒させる。
まだだ、まだ足りない。
リリオの体を押しのけて、あたしは幼かったころのあたしの体を突き刺す。
これは、こんなのはあたしの体じゃあない。
今のあたしはリリオよりちょっとばかし大きくて、胸の大きさは変わらないかもしれないけど、でも背伸びすりゃあいつのつむじを眺められるようになって、そうだ、そうだ、こんな暖炉のあったかい部屋なんてなかった。御館様は仕事で忙しくていつも疲れていたし、ティグロ様はひとところに落ち着かなかった。
リリオだってそうだ。あの子がこんなにおとなしいわけがない。
あたしの体をバラバラにしながら、あの子は吹雪の丘で遊ぶような子だった。
びりびりと夢を引き裂いて、あたしはあたしの体を取り戻す。
ちょっとばかりリリオを見下ろせて、相変わらず胸はぺたんこで、それでも、それでも、あの頃よりずっと強くなったあたし自身を。
「トルンペート、無理しなくていいんですよ」
リリオの声があたしの棘を柔らかく溶かす。
「トルンペート、君はよくやってくれている」
御館様の声があたしのナイフを鈍らにする。
「トルンペート、いもうとのことを頼んだよ」
ティグロ様の声があたしの瞼を重たくする。
暖かな暖炉の火が、暖かな皆の声が、あたしのおそれや不安をとろかしていく。
それはとてもとても心地よくて、それはとてもとても優しくて、そして、
「ふ、ざける、な……ッ!」
そして、これ以上なく腹が立つ。
あたしはナイフを振り上げて、眠りかけた心臓に振り下ろす。
冷たいナイフが、とろけた心臓をきりりと冷やして凍らせる。
そうだ、あたしの心臓はトロトロ弱火でくすぶったりしない。
氷のように冷たくて、そうして、雪崩のように激しいものだ。
そうだ!
突き刺した傷口からあふれるのは、あたしの血、あたしの命、そしてあたしの怒りだ。
人形のように育てられ、女中として鍛え直され、それでもなおずっと心臓の中にあったのはこの激しさだ。
あたしは弾けるようにできている。あたしは跳ぶようにできている。
あたしの名はトルンペート。鉄砲百合のトルンペート。
「まやかし風情が、あたしの名を呼ぶんじゃあない!!」
用語解説
・プラテーノ
白金を意味する
リリオは幼少のころから様々な生き物を拾っては、最終的に父親が面倒を見る羽目になるということを繰り返している。
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