第七話 白百合と不思議の森
前回のあらすじ
閠もまたひとり、奇妙な森の中を彷徨っていた。
そして変わりばえしない景色の中、徐々に記憶の地層を掘り進んでいくのだった。
白兎を追いかけて走るうちに、私はどうやらどんどん森の深みへと踏み込んでしまったようでした。
木々は辺境のものによく似た針葉樹林が増え始め、聞こえる鳥の声に馴染み深い故郷のものが混じり始め、気づけばそこは懐かしき我が庭、家の裏の森とよく似た光景となっていました。
北部にもこのような森があるのかとなんだか懐かしさに浸りながら、それでも手足は容赦なく兎を追いかけているのですが、一向に追いつきません。
もうほとんど全力疾走と言っていいほどに走っているというのに、勢いを増せば増すほど、兎もまた足を速めて駆け抜けていくように感じられます。
いくらなんでもこの兎はおかしいのではないでしょうか。
鈍い鈍いと言われる私でもさすがにそう感じ始めてきました。
この程度であれば私はいくら走っても疲れたりはしません。
しかし、いつまでたっても全然距離の縮まらないことに、また森の景色のどこまでも続くことに、体よりも先に心の方が参ってきました。
しまいにはもう、頭で考えて走るというより、目の前に兎がいるから反射で体が動いているというような、そんな始末でした。
もう諦めてしまおうか、そう足を緩めようとする度に、兎はちらりとこちらを振り向いて、小馬鹿にするようにくるりと回って踊ります。
それでまたむっとして我武者羅に追いかけるのですが、それが何度も続くと、体はともかく心がへとへとになってきます。
これで森の景色がもっとはっきりと変わってくれるのならいいのですが、じれったくなる程、あたりの光景は変わらないままです。いつの間にか変わっているのに、それがいつなのか気付けない。ふと顔を向けると確かに変わっているのに、意識がそれるともうただの緑色にしか見えない。
兎は相変わらず私の前を走り、私は相変わらず全力で走り続け、景色はまるで変わりばえもせず、これではまるでその場にとどまるために走り続けているようではないですか!
しかしそのような不満と祈りが通じたのでしょうか、やがて森は劇的に姿を変え始めました。
木々はまばらになり始め、足元は踏み固められたように固くなり、透明な日差しが木漏れ日となって降り注ぎ、肌寒い秋の空気に
私は思わず立ち止まって、周囲をぐるりと見まわしました。
気づけばあれだけうっそうと茂っていた森は、よく人の通いなれたように踏み固められた林に取って代わられ、木々とキノコと落ち葉の匂いに満ちていた空気は、
これは。
これでは、まるで。
兎はちらりと振り向いて、林の向こうへと誘います。
私はなんだか恐ろしいような、或いは期待するような、そんな不思議なドキドキを感じながら、ゆっくりと林の奥へと足を向けていました。
ここは、この林は、辺境の、くにの、実家の裏手の森によく似ていました。
肌寒い秋の空気も、きらきらと目に眩しい木漏れ日も、そして辺境では手に入りづらい、しかし私にとっては馴染み深い
辺境は一年の半分は雪に覆われ、残りの半分も、雪解けの短い春と、涼しい夏、それにわずかな秋の間だけ、人々はほっと一息つけるのでした。
南部からやってきた母にとっては、夏ですら辺境は寒いのねと言うくらいに、この土地は人が生きるのにはつらい場所でした。
そんな母にとって、暖かな南部を思わせる故郷の味が、かぐわしい
よく晴れた天気の良い午後、母はよく裏手の林に席を設けて、
幼い私にとって、
でも、それでも、そのかぐわしい香りは、その香りだけは、幼心にも心地よいものと感じられました。
だってその香りは、
兎を追って林を抜けると、不意に日の光が差し込んで、私は目を細めました。
いえ、あるいはその光景に眩しさのようなものを感じ、身構えてしまったのかもしれません。
「あら、リリオ」
その声は。
「寒いでしょう、こっちへいらっしゃいな」
その姿は。
「一緒に
その笑顔は。
「甘いお菓子も持ってきたの」
もこもこと分厚く着ぶくれて、それでもなお寒そうに
象牙のように艶やかな白い髪。柔らかな褐色の肌。零れるような翡翠の瞳。
それは確かに。
「……
それは確かに母の姿でした。
四年前に亡くなった、母の姿でした。
用語解説
・母様
リリオが幼い頃に亡くなったという母親なのだろうか。
この森は、奇妙だ。
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